第51話 深夜の再始動
シンクの蛇口から出るぬるま湯で、スポンジに含ませた洗剤の泡を丁寧に洗い流す。
クロノスとの決戦を経て、古い雑居ビルをワンフロアぶち抜いて改装したこの新しいアジトでの生活が始まってから、季節は確実に進んでいた。
ふと、キッチンの壁に貼られたカレンダーの横のホワイトボードに目をやる。そこには、くるみさんの手によって几帳面な文字で書かれた「遠藤悟・借金返済計画表」がマグネットで留められていた。
残高、1200万円。
クロノスの裏口座から引き出した特別ボーナスで以前の借金は完済したはずだったが、新アジトの敷金礼金から最新サーバーの機材代、果ては自爆させた旧アジトの損害賠償まで人数割りで押し付けられ、あっという間に借金は倍近くに膨れ上がってしまった。
到底、普通の労働で返せる額ではない。くるみさんが提示した分厚い返済計画書の束を見るたび、俺は呆れを通り越して笑いそうになる。水気を拭き取った包丁をマグネットスタンドに戻し、ふきんを綺麗に畳んでシンクの端に掛けた。ため息をつきながらも、俺の手は明日の朝食の仕込みのために、自然と冷蔵庫の野菜室へと伸びている。この途方もない数字と、常に危険と隣り合わせの生活。それが今の俺にとっての、紛れもない日常として完全に定着してしまっていた。
ボウルに入れたレタスを水にさらしながら、ふと、数ヶ月前の過酷な逃亡生活の記憶が脳裏をよぎった。
東京湾の地下要塞が崩壊した後、俺たちは警察やクロノスの残党の目を欺くため、日本全国を転々と移動し続けていた。四国の松山からフェリーと身分偽装を繰り返し、一時期は南の果て、沖縄の那覇の外れにある古いウィークリーマンションに身を潜めていたこともある。
亜熱帯の暴力的な日差しと、肌にまとわりつくような重い湿気。効きの悪い古いエアコンが唸りを上げる狭い部屋の中で、チームの空気は常に張り詰めていた。追手の気配に怯え、僅かな物音にも過敏に反応する日々。
ある日の昼下がり、どうしても不足した物資の買い出しに出た俺と裕里子は、アスファルトから立ち昇る陽炎と刺すような日差しから逃れるように、国道沿いにあったローカルファーストフード店「JEF」に駆け込んだ。
オレンジと黄色のポップな看板。冷房が痛いほど効いた店内で、周囲の客から顔を隠すように奥のボックス席に座り、俺たちはプラスチックのトレーに乗せられたジャンクフードを無言で見つめた。
俺の目の前には「ぬーやるバーガー」が一つと、フライドポテト、そして「ゴーヤーリング」。
ぬーやるバーガーの包み紙を開くと、ゴマのついたバンズの間には分厚くスライスされたポークランチョンミートと、たっぷりのゴーヤーが練り込まれた分厚い卵焼き、そしてチーズが挟まっていた。「ぬーやる」とは沖縄の言葉で「何なんだ」という意味らしいが、まさにその名の通り、沖縄名物のポーク卵をごっそりとハンバーガーに仕立て上げた代物だ。
大きく口を開けてかぶりつく。
ポークの強烈な塩気とジャンクな脂の旨味を、卵のまろやかさが包み込む。そこへ、ゴーヤーの鮮烈な苦味とマヨネーズの酸味がガツンと主張してくる。決して洗練された味ではない。だが、極限の逃避行で汗と共に塩分と体力を失い、神経をすり減らしていた俺の身体は、この暴力的なまでのカロリーと濃い味付けを貪欲に求めていた。
付け合わせのゴーヤーリングに手を伸ばす。オニオンリングのように衣をつけて揚げられた輪切りのゴーヤーは、サクッとした歯触りの後に、ホクホクとした食感と爽やかな苦味が口の中に広がる。それを氷がたっぷりと入った冷たいアイスコーヒーで一気に流し込むと、強張っていた胃の腑がゆっくりと解きほぐされ、生きているという生々しい実感が蘇ってきた。
「……苦いわね、これ」
向かいの席で、裕里子が顔をしかめながら呟いた。彼女のトレーには、ポークが入っていないシンプルな「ゴーヤーバーガー」が乗っていた。
「あんた、半分食べなさいよ」
裕里子はそう言って、食べかけのゴーヤーバーガーを包み紙ごと俺のトレーに無造作に押し付けてきた。
「押し付けないでくださいよ。自分で頼んだんでしょ」
「いいから食べなさい。総務部長の仕事でしょ」
理不尽な命令にため息をつきながら、俺は押し付けられた残りの半分を口に運んだ。ゴーヤーの苦味がダイレクトに響くが、不思議と嫌な味ではなかった。
窓の外では、眩しい太陽がアスファルトを白く焦がしている。俺たちはひたすらにアイスコーヒーのストローを吸い、身を潜めるようにしてその暴力的な熱気から逃れていた。
あの肌を刺す日差しと、口の中に残るゴーヤーの苦味、そしてポークの強烈な塩気。泥臭く、ただ生き延びるためだけにカロリーを摂取したあの沖縄での短い休息が、今のこの新しいアジトでの日常へと確実に繋がっているのだ。
「ミャウ」
足元で鳴き声がして、俺は意識を現在へと引き戻された。
黒猫のチビが、俺の足首にすりすりと頭を擦り付けている。
「お腹すいたのか?」
しゃがみ込んでチビの顎の下を撫でてやると、喉をゴロゴロと鳴らして目を細めた。俺は戸棚からドライフードを取り出し、決まった分量だけをチビの皿にザーッと空けた。カリカリと音を立てて食べるその小さな背中を見守っていると、背後のリビングのドアが開く音がした。
「……サトル・サン。新しい依頼だよん」
ノートPCを小脇に抱えたアストリッドが、珍しく真剣な表情でリビングに入ってきた。
その声のトーンで、俺はエプロンを外し、すぐにリビングの大きなテーブルへと向かった。キッチンでコーヒーを淹れていた由希さんや、ソファで分厚い資料を読んでいたくるみさん、奥の部屋から顔を出した冬美ちゃんと陽子さんも、一斉にテーブルの周りに集まる。
「対象は、都内の中堅システム開発会社。依頼人はそこのチーフプログラマーの男性だよん」
アストリッドがPCをテーブルに置き、画面をメンバーに見えるようにターンと反転させた。
「彼からのSOSを受信して、念のために会社のシステムに裏口から入ってみたんだけど……ちょっと、悪趣味すぎるよん」
画面に映し出されたのは、無数の数字とグラフがリアルタイムで変動する管理ダッシュボードだった。社員の名前の横に、タイピングの速度、コードの記述量、眼球のトラッキングデータによる視線の動き、さらにはスマートウォッチ経由と思われる心拍数といった異常なパラメーターが並んでいる。
「これは……」
由希さんが目を細めた。
「ただの業務管理ツールじゃないわね」
「うん。社内は完全なAI監視下にある。各デスクに設置された高解像度カメラと生体センサーで、社員の行動を秒単位でトラッキングしてるの」
アストリッドが画面をスクロールさせる。
「キーボードから手が離れた時間が1分を超えると警告アラート。視線がモニターから外れた回数や、瞬きの頻度が規定値から外れると、自動的に評価ポイントが減点される。極めつけはこれだよん」
画面の右端にあったのは、『離席時間』という項目だった。
「トイレや水分補給のための離席も、入退室のIDカードと重量センサーで厳密に計測されてる。一日の離席時間が合計15分を超えると、自動的に減給処分の対象になるみたい。心拍数の変動から『集中力の低下』までAIが勝手に判断してペナルティを課してくるんだから、完全にディストピアだね」
「トイレの時間まで秒単位で管理されているというんですか……?」
くるみさんが、信じられないというように眼鏡を押し上げた。
「ブラック企業というより、もはや刑務所ね」
陽子さんが不快そうに顔をしかめる。
「依頼人は、数ヶ月前からこの監視システムが導入されて以来、極度の睡眠不足とストレスでパニック障害の寸前になっとるばい。でも、辞表を出そうにも、退職手続きの申請フォーム自体がAIにブロックされて、人事部に届かんようになっとる」
冬美ちゃんが、裏垢で収集した対象企業の社員の愚痴や悲痛な呟きのスクリーンショットをタブレットで見せながら言った。
「システムで人間を縛り付け、物理的にも精神的にも逃げ道を塞ぐ……」
俺は画面に並ぶ無機質な数字を見つめながら、胃の奥が冷たい石のように重くなるのを感じた。
数字の羅列の向こう側に、かつての俺のように、エナジードリンクを胃に流し込みながら充血した目でモニターを睨み続け、人間としての尊厳を削り取られている社員たちの顔が透けて見えた。息抜きの一つも許されず、常に機械の冷たい目に監視されながら、過労で倒れる寸前まで効率よくすり潰されていく感覚。あの地獄の息苦しさが、鮮明に蘇ってくる。
「AIが社員を機械の部品みたいに扱ってるってわけね。気に食わないわ」
静かな足音と共にリビングに現れたのは、裕里子だった。彼女の右手には、いつも通り、鈍い光を放つダマスカス鋼の退職届が握られている。
「人間を秒単位で管理できると思い上がってるそのポンコツAIごと、会社のサーバーを物理的にスクラップにしてやるわよ」
裕里子の冷ややかな声に、チームの空気が一気に引き締まる。
「由希さん、法的なアプローチはどうなりますか?」
俺の問いに、由希さんは手元の端末を素早く操作しながら答えた。
「労働基準法違反、プライバシー権の侵害、そして不当な退職妨害。突っ込みどころは山ほどあるわ。証拠さえあれば、この監視システム自体を法的に違法と認定させて、会社を営業停止に追い込むことも可能よ」
「ただし、その証拠をAIのログから消去される前に抜き取る必要がありますわね」
くるみさんが指摘する。
「任せてよん。外部からのアクセスはAIに遮断されるけど、内部のサーバーに直接物理デバイスを繋いでくれれば、私が全部ぶっこ抜いてあげる」
アストリッドが自信満々に胸を張る。
「なら、ウチと陽子さんで中に潜り込むばい。アナログな死角なら、どんなAIにだって絶対にあるはずやけん」
冬美ちゃんが警棒を軽く手に叩きつけた。
ターゲットは明確だ。人間の尊厳を奪い、システムという檻に閉じ込める見えない鎖。
俺はテーブルの上に散らばっていた資料やマグカップを手早く片付け、キッチン横に置いてあるリュックを肩に背負った。
裕里子は何も言わず、黒光りするダマスカス鋼の退職届を無造作に提げたまま、アジトの重い扉へと歩みを進める。由希さんもタブレットを小脇に抱え、ヒールを鳴らして後に続いた。
「行ってくるぞ、チビ」
俺はキャットタワーの上で丸くなっている小さな黒い背中に向かって短く声をかけ、最後に部屋の照明を落とした。
それぞれの役割を胸に刻み込んだメンバーたちは、深夜の冷たい空気が漂う東京の路地裏へと、足音もなく滑り込んでいった。




