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社畜の俺、伝説の元スパイと「深夜0時の退職代行」始めます。~ブラック企業からヤクザの組まで、物理と法律で「円満退社」させます~  作者: 伊達ジン
【第3章】 過去からの亡霊

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第50話 退職代行の終わりと始まり

 換気扇が低く唸り、大きな寸胴鍋から白い湯気が立ち昇る。

 東京の片隅。古い雑居ビルのワンフロアをぶち抜いて改装した、新しいアジト。

 燃え落ちたあの洋館に比べれば少し手狭になったが、備品を買い直して一から組み上げたこのキッチンは、動線に無駄がなく俺の肌によく馴染んでいた。

 まな板の上で小気味よくネギを刻んでいると、キッチンカウンターの端に座っていた黒猫のチビが、鼻をヒクヒクと動かして身を乗り出してきた。豚肉を炒める香ばしい匂いに釣られたらしい。


「ダメだぞ、チビ。これはネギが入ってるからお前には毒だ」


 俺が指先で軽くチビの鼻を突くと、不満げに「ニャウ」と鳴き、その場で丸くなって目を閉じた。かつて冷たい地下シェルターで怯えていた面影はなく、新しい家にもすっかり適応している。

 あの激闘から数ヶ月。季節が巡り、俺たちを取り巻く環境は大きく変わっていた。


 東京湾の地下要塞が崩壊し、暗い海中から奇跡的に脱出を果たした後。

 事態が完全に収束するまでの間、俺たちは警察や残党の目を逃れ、地方を転々としながら水面下で過酷な潜伏生活を送っていた。

 息の詰まるような逃避行の中で、愛媛県の松山に滞在していた時の夜のことは、今でも鮮明に覚えている。

 道後温泉の喧騒から少し外れた路地裏にある、煙に燻された小さな牛タン焼きの専門店だった。追手の気配を警戒しながら身を隠すように入ったその店で、俺たちは数週間ぶりに温かい食事の席についた。

 狭いテーブルを囲み、誰からともなく無言で生ビールのジョッキを掲げた。

 網の上で炭火に炙られ、香ばしい煙を上げる厚切りの牛タン串。表面はカリッと焼き上がり、噛みしめるたびに弾力のある肉の繊維から濃厚な肉汁と塩気が口いっぱいに溢れ出した。柔らかく脂の乗ったさがり串焼き、しっかりとした噛み応えのあるタンすじ串焼き。そして、外はカリッと、中はホクホクに甘く焼き上がったモンゴル産ニンニクの串焼きを放り込み、強いアルコールの匂いが鼻を突く芋焼酎を喉の奥へ流し込む。

 冷えた日本酒の徳利を静かに傾けながら、今後のことをポツリポツリと語り合った。焦燥感に駆られていた俺たちの心を落ち着かせたのは、締めに頼んだ白濁した熱々のテールスープだった。

 その中には、醤油を塗って香ばしく焼かれたおにぎりが半分に割られて浸されている。スープをたっぷりと吸って柔らかくなった米をレンゲで崩しながら食べると、牛の深い旨味と醤油の香りが完璧に絡み合い、極限まで疲労した身体の隅々にまで染み渡っていった。

 気の利いた会話などなかった。ただ、肉を噛み、酒を飲み、熱いスープを啜る。その生々しい行為そのものが、誰もが生き延びた喜びを噛み締めている証だった。あの夜、静かに杯を交わしながら味わった熱い食事の記憶が、すり減っていた俺たちに「日常」を取り戻した確かな実感を与えてくれたのだ。


「いい匂いね。今日の夕食は何?」


 リビングのソファから、タブレットから目を離した由希さんが声をかけてきた。


「手巻き寿司です。市場でいいマグロとブリが入ったんで。それに、少し肌寒いから豚汁も作ってます」

「最高だわ。ニュースの堂々巡りにも疲れていたところよ」


 壁に掛けられた大型モニターでは、報道キャスターが硬い表情で原稿を読み上げている。神宮寺をはじめとする大物政治家や官僚たちの相次ぐ逮捕、そして解体されたクロノス関連企業の家宅捜索。連日トップニュースで流れるそれらの映像は、社会のシステムが大きな軋みを上げながらも、ゆっくりと別の方向へ動き出していることを示していた。


「サトル先輩、お疲れ様ばい! お腹ペコペコとよ!」


 買い出しから戻ってきた冬美ちゃんが、大きな紙袋をテーブルにドサリと置いた。

 続いて、アストリッドや陽子さん、グレタも自室からリビングに集まってくる。


「遠藤くん。夕食の前に、確認しておきたいことがありますわ」


 くるみさんが優雅な足取りで近づいてきて、一枚の書類を俺の目の前に突きつけた。


「今月の給与明細と、新しい返済計画表です」

「……え?」


 俺は包丁を持つ手を止め、目を瞬かせた。


「俺の借金680万円は、今回のクロノスの一件でアストリッドが裏口座からぶっこ抜いた特別ボーナスで、完全に相殺されたはずですよね?」

「ええ、あの借金は完済されましたわ。ですが、この新しいアジトの敷金礼金、最新のサーバー機材の購入費、そして何より……自爆させた旧アジトの持ち主への莫大な損害賠償。それらを人数割りした結果、あなたには新たに1200万円の負債が計上されましたわ」

「い、いっせん……!?」


 俺は絶句した。


「いやいや、敷金礼金はともかく、旧アジトの損害賠償って、あれは裕里子さんの指示で自爆させたんじゃないですか! なんで俺の借金に上乗せされるんですか!」

「連帯責任という言葉をご存じないの? それに、新しい冷蔵庫やガスオーブン、あなたの要望通りのハイスペックなものを揃えましたでしょう。その費用も含まれていますわ」


 くるみさんが眼鏡の奥で楽しそうに目を細める。


「そういうわけだから、サトル。あんたにはまだまだ働いてもらわないと困るわよ」


 いつの間にかキッチンに現れた裕里子が、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出しながら、ニヤリと笑った。


「理不尽すぎませんか!? 俺、戦闘員じゃないんですよ!?」


 俺が抗議の声を上げると、リビングのあちこちから笑い声が上がった。


「諦めるんだね、サトル・サン。ウチの金庫番から逃げられる人間は、この世にいないんだよん」


 アストリッドがケラケラと笑う。


「それに、あんたの作る飯がないと、私たちは戦えないわ。諦めて一生うちの総務部長を務めなさい」


 陽子さんが艶やかに微笑んだ。

 理不尽極まりない借金。だが、俺は不思議と嫌な気はしなかった。

 小さくため息をつき、エプロンの紐を締め直す。逃げる気など、最初から一ミリもない。この騒がしくて危険な連中の隣こそが、俺が命懸けで守り抜いた「帰る場所」なのだから。


「いただきます!」


 大きなテーブルを囲み、賑やかな夕食が始まった。

 大皿に盛られた新鮮な刺身を、思い思いの具材と共に海苔で巻いていく。


「アストリッド先輩、それウチが狙っとった大トロばい!」

「早い者勝ちだよん! 刺身にはやっぱり、少しだけマヨネーズをつけるのがノルウェー流だよん」

「やめなさい、せっかくの新鮮な魚が台無しよ」


 由希さんが眉をひそめて窘める。


「EPAとDHAの摂取効率としては、生のままが最適だな。豚汁でビタミンB群も補える。完璧な献立だ」


 グレタが淡々と分析しながら、誰よりも早く二つ目の手巻き寿司を作り終え、口に運んでいる。

 チビは俺の膝の上で丸くなり、時折、俺の指先についたご飯粒を舐めて喉を鳴らした。

 裕里子は黙々とブリを頬張り、熱い豚汁を啜って小さく息を吐いた。

 特別なことは何もない。だが、この騒がしい食卓の光景こそが、俺たちにとって何よりも得難い平和だった。


 食事が終わり、それぞれが思い思いの時間を過ごす。

 時計の針が、ゆっくりと頂点に向かって進んでいく。

 二十三時五十九分。

 リビングの空気が、少しだけ張り詰める。

 そして。

 日付が変わった、深夜0時ちょうど。


 アストリッドのPCから、短く鋭い通知音が鳴った。

 アストリッドは素早くキーボードを叩き、画面に視線を落とす。


「……依頼だよん」


 その一言で、部屋の空気が完全に切り替わった。

 誰もが緩めていた表情を引き締め、立ち上がる。


「対象は大手不動産会社の営業部。過酷なノルマとパワハラで、入社三年目の社員が監禁まがいの引き留めに遭ってる。心身ともに限界のサインが出てるよ」


 アストリッドの報告を聞き、裕里子は無言で新しいダマスカス鋼の退職届を右手に提げた。

 由希さんはタブレットを小脇に抱え、くるみさんはジャケットのボタンを留める。冬美ちゃんは警棒を腰に差し、陽子さんとグレタもそれぞれのトランクや鞄を手にした。

 決まり文句も、大げさな号令もない。ただ全員が、慣れた手つきで出撃の準備を整えていく。

 俺はシンクの片付けを終え、リュックを肩に背負った。


「サトル、忘れ物はない?」


 裕里子が振り返る。


「完璧です。帰ってきた後の夜食の仕込みも、終わってますよ」


 俺の答えに、裕里子はただ一度、短く頷いた。


 俺は足元で丸くなっているチビの頭を軽く撫でた。

 チビは眠たげに薄く目を開け、すぐにまた丸くなって寝息を立て始めた。

 アジトの重い扉を開け、外へ出る。

 路地裏の冷たい風が、火照った頬を撫でた。遠くから微かにパトカーのサイレンが聞こえる。

 俺たちは足音を忍ばせ、街のネオンが届かない影の中を歩き出した。裕里子の手にあるダマスカス鋼が、街灯の光を反射して一瞬だけ鋭く鈍い光を放った。

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