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社畜の俺、伝説の元スパイと「深夜0時の退職代行」始めます。~ブラック企業からヤクザの組まで、物理と法律で「円満退社」させます~  作者: 伊達ジン
【第3章】 過去からの亡霊

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第48話 総帥の論理

 黒光りする重厚なチタン製の扉の奥に広がっていたのは、身の毛がよだつほど冷たく、無機質な空間だった。

 体育館ほどもある広大なフロアには、天井まで届く漆黒のサーバーラックが幾重にも立ち並び、無数の青や緑のLEDランプが生命体のように不気味な明滅を繰り返している。空調設備の低く重い駆動音が、絶え間なく地鳴りのように響いていた。


 その巨大な部屋の中央。

 無数のケーブルが接続された特注のガラス張りコンソールデスクの前に、一人の男が座っていた。

 銀髪をオールバックに撫でつけ、一切のシワがない仕立ての良いスリーピーススーツに身を包んだ初老の男。巨大コンサルタント会社「クロノス」の総帥。

 俺たちの日常を理不尽に奪い、国の中枢を裏から操り、裕里子さんを殺人兵器として造り上げたすべての元凶が、そこにいた。


「……よくここまで辿り着いたな、No.07。そして、泥にまみれたネズミども」


 総帥の声は、どこまでも平坦だった。

 要塞の最深部まで侵入され、最強の護衛たちをすべて撃破されたというのに、彼の瞳には焦りも怒りも微塵も感じられない。まるでチェス盤の上で不用意に動いた駒を見下ろすような、絶対的な優位者の眼差しだった。


「あなたの会社も、そのふざけたシステムも、今日で全部退職よ」


 ボスの青木裕里子が、血に染まったダマスカス鋼の退職届を肩に担ぎ、殺気を孕んだ声で宣告する。俺たちミッドナイト・エグジットのメンバーも、それぞれの武器を構え、総帥を取り囲むように扇状に展開した。

 だが、総帥はコンソールのキーボードから手を離さず、薄く冷笑を浮かべた。


「退職? 君たちは何も分かっていない。……このモニターを見てみろ」


 総帥が指を鳴らすと、空中に巨大なホログラムディスプレイが展開された。

 そこに映し出されたのは、日本地図と、膨大な数の個人の顔写真、そして『労働可能時間』『ストレス耐性値』『洗脳進行度』『過労死予測ライン』といった異常な項目のパラメーターだった。


「これは……国民の生体データと、マイナンバーが直接紐付けられている……!?」


 顧問弁護士の福田由希さんが、画面を見て息を呑んだ。


「いかにも。これこそが『プロジェクト・オーバーライト』の全貌だ」


 総帥は立ち上がり、両手を広げた。


「最新のAIが全国民の労働力とストレス限界値をリアルタイムで監視・算出し、過労死する一歩手前の極限状態まで、最も効率よく働かせる。睡眠時間、食事、娯楽すらも生産性を最大化するためのプロセスとして厳格に管理する。そして、限界を迎えて完全に壊れた人間は速やかに切り捨て、即座に次の人員を補充する。この完璧な管理システムは、すでに霞が関の中枢ネットワークとリンクしているのだ」

「ふざけるな……! そんなの、ただの奴隷制度じゃないか!」


 俺は思わず声を荒げた。かつてブラック企業で心身をすり減らし、誕生日の夜に過労で死にかけていた自分の過去がフラッシュバックする。終わらないサービス残業、上司の理不尽な罵声、エナジードリンクで無理やり胃袋を誤魔化しながら、自分がただの使い捨ての歯車として壊れていく感覚。あの地獄を、この男は国全体に広げようとしているのだ。


「奴隷ではない。国という巨大な機械を動かすための、『最適化』だ」


 総帥の冷酷な声が、サーバールームに響き渡った。


「人間など、社会という機械を動かすための『使い捨ての部品』に過ぎないのだよ。部品に感情は不要だ。空腹、疲労、悲哀、そして無駄な反抗心……それらはすべて、社会の生産性を著しく低下させる『バグ』に他ならない。私はこのシステムでそのバグを取り除き、完璧な国家を構築する。No.07、お前はその最高傑作となるはずだったのだ」


 圧倒的な権力と、一寸の狂いもない冷徹な論理。

 コンソールの画面では、システムの最終起動を示す進行度バーが、すでに「98パーセント」に達していた。


「君たちの泥臭い抵抗も、ネット上での炎上も、すべて徒労だ。あと数分で起動コードが送信されれば、この国のすべての労働者は私の管理下に置かれる。エラーデータである君たちの居場所など、この世界のどこにもなくなるのだよ」


 重苦しい絶望感が、サーバールームの空気を支配した。

 国を動かす強大なシステムと、それを是とする冷酷な論理の前に、俺たちのようなはぐれ者の集団が束になっても、歴史の波に押し潰されてしまうのではないか。そんな錯覚に陥りそうになる。

 だが。


「……部品なんかじゃ、ない」


 俺は、メインストレージが入ったリュックの肩紐を強く握りしめ、一歩前に出た。


「人間は、使い捨ての部品なんかじゃない」


 俺の脳裏に、ある鮮烈な光景が蘇っていた。

 それは以前、地方での面倒な退職代行の依頼を終え、一時的に身を隠すために滞在したホテルの、静かな和食レストランでの記憶だ。

 激務と死闘を終えた俺たちのテーブルに運ばれてきたのは、揚げたての『天ざる蕎麦』だった。

 薄衣を纏って黄金色に輝く大ぶりの車海老と、氷水でキリッと締められた瑞々しい二八蕎麦。

 サクッという心地よい音を立てる熱々の天ぷらを頬張り、ツルリとした冷たい蕎麦を勢いよく啜り込む。出汁の香りと本わさびの爽やかな風味が鼻を抜け、疲労した身体に染み渡っていく。


『美味しいわね』と由希さんが相好を崩し、裕里子も満足そうに海老の尻尾まで平らげていた。


 美味しいものを食べて心から笑い合う仲間たちの顔。ただそれだけの日常の記憶が、氷のように冷たいこのサーバールームで、俺の胸の奥底に灼熱の炎を灯したのだ。


「俺たちは……美味しいものを食べて笑い、明日を生きる力をもらう。悲しい時は泣いて、理不尽には怒る!」


 俺は総帥を真っ直ぐに睨みつけ、元社畜としての、いや、一人の人間としての誇りを懸けて叫んだ。


「その感情があるから、人間は限界を超えて、誰かを守るために戦えるんだ! あんたが『バグ』だと切り捨てるその人間の感情と可能性が、あんたの最強の兵器たちを全部ぶっ壊してここまで来たんだろうが!」


 俺の叫びが、広大なサーバールームの空気を震わせた。


「俺たちは部品じゃない! 血の通った、人間だ!!」


 総帥の眉間が、初めて微かにピクリと動いた。


「……たかが歯車の一つが、吠えるな」

「吠える権利くらい、誰にでもあるわ」


 すかさず前に出たのは、スーツを土埃で汚しながらも、凛とした姿勢を崩さない顧問弁護士の由希さんだった。

 彼女はタブレットを開き、冷徹な声で言い放つ。


「総帥。あなたが構築しようとしているシステムは、一見完璧に見えるかもしれない。でも、法的な観点から言わせてもらえば、根本的な欠陥だらけよ」


 由希さんは総帥の顔をビシッと指差した。


「労働基準法や基本的人権を完全に無視したシステムは、社会契約の前提を欠いている。そんなものは法治国家では長続きしないわ。あなたが『大衆の怒り』というバグを計算に入れられなかったように、社会はあなたの机上の空論通りには動かない。現に今、世界中の世論があなたのシステムを『絶対悪』として裁こうとしているじゃない!」


「ええ、由希さんの言う通りですわ」


 続いて、藤井くるみさんが優雅な足取りで由希さんの隣に並び立った。

 彼女の眼鏡の奥の瞳が、総帥の精神を丸裸にするように細められる。


「総帥。あなたは『人間は部品だ』と豪語していますが……本当は、人間の不確定な感情が恐ろしいのではありませんか?」

「……なんだと?」


 総帥の目に、微かな苛立ちが走る。


「完璧主義者によくある傾向ですわ。自分がコントロールできない他者の感情や、反逆を極端に恐れるあまり、すべてを機械的で冷酷なシステムに置き換えようとしているだけ。……要するに、あなたは強がっているだけの、孤独で可哀想な臆病者ですわ」


 くるみさんの悪魔的なプロファイリングが、総帥の絶対的な自信の根底にある「恐怖」を冷酷に抉り出した。


「……黙れ」


 総帥はギリッと歯を食いしばり、コンソールの最終起動ボタンへ手を伸ばした。


「貴様らのような下等なエラーデータが、私の崇高な論理を否定するなど許されない。……プロジェクト・オーバーライトを起動する。お前たちの存在など、この世界から完全に消去してやる!」


「させんばい!」


 俺たちの背後で、潜入担当の冬美ちゃんが持参したクラッキング用デバイスを、コンソールの物理ポートに力任せにねじ込んだ。強力なジャミングで海上クルーザーのアストリッドと通信ができない状況下、物理的な介入でシステムを抑え込む作戦だ。


「メインシステムへの強制介入開始! アストリッド先輩から預かっとった特製ワーム、展開! 起動シークエンスに強制遅延を発生させたよ!」

「ナイスよ、冬美ちゃん!」


 三浦陽子さんがスタンガンを構え、元医師のグレタも白衣を翻し、劇薬の試験管を手にして前傾姿勢を取る。

 俺の言葉が口火となり、由希さんとくるみさんが論理と心理の壁を打ち崩し、冬美ちゃんがシステムをこじ開ける。

 仲間たちの絆が、総帥の冷酷な論理を完全に包囲していた。


「あんたのつまらない会社ごっこも、これで終わりよ」


 裕里子が、ダマスカス鋼の退職届を肩に担ぎ、獲物を狙う猛禽類のような鋭い笑みを浮かべた。


「全員、行くわよ!!」


 俺たちミッドナイト・エグジットの「人間の感情」が、総帥の冷酷な論理を完全に圧倒し、ついに最後の突撃の瞬間を迎えようとしていた。

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