第10話 アイドルは辞められない(後編)
決戦の日の朝。
俺、遠藤悟は、リビングのソファで小さな温もりと格闘していた。
「ミャウ! ミャァ!」
黒猫のチビが、俺の胸の上をアスレチック広場か何かと勘違いして登ってくる。
小さな爪がシャツ越しに食い込むが、痛いというよりこそばゆい。
俺が指先で顎の下を撫でてやると、チビは「グルグル」と喉を鳴らし、俺の手のひらに頭突きをしてきた。甘えているのだ。
「……お前はいいなぁ、平和で」
俺はチビのフワフワのお腹に顔を埋めた。吸う。猫成分を摂取する。
ミルクの甘い匂いと、日向のような匂いが混ざり合った、至高のアロマだ。
荒んだ心が浄化されていくのを感じる。
「サトル、猫吸いしてる場合じゃないわよ」
背後から呆れたような声がした。
振り返ると、そこには戦闘準備を整えた――いや、「女優」としての衣装を完璧に着こなした三浦陽子が立っていた。
今日の彼女は、鮮やかなロイヤルブルーのタイトスーツに、大ぶりのパールのネックレス。髪は夜会巻きにまとめ上げ、知性と色気を兼ね備えた「敏腕女性経営者」そのものだ。
「おはようございます、陽子さん。……今日も完璧ですね」
「当然よ。今日の舞台はライブ会場。観客は満員。主役の私が輝かなくてどうするの?」
彼女は自信満々にウィンクした。
そうだ。今夜は、依頼人であるアイドル・松本アリサの所属グループ『エンジェル・ティアーズ』のワンマンライブがある。
ターゲットの大河内社長は、そこで俺たちに「商品」としてのアイドルの価値を見せつけようとしているのだ。
最高の晴れ舞台を、最悪の処刑台に変えてやる。
それが今回のシナリオだ。
午後5時。
俺と陽子は、大河内社長の案内で『シャイニング・プロモーション』の事務所を訪れていた。
雑居ビルのワンフロアにあるオフィスは、昨日の高級クラブとは打って変わって薄汚れていた。
「いやー、散らかっていて申し訳ない! キャサリン様をお迎えするのに、掃除も行き届かず……」
大河内が揉み手をしながら言い訳をする。
陽子は、サングラス越しに冷ややかな視線で室内を一瞥した。
「構わないわ。クリエイティブな現場というのは、得てして混沌としているものよ」
「さ、さすがキャサリン様! ご理解が早い!」
「それより、約束のものは?」
陽子が単刀直入に切り出すと、大河内はデスクの上に積み上げられたファイルを指差した。
「こちらです。過去3年分の決算書、所属タレントの契約書、すべて揃えてあります!」
もちろん、全て改ざん済みの「表向き」の書類だ。
だが、俺たちの目的はこの紙切れではない。
「サトル、確認して」
「畏まりました、ボス」
俺は秘書として恭しく一礼し、書類を手に取るふりをして、デスクの脇にあるWi-Fiルーターの近くに鞄を置いた。
鞄の中には、アストリッド特製の小型中継機が入っている。
これで、この事務所のネットワークは外部のアストリッドと直結した。
『アクセス確認。……セキュリティ、ザルすぎ。30秒で抜くよ』
インカムからアストリッドの軽い声が聞こえる。
俺は時間を稼ぐため、わざとゆっくりと書類をめくった。
「……ふむ。利益率が素晴らしいですね。経費削減の努力が見て取れます」
「でしょ!? 無駄なコストは徹底的にカットしてますから!」
大河内が得意げに笑う。その「無駄なコスト」の中に、アイドルたちの給料や安全が含まれていることを、こいつは理解していない。
『ビンゴ! 裏帳簿ゲット。……うわ、脱税のエビデンスだらけ。これだけで懲役いけるね』
『ついでに社長のPCから「隠しフォルダ」も抜いたよ。枕営業の強要メール、未成年との不適切な写真……全部ある。真っ黒だね』
アストリッドの報告に、俺は怒りで書類を握りつぶしそうになるのを必死で堪えた。
この男は、アイドルの夢を食い物にする寄生虫だ。
「サトル? どうしたの?」
「いえ……素晴らしい数字だと感心しておりました」
俺は笑顔で顔を上げた。
証拠は揃った。あとは、仕上げだ。
「結構よ。書類に問題はないようね」
陽子が立ち上がった。
「それでは、これからライブを拝見させていただくわ。そのステージを見て、最終的な出資額を決めましょう」
「はい! 最高の席をご用意しております! 『エンジェル・ティアーズ』のパフォーマンスを見れば、30億でも安いと思っていただけますよ!」
大河内は満面の笑みで俺たちをエスコートした。
その笑顔がいつまで続くか、見ものだ。
午後7時。
ライブハウスは、熱気に包まれていた。
キャパシティ500人ほどの会場は満員で、色とりどりのサイリウムが波のように揺れている。
ステージ上では、フリフリの衣装を着た少女たちが、汗だくになって歌い、踊っていた。
「♪〜君に届け、エンジェル・ビーム!」
センターで笑顔を振りまいているのは、依頼人の松本アリサだ。
昨日の怯えた様子が嘘のように、彼女は輝いていた。
これがプロか。
どんなに辛い状況でも、ファンの前では笑顔を絶やさない。その健気さに、胸が締め付けられる。
俺と陽子、そして大河内は、二階にある関係者席からその様子を見下ろしていた。
「どうです? あの子がセンターの松本です。一番人気でしてね」
大河内がシャンパングラスを片手に、下卑た笑みを浮かべる。
「歌もダンスも完璧だわ。……でも、少し痩せすぎじゃないかしら? ちゃんと食事は与えているの?」
「アイドルの体型管理も仕事のうちですよ。太ったら商品価値が下がりますからね」
商品価値。
またその言葉だ。
「それに、あの子は特に素直でしてね。私の言うことなら、何でも聞くんですよ。『何でも』ね」
大河内が意味ありげに陽子の方へ体を寄せる。
酒が回っているのか、気が大きくなっているようだ。
彼は陽子の肩に手を回そうとした。
「キャサリン様も、お美しい。……もしよろしければ、契約の後に個人的な『お祝い』をしませんか?」
「あら、積極的なのね」
陽子は大河内の手をふわりと躱し、逆に彼のネクタイを指先でなぞった。
「でも私、公私混同は嫌いなの。……それに、貴方のようなプレイボーイに騙されないか心配だわ」
「騙すだなんて! 私は誠実さが取り柄ですよ!」
「本当? あの子たちにも、そうやって甘い言葉を囁いているんじゃないの? 例えば……『言うことを聞かないと実家に行くぞ』とか?」
陽子の声色が、一瞬だけ鋭くなった。
だが、大河内は気づかない。
「ははは! まさか。……まあ、時には厳しく躾けることもありますけどね。飴と鞭ですよ、教育には」
「躾、ね……」
陽子はグラスを置き、俺に合図を送った。
俺はスマホを取り出し、アストリッドへ送信ボタンを押す。
『準備完了』
ステージでは、最後の曲が終わろうとしていた。
アンコールの声が響き渡る中、会場の照明が一度完全に落ちる。
闇に包まれた会場。
その時。
ジャァァァン!!
突如、スピーカーから不協和音が鳴り響いた。
そして、ステージ上の巨大スクリーンが真っ赤に染まった。
「な、なんだ!?」
大河内が立ち上がる。演出ではない。明らかな異常事態だ。
スクリーンにノイズが走り、文字が浮かび上がった。
『WARNING: 不正検出』
ざわめく観客たち。
次の瞬間、スクリーンに映し出されたのは、一枚の書類だった。
『裏帳簿』だ。
使途不明金、架空請求、そして極端に低いタレントへの報酬額。数字が次々と流れていく。
「なっ……あれは……!?」
「あら、大河内社長。あの数字、さっき見せていただいた決算書と随分違いますわね?」
陽子が冷ややかに告げる。
大河内が蒼白になって振り返る。
「き、貴様……!」
さらに、音声が流れた。
アストリッドが編集した、大河内の「暴言リミックス」だ。
『お前の実家の住所も、学校も全部知ってるんだぞ!』
『枕営業も仕事のうちだ! 嫌なら違約金1000万払え!』
『アイドルなんて使い捨てなんだよ!』
会場が静まり返り、やがて悲鳴と怒号に変わった。
ファンの怒りが爆発する。
「おい! 止めろ! 音を止めろォォォ!」
大河内がVIPルームから怒鳴るが、PA卓はすでにアストリッドの支配下だ。
そして、スポットライトがステージ中央の一点に集中した。
そこに立っていたのは、マイクを握りしめた松本アリサだった。
彼女は震えながらも、真っ直ぐにVIPルーム――大河内のいる方向を見上げた。
「……私は、もう逃げません」
彼女の声が、静まり返った会場に響く。
「大河内社長。私、松本アリサは……本日をもって、『シャイニング・プロモーション』を退職します!」
退職宣言。
ファンから、割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こる。
「辞めちまえ!」「よく言った!」「俺たちがついてるぞ!」
「ふ、ふざけるなァァァ! 誰が認めるか! 違約金だ! 損害賠償だ! お前の人生めちゃくちゃにしてやる!」
大河内が狂ったように叫び、VIPルームを飛び出そうとした。
だが、その前に立ちはだかる影があった。
「そこまでよ」
黒いレザージャケットを着た女――青木裕里子が、ドアの前に立っていた。
手には、いつものダマスカス鋼の金属板が握られている。
「だ、誰だ貴様は!」
「通りすがりの退職代行屋よ。……あんた、女の子に『人生めちゃくちゃにしてやる』なんて言うもんじゃないわ」
裕里子は一歩踏み込むと、大河内の胸ぐらを掴み上げた。
「めちゃくちゃになるのは、あんたの方よ」
ドゴォォォォン!!
裕里子の右拳が、大河内の腹部に深々と突き刺さった。
大河内は「ごふっ」と空気を吐き出し、くの字に折れ曲がって床に崩れ落ちた。
「……業務連絡。ターゲットを無力化」
裕里子は平然とインカムに告げると、倒れた大河内の目の前に金属板を突き刺した。
カァン! と甲高い音が響く。
「松本アリサの退職届、確かに受理されたわね。……あと、これもおまけよ」
彼女が投げ捨てたのは、顧問弁護士・福田由希が作成した『内容証明郵便』の束だった。
未払い賃金請求、慰謝料請求、そして労働基準法違反の告発状。
陽子とアストリッドが集めた証拠データもセットだ。
「あなたはもう終わりよ。社会的にも、法的にもね」
陽子が冷たく見下ろす。
大河内は床を這いずりながら、何かを呟こうとしたが、言葉にならない。
完全にチェックメイトだ。
深夜1時。
ライブハウスの裏口で、俺たちはアリサさんと向き合っていた。
彼女は私服に着替え、小さなボストンバッグを一つ持っていた。
「本当に……ありがとうございました」
アリサさんが深々と頭を下げる。その目には、もう恐怖の色はない。
「これからはどうするの?」
裕里子がぶっきらぼうに尋ねる。
「田舎に帰って、少し休みます。でも……歌うことは諦めません。いつかまた、自分の力でステージに立ちたいです」
「そう。……いい顔になったわね」
裕里子は珍しく口元を緩めると、ポケットから何かを取り出した。
マカロンだった。
……あれ? おやつ禁止令が出ているはずじゃ?
「これ、あげる。疲れた時は甘いものに限るわよ」
「えっ、いいんですか?」
「特別よ。……誰かさんには内緒ね」
アリサさんはマカロンを受け取り、花が咲いたように笑った。
「はい! いただきます!」
彼女はタクシーに乗り込み、去っていった。
俺たちはそれを見送った。
「……さて、帰りますか」
俺が伸びをすると、陽子さんが俺の背中に飛びついてきた。
「サトルー! お疲れ様! 今日の私の演技、100点満点だったでしょ!?」
「はいはい、120点ですよ。重いです陽子さん」
「冷たいわねぇ! もっと情熱的に褒めてよ!」
陽子さんに絡まれながら、俺たちはハイエースに向かって歩き出す。
アストリッドが運転席でピースサインを出し、後部座席では裕里子がタバコに火をつけている。
ふと、裕里子が言った。
「サトル。あんたの猫、名前決まった?」
「え? いや、まだチビのままですけど」
「そう。……まあ、ゆっくり考えなさい」
紫煙を吐き出す彼女の横顔は、どこか満足げだった。
今回の依頼も、無事に完了した。
一人の少女を、地獄から救い出した。
その事実は、借金まみれでマイナス給料の俺の心にも、確かな温かさを残してくれる。
「……帰ったら、チビにもお祝いのミルクあげないとな」
俺の独り言に、全員が笑った。
夜風が心地よい。
ミッドナイト・エグジット。
明日もまた、誰かの「辞めたい」を叶えるために、俺たちは夜を駆ける。




