第49話 最後の退職届
「全員、行くわよ!!」
裕里子の鋭い号令と共に、俺たちは一斉にコンソールデスクへと向かって踏み出した。
彼女の右手に握られたダマスカス鋼の刃が、空気を切り裂いて総帥の喉元へと迫る。どんな強固な装甲も、どんな理不尽な権力も両断してきた漆黒の一撃。これで、すべてが終わるはずだった。
だが、総帥の指先がコンソールの手元にある赤いスイッチに触れた瞬間。
ガギィィィィンッ!!
激しい火花が散り、裕里子の身体が凄まじい反動で後方へと弾き飛ばされた。
「裕里子さん!」
俺が駆け寄るより早く、彼女は空中で身を翻して着地し、忌々しげに舌打ちをした。
総帥と俺たちを隔てるように、床から分厚い透明なシールドがせり上がっていた。軍事用の特殊防弾ガラスとチタン合金のフレームで構成された、見るからに強固な防壁だ。
「無駄だ。このコンソールシェルターは、対戦車ライフルでも貫通しない」
シールドの向こう側で、総帥が冷淡な声で告げた。
「野蛮な暴力で私のシステムを止められるとでも思ったか。君たちの浅知恵には反吐が出る」
総帥がキーボードを叩くと、モニターに表示されていた『プロジェクト・オーバーライト』の起動進行度バーが再び動き始めた。
『ヤバい! こっちの特製ワームが、向こうのメインAIに食い破られそうだよん!』
冬美ちゃんが物理ポートに繋いだデバイスを経由して、海上クルーザーにいるアストリッドの切羽詰まった声がインカムから響いた。
「アストリッド先輩、こっちからも妨害コードを流し込んどるけど、処理速度が桁違いばい!」
タブレットを懸命に操作する冬美ちゃんの額に、大粒の汗が浮かぶ。接続したデバイスは異常な熱を持ち始め、警告音を鳴らしている。システム起動まで、残された猶予は数十秒もない。
物理的な攻撃は通じず、サイバー戦でも押し切られようとしている。
勝利を確信した総帥の口元に、歪んだ笑みが浮かんだ。
「終わりだ。システムが起動すれば、国民すべてが私の手足となる。エラーデータである君たちの命運も、ここで尽きるのだ」
「……随分と、時代遅れな錯覚ね」
静寂を破ったのは、由希さんの冷徹な声だった。
彼女はシールドの真正面に立ち、手にしたタブレットの画面を総帥に向けて押し付けた。そこには無数のチャートや国際ニュースの速報がめまぐるしく流れている。
「その箱の中に引きこもって、世界を支配した気になっているの? 現実を見なさい」
「何……?」
「たった今、あなたのスイス銀行の隠し口座が、マネーロンダリングの疑いで国際手配リストに載り、完全に凍結されたわ」
由希さんの言葉に、総帥の眉間がわずかに動いた。
「昨夜の大炎上を受けて、あなたの息がかかっていたはずの政治家たちも、先ほど一斉に検察の家宅捜索を受けた。世論の凄まじい怒りを前にして、保身に走った彼らは全員、あなたを『単独犯』として切り捨てたのよ」
由希さんは言葉を切らず、さらに重い事実を矢継ぎ早に突きつける。
「あなたに莫大な資金を流していた海外の投資ファンドも、コンプライアンス違反を理由に今朝から次々と資本を引き揚げているわ。……あなたの持つ巨大な権力も、金も、ネットワークも、すでにこの数時間で完全に崩壊しているのよ」
「でっち上げだ……そんな馬鹿なことが」
「事実よ。あなたが大衆を『使い捨ての部品』と見下していたように、あなた自身もまた、システムという巨大な歯車に依存していただけの、ただの『部品』に過ぎなかったということね」
冷酷なまでに論理的な由希さんの言葉が、総帥の絶対的な自信に明確な亀裂を入れた。
「ええ。もう誰一人として、あなたには従いませんわ」
くるみさんが優雅な足取りで由希さんの隣に並び、眼鏡の奥から総帥を射抜いた。
「システムを起動すれば勝てる? 国民が手足になる? ……滑稽ですね。すべてを失ったあなたが、そんなものを起動したところで、ただ世界中からテロリストとして標的にされるだけです」
「黙れ……!」
「焦っていますね。先ほどから、タイピングの速度が落ち、呼吸が浅くなっている。瞬きの回数も異常です。……あなたが一番恐れていた『誰からも必要とされない孤独』が、今まさに現実になったんですから」
「黙れと言っているッ!」
総帥の顔から余裕が消え去り、額に脂汗が浮かんでいた。
「私には、システムがある! これさえあれば、私は何度でもやり直せる!」
総帥は半ば発狂したように叫び、コンソールのカバーを手荒に跳ね上げた。自動化されていた起動プロセスの残りを、手動での強制オーバーライドで押し切ろうとしているのだ。
カチャリ、と微かな音がした。
総帥が手動コンソールを操作するため、完全密閉されていたシールドの一部――排熱と緊急操作用の小さなハッチが、数十センチだけ開いたのだ。
「そこよ!」
陽子さんが叫び、グレタが試験管を構える。だが、ハッチの隙間はあまりにも狭く、投擲や電撃を正確に叩き込むには角度が悪すぎた。
「させるかッ!」
総帥が懐から小型の拳銃を引き抜き、ハッチの隙間からこちらへ向けて乱射した。
パンッ! パンッ!
狭い地下空間で乾いた銃声が反響し、銃弾が床と壁を抉る。
その銃口の延長線上にいたのは、シールドの真ん前に立ち尽くす由希さんだった。
「由希さん!」
俺は思考より先に身体が動き、全力で由希さんの前へ飛び出した。視界がスローモーションのように引き伸ばされる中、飛来する弾丸が、俺の着ている「クリーン・トウキョウ」の青い作業服の袖を深々と掠めた。焦げたような匂いが鼻を突き、熱い痛みが走ったが、骨に異常はない。
「遠藤くん! 無茶しないで、下がって!」
由希さんが俺の肩を掴み、血相を変えて叫んだ。
「嫌です。絶対に下がりません」
俺は由希さんを庇うように立ち塞がったまま、真っ直ぐに彼女の目を見た。
「約束したじゃないですか。あの限界集落での仕事の後、赤提灯の店で昼飲みした時に」
極限の緊張感の中で、俺の口から出たのは、そんな日常の記憶だった。
「今度は俺の最高の手料理をごちそうするって。だから、こんな所で死なせない」
俺の言葉に、由希さんは一瞬だけ呆気に取られたように目を丸くし、それから、ふっと柔らかく、本当に美しい笑みをこぼした。
「……そうね。私、安い居酒屋も好きだけど、フレンチのフルコースも大好きなの。絶対に妥協しないから、最高の食材を用意しておきなさい」
「はい。市場で一番のやつを仕入れておきますから」
それは、恐怖を押し殺して前を向くための、ごく短く、切実な応酬だった。
「そこをどきなさい、サトル、由希!」
背後から、怒号のような声が響いた。
裕里子だ。彼女は俺たちの横を猛烈なスピードですり抜け、シールドに向かって一直線に踏み込んだ。
狙いは、総帥が開けた数十センチのハッチの隙間ではない。総帥が銃を撃った反動と、先ほどの心理的な動揺で、シールドの接合部に生じていたごくわずかな「歪み」だ。
「机の上で世界を語るから、足元をすくわれるのよ!」
裕里子が、ダマスカス鋼の刃を両手で力強く握りしめ、大きく振りかぶった。
総帥がエンターキーに手を振り下ろそうとした、その絶体絶命の瞬間。
バガァァァァァァンッッ!!!
空間そのものを叩き割るような絶響が、巨大なサーバールームを激しく揺らした。
ダマスカス鋼の漆黒の刃が、対戦車ライフルすら弾き返すという防弾ガラスの接合部を正確無比に捉え、そのままシールド全体を粉々に砕き割ったのだ。
鋭いガラスの破片が吹雪のように舞い散る中、ダマスカス鋼は止まることなく、総帥の目の前にあるコンソールデスクとメインサーバーの中枢基盤を、真っ二つに叩き斬った。
バチィィィンッ!
青白いスパークが激しく弾け飛び、火柱が上がる。
プロジェクト・オーバーライトの進行度を示す巨大なホログラムモニターが、砂嵐のようなノイズに塗れ、完全にブラックアウトした。
「ああ……私の……完璧な世界が……」
砕け散ったガラスと火花を浴びて床にへたり込んだ総帥が、破壊されたシステムを呆然と見つめながら、力なく呟いた。
「……最初から、完璧な世界なんてどこにもなかったのよ」
裕里子が、ダマスカス鋼を肩に担ぎ直し、冷たく言い放った。
次の瞬間、広大なサーバールーム全体に、耳をつんざくような非常サイレンが鳴り響いた。
『警告。メインシステムに致命的な損傷を確認。物理的破壊による情報漏洩を防ぐため、要塞の緊急自沈シークエンスを作動します。完全崩壊まで、残り180秒――』
赤い警告灯が狂ったように点滅し、激しい地鳴りとともに頭上のコンクリートがひび割れ、巨大な破片が降り注いできた。
「ヤバい! システム破壊のショックで、要塞全体を海の底に沈めるプログラムが動いちゃったみたい! 早く逃げて!」
インカムからアストリッドの叫び声が響く。
「総帥はどうするの!?」
陽子さんが倒れ込む男を見下ろして叫ぶ。
「放っておきなさい。すべてを失った男に、情けをかける義理はないわ」
由希さんが冷徹に言い捨て、踵を返した。
「走るわよ! 誰一人、絶対にはぐれるんじゃないわよ!」
裕里子の号令で、俺たちは一斉にサーバールームの出口へと向かって駆け出した。
背後で崩れ落ちる巨大なサーバーラックの轟音。足元から突き上げる、人工島全体が海に飲み込まれようとする強烈な振動。
迫り来る瓦礫と炎を背に受けながら、俺たちは出口の光だけを見据え、ただひたすらに前へと踏み込んでいく。




