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社畜の俺、伝説の元スパイと「深夜0時の退職代行」始めます。~ブラック企業からヤクザの組まで、物理と法律で「円満退社」させます~  作者: 伊達ジン
【第3章】 過去からの亡霊

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第54話 法廷のメデューサ

 東京地方裁判所、民事部法廷の傍聴席。

 硬い木製の長椅子に座りながら、俺は自分の掌がじっとりと汗ばんでいるのを感じていた。

 退職代行を済ませたはずの依頼人・橋本さんから、「会社から巨額の損害賠償と刑事告訴で脅されている」という悲痛なSOSが届いてから、すでに半年近い月日が流れていた。

 日本の民事訴訟の手続きは長い。提訴から第1回口頭弁論、そして数ヶ月にわたる争点整理の手続きを経て、ついに今日、この裁判における最大の山場である「証人尋問」の日を迎えていたのだ。その間、俺たちは他の退職代行の任務をこなしながら、由希さんとくるみさんは相手の「退職阻止コンサルタント」であるリーガル・シールド・コンサルティングの狡猾な手口を丸裸にするため、水面下で膨大な資料と格闘し続けてきた。

 張り詰めた空気が漂う法廷の中で、俺はネクタイを少し緩め、今朝アジトを出る前の光景を頭の片隅に呼び起こし、強張った肩の力を抜こうと試みた。


 ――今朝のアジトのリビング。


 由希さんが法廷に持ち込むための分厚い黒のレザーバッグを開けたままソファに置き、別室に上着を取りに行っていた時のことだ。

 俺がコーヒーを淹れ終えてリビングに戻ると、バッグの口が不自然にこんもりと盛り上がっていた。不思議に思って近づくと、黒いバッグの奥から、ビー玉のような琥珀色の丸い瞳が二つ、こちらを見つめ返してきたのだ。黒猫のチビだった。

 黒いバッグの闇に完全に同化していたチビは、狭くて暗い場所を見つけてすっかりお気に召したのか、中で丸くなってスヤスヤと寝息を立てていた。


『……ちょっと。私の大事な証拠書類が毛だらけになるじゃない』


 戻ってきた由希さんがため息をついた。だが、彼女はチビを乱暴に追い出すことはせず、柔らかな背中を指先で優しく何度か撫でてから、そっと両手で抱き上げた。チビは名残惜しそうに「ミャウ」と鳴き、由希さんの親指をザラザラの舌でペロペロと舐めていた。

 あの小さな温もりと、普段は冷徹な由希さんが見せた微かな微笑み。それを思い出すと、少しだけ俺の呼吸が整うのが分かった。


 法廷の正面、証言台の前に立っているのは、システム開発会社の若手プログラマー、木戸という男だ。被告である橋本さんの元同僚である。

 そして、原告席でふんぞり返っているのが、退職阻止コンサルタントから派遣された代理人弁護士、三上だった。高価なストライプのスーツを着こなす三上は、口元にねっとりとした笑みを浮かべながら、証人である木戸へ尋問を行っていた。


「木戸さん。被告である橋本氏が退職を強行した日の夜、あなたは彼から直接、恐ろしい言葉を聞いたのですね?」

「は、はい」


 証言台の木戸は、視線を泳がせながらマイクに向かって答えた。


「橋本さんは、『会社にはもう耐えられない。裏の連中を雇って、サーバー室のデータを全部めちゃくちゃにしてやる』と……そう、言っていました」

「なるほど」


 三上は芝居がかった手つきで頷き、裁判官へと向き直った。


「裁判長。証人の言葉通り、被告は自身の退職を有利に進めるため、外部の人間と結託して原告企業の基幹システムを物理的に破壊しました。これは極めて悪質な企業テロであり、原告が被った数億円規模の損害賠償は免れません」


 傍聴席にいる俺の胃の奥が、ギリッと痛んだ。

 被告席に座る依頼人の橋本さんは、彼らが用意した完璧な包囲網と半年にわたる重圧で顔面を蒼白にし、震える両手を膝の上で固く握りしめている。


 だが、その隣に座る二人の女性の背中には、微塵の揺らぎもなかった。

 深いネイビーのスーツに身を包んだ顧問弁護士の福田由希さんと、上品なベージュのセットアップを着こなす藤井くるみさんだ。

 くるみさんは、手元の資料には目もくれず、証言台で口を開く木戸の顔の筋肉の動き、呼吸の深さ、視線の推移だけを、冷徹な観察者の目で追っていた。

 三上の尋問が進むにつれ、くるみさんが静かにペンを取り、付箋に短い一行だけを書き込んだ。それを、隣に座る由希さんの手元へと無言で滑らせる。

 付箋を一瞥した由希さんは、表情を変えぬまま小さく頷いた。


「では、原告側の尋問を終わります」


 三上が満足げに席に戻る。裁判長が、被告席へ視線を向けた。


「反対尋問はありますか」

「はい」


 由希さんが静かに立ち上がった。

 彼女が証言台へと歩み寄る足音が、静まり返った法廷に響く。ピンと伸びた背筋と、感情を排した瞳が、木戸を真っ直ぐに捉えた。


「証人に伺います。橋本氏が『裏の連中を雇う』と発言した際、あなたは非常に恐怖を感じたとおっしゃいましたね」

「そ、そうです。彼は思い詰めた様子だったので」

「なるほど。では、なぜあなたは証言中、三秒に一回の頻度で、原告代理人の三上弁護士へ視線を送るのですか?」


 木戸の肩が、ビクッと跳ねた。


「え……?」

「あなたの左肩は不自然に強張り、喉仏は先ほどから過剰に上下しています。瞬きの回数も、宣誓台に立った直後と比較して明らかに増加している。……これは、発言の記憶を辿っている人間の反応ではありません。自分が暗記した『台本』を間違えずに言えているか、監督者の顔色を窺う人間の典型的なストレス反応です」

「な、何を馬鹿な……!」

「裁判長、異議あり!」


 原告席から三上が慌てて立ち上がる。


「代理人の主観的な印象操作です。証人を不当に威圧しています!」

「異議を却下します。尋問を続けてください」


 裁判長からの促しを受け、由希さんは三上の抗議を一蹴し、さらに踏み込んだ。


「木戸さん。あなたは恐怖を感じたと言いながら、直後に橋本氏に送信した社内チャットでは『明日のミーティングの件、よろしくお願いします』と極めて日常的な業務連絡を行っています。恐怖を感じた人間が、テロを予告した相手に翌日のスケジュール確認を行いますか?」

「そ、それは……業務を滞らせないためで……」

「では、甲第24号証をご覧ください」


 由希さんは手元のファイルから一枚の印刷物を取り出し、法廷のモニターに提示した。


「これは、あなたが橋本氏の破壊工作を『聞いた』とされる翌日の、原告企業の人事部長と、そこに座る三上弁護士との間のメール履歴です。……公的な労働基準監督署への内部告発窓口に匿名で提出され、本法廷に証拠採用されたものです」


 三上の顔から、スッと血の気が引いたのが傍聴席からでも分かった。


「メールにはこう書かれています。『チーフのポストを確約すれば、木戸は確実に我々のシナリオ通りに証言する。彼には断れない』と」

「……ッ!」


 木戸が血走った目で三上を睨みつけた。


「これは、明確な偽証の教唆です。木戸さん、民事訴訟における宣誓下の偽証は、刑法第169条により三ヶ月以上十年以下の懲役に処されます。原告企業は、あなたに橋本氏を売らせる対価として、あなた自身を重大な犯罪の実行犯に仕立て上げているのですよ」

「ち、違う! 俺は三上弁護士に言われた通りに……!」


 木戸はパニックに陥り、マイクに向かって裏返った声を上げた。


「貴様、何を言っている! でたらめだ!」


 三上が血相を変えて木戸を怒鳴りつけ、そのまま裁判長に向かって叫んだ。


「裁判長! なんだその出所不明のデータは! これは違法に収集された捏造データであり、証拠能力はありません!」

「違法性はありません」


 三上の怒声を、由希さんの冷え切った声が鋭く切り裂いた。


「本証拠は、原告企業のずさんなセキュリティ管理により外部に流出したデータを、第三者が公益通報として提出したものです。証拠能力に問題がないことは、本日の開廷前に書面で確認済みのはずですが。……証拠目録にも目を通さずに法廷に立たれたのですか?」

「ぐっ……ま、待て、それは会社側の人間が勝手にやったことで、私は一切関与していない! 私はコンサルとして法的な助言をしただけで……!」


 三上はネクタイを乱暴に緩めながら、額から脂汗を流して見苦しく責任を逃れようとした。

 だが、由希さんはその言葉を完全に遮り、冷酷な宣告を下した。


「言い訳は懲戒委員会でどうぞ。……当職はただちに、原告企業およびあなた自身に対し、訴訟詐欺、偽証教唆、ならびに不当提訴に対する巨額の損害賠償と、弁護士会への懲戒請求を伴う反訴の手続きに移行します」


 法廷が、冷ややかな沈黙に包まれた。

 三上は何かを言い返そうと口をパクパクと動かしたが、決定的な証拠と逃げ場のない論理の刃を前に、喉からかすれた音が出るだけだった。彼が弁護士として築き上げてきた虚飾の経歴が、足元から音を立てて崩れ去っていく音が聞こえるようだった。

 くるみさんが、被告席で静かに脚を組み替え、冷ややかな視線を三上に向ける。

 裁判官が、静かに手元の記録に目を落とす。勝敗は、誰の目にも明らかだった。


 数十分後。

 閉廷後の裁判所のロビーで、俺は橋本さんを連れて出てきた由希さんとくるみさんに歩み寄った。

 橋本さんは膝から崩れ落ちそうなほど安堵した顔で、何度も二人に深く頭を下げていた。


「原告側から、ただちに訴えの取り下げと和解の打診がありましたわ。もちろん、橋本さんへの多額の解決金を含めた全面降伏の条件で」


 くるみさんが、ふんわりとした笑みを浮かべて俺に報告する。


「当然ね。偽証教唆が明るみに出れば、あの弁護士もコンサル会社も終わりよ。橋本さんの名誉は完全に回復されるわ」


 由希さんは書類をバッグにしまいながら、淡々と言った。


「お疲れ様でした、お二人とも。橋本さんも」


 俺は持参していた保温ボトルを開け、由希さんには深煎りのブラックコーヒーを、くるみさんにはアールグレイの紅茶を注いで手渡した。


「……美味しいわ。遠藤くんの淹れるコーヒーは、法廷の空気よりずっと澄んでいるわね」


 由希さんがカップを傾け、ほんの少しだけ口角を上げた。


「さあ、帰りましょう。アストリッドたちが次の依頼を抱えて待っているわ」


 俺たちは踵を返し、裁判所の長い廊下を歩き始めた。静かな大理石の床に、由希さんのヒールの音と俺たちの足音が、リズミカルに重なって響いていた。

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