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社畜の俺、伝説の元スパイと「深夜0時の退職代行」始めます。~ブラック企業からヤクザの組まで、物理と法律で「円満退社」させます~  作者: 伊達ジン
【第3章】 過去からの亡霊

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第52話 AIの目を欺け

 出撃の数時間前。

 新しいアジトのキッチンで、俺は山のように積まれた玉ねぎを薄切りにしていた。

 今日の夕食は牛丼だ。だが、ただの牛丼ではない。安価なバラ肉の脂っこさを消し、深いコクを出すために、俺は半日がかりで丸鶏から取った濃厚なスープを出汁のベースに使っていた。

 甘辛い醤油と酒、みりんの黄金比の割下に、丸鶏の出汁を合わせる。そこへ大量の玉ねぎを投入し、透き通るまでじっくりと煮込んで甘みを極限まで引き出す。最後に、さっと湯通しして余分な脂を落とした赤身と脂身のバランスが良い牛肉を加え、肉が硬くならないように短時間で味を染み込ませる。

 隣のコンロでは、同じく丸鶏の出汁を使ったもやしの味噌汁が湯気を立てていた。もやしは面倒でも一つ一つひげ根を取り除くことで、土臭さが消えてシャキッとした食感だけが残る。プロ顔負けの澄んだ味に仕上がっているはずだ。

 小鉢には、塩昆布と鷹の爪で揉み込んだ白菜の浅漬けを添える。


「できましたよ。冷めないうちにどうぞ」


 どんぶりに盛った牛丼と、味噌汁、浅漬けをお盆に乗せてリビングのテーブルへ運ぶ。


「牛丼って聞いてもっとジャンクなものを想像してたけど……このお味噌汁、すごく上品な味がするわね」


 由希さんが、もやしの味噌汁を一口啜って驚いたように目を見開いた。


「鶏の出汁が効いとるばい! 玉ねぎもトロトロで、肉に味がよー染み込んどる!」


 冬美ちゃんが目を輝かせながら、どんぶりを掻き込む。


「ええ。玉ねぎの甘みと丸鶏のコクが、牛肉の旨味を完璧に引き立てていますわね」


 くるみさんも優雅な所作で箸を進めている。

 足元では、チビが丸くなって喉をゴロゴロと鳴らしながら、専用の皿に入れた茹で鶏を夢中で食べていた。


 食事が終わり、俺はコンロに火をかけてお湯を沸かした。

 戸棚から取り出したのは、ゴーヤー茶の茶葉だ。急須に茶葉を入れ、熱湯を注ぐ。

 香ばしい焙煎の香りと共に、微かな青臭さが漂う。湯呑みに注いでテーブルに並べると、裕里子が怪訝な顔をした。


「……なにこれ。すごく苦いお茶ね」

「胃腸の調子を整えるし、カフェインがないから出撃前に飲んでも神経を過敏にさせません。それに、この苦味が頭をスッキリさせてくれますから」


 俺が言うと、裕里子は渋々といった様子で湯呑みを口に運んだ。


「……苦い。でも、まあ、悪くないわね」


 お茶を飲みながら、テーブルの上では数時間後に迫った作戦の最終確認が行われていた。


「内部のサーバー室に物理デバイスを接続してデータを抜き取ることは決まったけど、問題はどうやってそこへ辿り着くかだね」


 アストリッドが、キーボードを叩きながら対象企業のオフィスの見取り図を壁のモニターに映し出す。


「最新の高解像度カメラが、フロアの隅々までカバーしてる。関係ない人間が入った瞬間に、AIが不審者として検知して警報が鳴る仕組みだよん」

「カメラの死角がないなら、カメラの目そのものを誤魔化すしかないわね」


 グレタが、白衣のポケットから小さなガラス瓶を取り出してテーブルに置いた。中には、黒っぽい粉末が入っている。


「何ですか、それ」

「カーボンマイクロコイル。電波を吸収して熱に変換する特殊な素材よ。これを特定の配置で散布すれば、一時的にその周辺の電波通信を減衰させることができるわ。ただ、広範囲に撒けばAIに異常として検知される」

「つまり、監視カメラの直下、ごく狭い範囲にだけ局所的なノイズを発生させればいいってことか」


 俺は腕を組んだ。


「AIが環境ノイズとして処理して、警報を鳴らすのをためらう程度の、自然な電波障害……」


 俺の視線が、流し台に置いてあったプラスチックの保存容器に止まった。


「……弁当箱だ」

「は?」


 裕里子が眉をひそめる。


「あの会社の社員たちは深夜まで残業させられていて、まともに席を立つことも許されていません。食事もデスクで取るしかないはずです。弁当の保温バッグの裏地に、アルミ箔とこの電波吸収素材を仕込むんです。それを、サーバー室の入り口をカバーしている監視カメラの真下のデスクに配達する。カメラの無線通信がノイズで乱れ、AIが一時的な通信エラーと判断して再接続を試みている数十秒の間だけ、カメラの映像はフリーズするはずだ」


 アストリッドが目を輝かせた。


「アナログな局所ジャミング! それなら、AIの異常検知アルゴリズムの隙間を抜けられるかもしれない!」

「潜入のシナリオは私が描くわ」


 陽子さんが艶やかに微笑む。


「冬美。配達員のユニフォーム、準備できるわね?」

「任せとき! ウチの裏ルートで、本物の制服と配達用バッグを手配するばい」


 そして、現在――午前二時。

 冷たい雨が降る都内のオフィス街。ターゲットのシステム開発会社のビルは、こんな時間にもかかわらず、いくつかのフロアの窓に明かりが灯っていた。

 ビルの正面エントランスに、一台の高級黒塗りセダンが静かに横付けされる。

 後部座席から降り立ったのは、上質なトレンチコートを羽織り、冷徹なキャリアウーマンのオーラを完全に纏った陽子さんだ。その後ろには、キャップを目深に被り、大きな保温バッグを背負った配達員姿の冬美ちゃんが付き従っている。

 陽子さんはヒールを鳴らしてエントランスに足を踏み入れると、警備員室の窓ガラスを鋭くノックした。


「お疲れ様。親会社のクロノスから特別監査で派遣された者よ」


 偽造した最上級のIDカードを提示しながら、陽子さんが傲慢な口調で言い放つ。


「こ、こんな深夜に監査ですか!?」


 初老の警備員が慌てて立ち上がる。


「ええ。劣悪な労働環境のせいで開発の進捗が遅れているって報告があってね。深夜まで残業している優秀な社員たちに、私から夜食を手配したのよ。この配達員を通しなさい」

「は、はい! どうぞ!」


 警備員は陽子さんの圧倒的な威圧感と「クロノス」という名前に完全に呑まれ、疑うことなくゲートのロックを解除した。

 二人はエレベーターに乗り込み、開発部のある3階へと向かう。


『サトル・サン、聞こえる? 二人が3階のフロアに入った』


 アストリッドの声が、インカム越しに聞こえてくる。俺はアジトのキッチンで、息を潜めてその通信を聞いていた。


『指定したデスクは、サーバー室のドアの斜め前、カメラA-4の真下だよん』

「了解。……見えたばい」


 冬美ちゃんの視界に取り付けられた超小型カメラの映像が、アストリッドのPC経由で俺たちの手元にも共有される。

 広大なオフィスフロア。数十人のプログラマーたちが、青白い顔をしてモニターに向かっている。タイピングの音だけが、無機質にフロアに響いていた。誰一人として、陽子さんたちが入ってきたことに気づく素振りすら見せない。

 陽子さんが歩みを止め、顎で冬美ちゃんに合図した。

 冬美ちゃんは目的のデスクの前に立ち止まる。


「ご注文の品です。お疲れ様です」


 声をかけられた男性社員が、ビクッと肩を震わせて振り返った。その目の下には濃い隈があり、焦点が定まっていない。


「あ、ああ……どうも」


 男性が弁当の入った袋を受け取ろうと手を伸ばした瞬間。

 冬美ちゃんはわざと手を滑らせ、保温バッグごとデスクの端にドンッと置いた。


「失礼しました。それでは」


 二人が踵を返して歩き出したのと同時に、保温バッグの裏地に仕込まれたカーボンマイクロコイルとアルミ箔の複合素材が、真上にある監視カメラの無線通信帯域に強烈な干渉を開始した。


『……カメラA-4の映像にブロックノイズ発生。AIが環境ノイズと判断し、パケットの再送を要求してる。エラーの閾値を超えるまで、あと約40秒』


 アストリッドの冷徹なカウントダウンが始まる。


「十分よ」


 オフィスの外、ビルの外壁の非常階段の踊り場で息を潜めていた裕里子が、ダマスカス鋼の退職届を抜いた。

 非常階段に面したサーバー室の排気口のルーバーを、漆黒の刃が音もなく切り裂く。

 裕里子はしなやかな動きで排気口に滑り込み、サーバー室の内部へと侵入した。

 室内の温度は低く、無数のサーバーラックが青いLEDの光を放って稼働している。

 防犯カメラのレンズは、ノイズの影響で裕里子の姿を捉えていない。

 裕里子はフロアの中央に鎮座するメインサーバーの前に立つと、側面のメンテナンスパネルを素早くこじ開け、物理ポートにUSBメモリを差し込んだ。


『接続確認! 全データ、ぶっこ抜くよん!』


 アストリッドのタイピング音がインカム越しに響く。

 数十秒の静寂。それは、果てしなく長く感じられる時間だった。


『……抽出完了! 由希さんに証拠データを全転送した! いつでもいけるよん!』


 その報告を聞いた瞬間、裕里子はUSBメモリを引き抜き、ダマスカス鋼を両手で握って大きく振りかぶった。


「これで、あんたたちの残業も終わりよ」


 漆黒の刃が、青白い光の軌跡を描いて振り下ろされる。

 硬質な破壊音が、密閉されたサーバー室に響き渡った。

 ダマスカス鋼は、分厚いスチール製のサーバーラックの装甲を切り裂き、内部の基盤を真っ二つに粉砕した。

 激しいスパークが散り、サーバー室内の冷却ファンが一斉に停止する。


『……メインサーバーのシャットダウンを確認。AIの監視システムは完全に沈黙したよん』


 アストリッドの声が聞こえた直後、オフィスのフロアの方から、社員たちのざわめきが響いてきた。

 モニターの画面から無機質な監視ダッシュボードが消え去り、彼らを縛り付けていた見えない鎖が断ち切られたのだ。

 裕里子は破壊されたサーバーの残骸を一瞥すると、ダマスカス鋼についた微かな埃を払い、再び排気口を通って闇の中へと姿を消した。


 俺はアジトのキッチンで、深く息を吐き出した。

 足元ではチビが、丸くなって静かな寝息を立てている。

 テーブルの上の湯呑みには、冷めたゴーヤー茶が残っていた。

 洗い物の準備をしようと立ち上がった時、インカムから陽子さんの艶やかな声が聞こえた。


『サトル、帰ったら美味しい夜食をお願いね。今日は少し、あっさりしたものがいいわ』

「了解です。特製の出汁茶漬けを用意して待ってますよ」


 俺はそう答えて、インカムの通信を切った。

 冷蔵庫から出汁昆布を取り出しながら、再びコンロに火を点けた。

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