第53話 退職阻止のプロフェッショナル
午後三時。遅い昼食の片付けを終えた新しいアジトのリビングには、秋の柔らかな日差しが差し込んでいた。
窓辺に設置されたキャットタワーの最上段。ぽかぽかとした陽だまりの中で、黒猫のチビが長いしっぽをだらりと垂らし、無防備にお腹を見せて寝転がっている。
俺はソファから立ち上がり、チビ専用のシリコン製ラバーブラシを手に取った。
「ほら、ブラッシングの時間だぞ」
俺が背中からしっぽにかけてゆっくりとブラシを滑らせると、チビは目を細め、身体を弓のように反らせて気持ちよさそうに身を捩った。柔らかな黒い毛が太陽の光を反射して艶やかに輝く。ブラシの適度な刺激が心地よいのか、チビの喉の奥から、低く深く振動するような音が響き始めた。
俺がブラシを置いて顎の下を指先で優しく掻いてやると、チビはピンク色の小さな舌を出して、俺の親指の付け根をザラザラと舐めてきた。
あの日、クロノスの残党との激戦の末に手に入れた新しいアジト。莫大な借金は重くのしかかっているが、俺の指を舐めるチビの小さな温もりと、こうして流れる静かで穏やかな時間が、俺にとって何よりも代えがたい日常になっていた。
「……サトル・サン。ちょっとマズいことになったよん」
リビングのドアが勢いよく開き、アストリッドがノートPCを抱えて飛び込んできた。その碧い瞳には、いつもの陽気さが消え、ひどく強張った色が浮かんでいる。
由希さんはキッチンのアイランドカウンターで、分厚いロックグラスに注がれた琥珀色のウイスキーをゆっくりと傾けていた。休日の昼下がりから度数の強い酒を嗜むのは、彼女の変わらないルーティンだ。グラスの中で氷がカラン、と涼しげな音を立てる。
くるみさんは窓際のデスクで、難解な心理学の専門書をめくっていた。アストリッドのただならぬ声色に、二人は同時に顔を上げる。
「この間、私たちが潜入したシステム開発会社のプログラマー……無事に退職代行を済ませた橋本さんから、さっきSOSのメッセージが届いたんだ」
由希さんがグラスをカウンターに置き、静かな足取りでテーブルに近づく。
「退職は完璧に成立させたはずよ。相手の人事部には、私が直接、内容証明で退職届を叩きつけたわ」
「うん。でも、これを見て」
アストリッドがPCの画面をこちらに向けた。
そこには、依頼人から送られてきたという、数枚にわたる書面の画像データが映し出されていた。
由希さんが画面を覗き込み、スワイプして文面を素早く読み進める。その整った眉間に、徐々に深い皺が寄っていった。
「……『雇用契約の解除無効確認』『基幹システムに対する意図的な物理破壊行為に基づく巨額の損害賠償請求』、そして……『企業秘密漏洩の疑いによる刑事告訴の準備』」
由希さんが読み上げた言葉に、俺は息を呑んだ。
「ちょっと待ってください。サーバーを物理的に破壊したのは裕里子さんです。橋本さんは何も……」
「向こうはそんなこと、最初から分かっているはずよ」
由希さんはウイスキーの残りを一口で呷り、重い息を吐いた。
「……本当にタチが悪いわね。あいつら、システムがダウンして監視の目が潰れていた空白の時間を逆手に取ったのよ。あのタイミングで退職を強行した橋本さんが、『腹いせに外部の人間を引き入れてシステムを破壊させた』という絵図を勝手にでっち上げて、すべての責任を彼に押し付ける気だわ」
くるみさんが書面の画像データを指先で拡大し、じっと見つめる。数秒の沈黙の後、彼女は眼鏡を中指で押し上げた。
「……不自然ですわね。この文面、ただの開発会社の法務部が、ここまでの短期間で構築できるロジックではありません。損害額の算定根拠を意図的にぼかしながら、民事の請求と刑事告訴のチラつかせを絶妙に混ぜ込み、対象の心理的圧迫を最大化している。……明らかに、法律の隙間を突くことに慣れたプロの手口ですわ」
「プロ?」
俺は尋ねた。
「ええ。昨今、クロノスのような巨大な悪が崩壊した裏で、より巧妙で陰湿なビジネスが台頭し始めています。『退職阻止コンサルタント』……いわゆる、アンチ・エグジットと呼ばれる連中ですわ」
くるみさんは自らのノートPCを開き、高速でタイピングを始めた。数分間、リビングにはキーボードを叩く乾いた音だけが響く。やがて、彼女は画面をターンさせた。
「……ビンゴですわ。対象企業の資金の流れを追ったところ、数日前から急に『リーガル・シールド・コンサルティング』という新興企業へ、高額の顧問料が振り込まれています。表向きは企業防衛のコンサルティングですが、実態はブラック企業向けに『絶対に社員を辞めさせないメソッド』を売っている連中です」
「見せしめよ」
由希さんが静かに、だが怒りを込めて言った。
「あの会社は劣悪な環境で社員を限界まで酷使している。あのまま橋本さんが無傷で辞められたら、後に続く人間が出てくる。連鎖退職が起きることを何よりも恐れているのよ。だから、辞めた人間を徹底的に叩き潰して、残った社員に『辞めたら地獄を見る』と刷り込む。そのための外部委託ね」
アストリッドが暗い顔で画面をスクロールする。
「依頼人からのメッセージ。『もう耐えられない』『自分が全部やったことにして謝罪すれば、刑事告訴だけは取り下げてくれると言われた』『会社に戻ります』……って」
「典型的な脅しの手口ね」
いつの間にかリビングに現れた裕里子が、壁に寄りかかりながら冷たく言い放った。
「孤立させて、圧倒的な力の差を見せつけて、最後は自分から服従するように仕向ける。……くだらないわ。私が直接そこのコンサルの事務所に乗り込んで、社長の頭に退職届を叩き込んでやろうか?」
「ダメよ、裕里子」
由希さんが毅然とした声で制止した。
「今回ばかりは、あなたの武力は最悪の悪手になるわ。向こうは、橋本さんが『反社会的勢力』と繋がっているというストーリーを描こうとしている。私たちがここで暴力に訴えれば、連中のシナリオを裏付ける決定的な証拠を与えてしまうことになる」
裕里子が不満げに舌打ちをする。
「……面倒ね。じゃあ、どうするの」
由希さんは腕を組み、しばらく沈黙した。巧妙に仕組まれた法的な罠。それをどうやって崩すか、冷徹な頭脳で無数のシミュレーションを走らせているのだ。やがて、彼女は顔を上げ、瞳に揺るぎない闘志の光を宿した。
「相手が法律という武器で不当な暴力を振るうなら、法廷というリングに引きずり出して完全に粉砕するしかないわ。彼らの主張の法的な瑕疵を一つ残らず洗い出し、逆にこちらから不当な脅迫と労働基準法違反で訴え返す」
由希さんは手元のタブレットを開き、依頼人への連絡の準備を始めた。
「くるみ。相手のコンサルタント会社の代表と、担当弁護士の経歴を洗って。どんな人間にも、必ず思考の癖や心理的な死角があるはずよ」
「承知いたしましたわ。過去の訴訟記録をすべて集めて、彼らの法廷での手口を丸裸にして差し上げます」
くるみさんが優雅に微笑む。
「アストリッドは、相手の会社とコンサルの間で交わされた通信ログを追って。彼らが『脅迫』を意図してこの書面を作成したという証拠の欠片でもあれば、こちらの武器になるわ」
「任せておいてよん!」
「冬美ちゃんと陽子は……」
「ウチらが橋本さんば保護しに行くけん」
奥の部屋から顔を出した冬美ちゃんが、警棒を腰に差しながら言った。隣には、すでに外出用のコートを羽織った陽子さんが立っている。
「実家や今の住まいは、すでに相手の監視下にある可能性が高いばい。陽子さんの車で迎えに行って、相手の目を撒きながら安全なセーフハウスに身柄を移すけん。絶対に奴らとは接触させんよ」
冬美ちゃんが力強く頷いた。
チームの空気が、一瞬にして「仕事」のモードへと完全に切り替わる。
俺はキャットタワーで眠るチビの頭をそっと撫でてから、立ち上がった。
「由希さん。俺は、橋本さんが少しでも落ち着けるような、温かく消化の良い食事を用意してセーフハウスに向かいます。鶏の治部煮と、生姜をたっぷりと効かせた卵あんかけうどんを作りますよ。極度のストレスと恐怖に晒されている時は、胃腸から温めるのが一番ですから」
由希さんが、張り詰めていた表情を少しだけ和らげた。
「……ありがとう、遠藤くん。助かるわ」
由希さんはタブレットの画面に視線を戻し、目まぐるしい速度でタイピングを開始した。
俺はキッチンのエプロンを手に取り、冷蔵庫から出汁昆布と鶏肉を取り出すため、静かに歩みを進めた。




