第55話 チビの定期健診
アイラ島特有の強烈な潮の香りと、正露丸を思わせる独特のピート香が、グラスからふわりと立ち昇る。
分厚いロックグラスの中で大きな丸氷をカランと鳴らし、由希さんが琥珀色の液体を静かに喉の奥へ流し込んだ。スコッチウイスキーの銘酒、ラガヴリンの16年だ。
「……はあ。やっぱり、この煙臭さがないと一日の終わりって気がしないわね」
ダイニングテーブルの向かい側では、陽子さんが買ってきたばかりの細長い箱から、長方形のケーキを慎重に取り出していた。
「トップス」のチョコレートケーキだ。
スポンジを覆い尽くすように、波打つ模様にデコレーションされた濃厚なチョコレートクリーム。その中には、砕かれたクルミがぎっしりと詰まっている。
陽子さんはナイフを温めてからケーキを綺麗に切り分けると、そばに置かれた赤ワインのグラスを手にした。注がれているのは、カリフォルニア産のピノ・ノワールだ。
「チョコレートケーキに赤ワインなんて、邪道って言う人もいるけど……カリフォルニアのピノの豊かな果実味と、このトップスのクリームの甘み、クルミの香ばしさは、奇跡的に合うのよ」
陽子さんが艶やかな唇をワイングラスにつけ、うっとりとした表情を浮かべる。
俺はキッチンカウンター越しにその光景を眺めながら、自分用の深煎りコーヒーをマグカップに注いだ。
静かで、穏やかな夜だ。
トンッ、という軽い音が響いた。
部屋の隅に置かれたキャットタワーの中段から、ダイニングテーブルの端へと、黒猫のチビが軽快に飛び乗ってきたのだ。
チビは四つの足を揃えて座り込み、黒い尻尾の先だけをパタパタと左右に揺らしている。視線は、陽子さんの皿に乗ったチョコレートケーキに完全に釘付けだった。
前足をスッと伸ばそうとするのを、俺は横から手を差し出して遮った。
「こら、チビ。お前はこっちだ」
俺はエプロンのポケットに入れていた猫用の無添加煮干しを一つ取り出し、チビの口元へ持っていった。チビは少し不満そうに「ミャッ」と鳴いたが、すぐに煮干しの匂いに釣られ、ザラザラとした舌で俺の指先からそれを舐め取った。
「そういえば、明日その子の定期健診とワクチンの日よね」
由希さんがラガヴリンのグラスを傾けながら言う。
「はい。午前中に近所の動物病院に予約を入れています。キャリーバッグの準備もできていますよ」
俺が答えると、ソファでタブレットを眺めていた裕里子が顔を上げた。
「明日は私も行くわ。ずっと室内に引きこもってて息が詰まってたところだし、念のための護衛よ」
翌日の午前十時。
俺たちは、新しいアジトから少し離れた住宅街にある小さな動物病院の待合室に座っていた。
「……チワワに、柴犬、向こうのケージにいるのはメインクーンかしら。随分と賑やかね」
裕里子が隣の席で吠え続ける柴犬を冷たい目で見下ろすと、犬は「キャンッ」と情けない声を上げて飼い主の足元に隠れてしまった。
俺は膝の上に置いたキャリーバッグのメッシュ窓から中を覗き込んだ。
「ウゥゥゥ……」
チビはキャリーバッグの隅にへばりつき、耳を頭にピタリと貼り付けている。普段の鳴き声は影を潜め、喉の奥から低い警戒音を漏らし続けていた。尻尾は身体の下に固く巻き込まれている。
「大丈夫だぞ、チビ。すぐ終わるからな」
俺がメッシュの隙間から指を入れて撫でようとしたが、チビはプイッと顔を背けてしまった。
「次の方、遠藤チビちゃん。診察室へどうぞ」
看護師に呼ばれ、俺と裕里子は診察室へ入った。
ステンレス製の冷たい診察台。優しそうな初老の獣医師が微笑みかけてくる。
「今日は体重測定と、混合ワクチンの接種ですね。さあ、キャリーから出しましょうか」
俺がキャリーバッグの扉を開け、両手を入れてチビを引き出そうとする。だが、チビは前足の爪を底敷きのタオルに深く引っ掛け、頑なに奥へしがみついて出てこようとしない。
なんとか引き剥がして診察台の上に乗せたが、チビは四肢を突っ張らせ、石像のように固まったままピクリとも動かなくなった。
「はい、体重も順調に増えていますし、心音も問題ないですね。じゃあ、ワクチン打ちましょうか」
獣医師が後ろを振り向き、引き出しから細い注射器を取り出した途端、チビの全身の毛が総毛立ち、細かった尻尾がタヌキのように太く膨れ上がった。
「シャーッ!!」
威嚇音と共に、チビが診察台を蹴り上げた。
「あ、こら! チビ!」
俺が両手を伸ばすより早く、チビは俺の腕をすり抜けて空中に飛び上がった。
「捕まえなさいよ!」
裕里子が咄嗟に手を伸ばし、チビの首根っこを掴もうとする。だが、力を加減している彼女の手は、チビの柔らかい毛並みをするりと滑った。チビの後ろ足が空中で弧を描き、裕里子の白い腕に鋭い爪が食い込む。
「痛っ!」
裕里子が顔をしかめる。チビはそのまま診察室の壁際に設置された薬品棚の上に飛び乗り、「フゥーッ!!」と威嚇を続けた。
「……ちょっと、あんた。私に爪を立てるなんていい度胸じゃない」
裕里子が棚の上のチビに向かってジリジリと距離を詰める。俺は咄嗟に着ていた上着を脱ぎ、網のようにして被せようと前に出た。
だが、足元にあった丸椅子に躓き、盛大にバランスを崩して転倒してしまった。
「うわっ!」
俺が倒れ込んだ拍子に、キャスター付きの機材ワゴンに肩がぶつかり、上に乗っていた消毒綿のケースがガシャァンと床に散らばる。獣医師と看護師は、あまりのドタバタ劇に完全に呆気にとられ、部屋の隅の壁に張り付いていた。
俺が立ち上がろうとする間に、裕里子が棚の上へ手を伸ばす。しかし、チビは軟体動物のように身体をくねらせ、壁と棚のわずかな隙間を滑り落ちて床へ着地した。
「ちょこまかと……!」
裕里子がしゃがみ込んで追うが、チビは診察台の下や機材の裏といった狭い空間を縦横無尽に逃げ回る。「傷つけてはいけない」という制限がある以上、裕里子の持つ圧倒的な身体能力も完全に空回りしていた。
「裕里子さん、ストップ! 無理に追うと余計にパニックになります!」
俺は乱れた息を整えながら立ち上がり、背負っていたリュックのジッパーを開けた。
焦りで少し指先が震え、中の荷物をいくつか床に落としてしまう。ようやく底の方から引っ張り出したのは、百円ショップで買った大きめの「洗濯ネット」と、小さなタッパーだ。
タッパーの中には、今朝の朝食の仕込みで出た鶏の茹で汁が入っている。
俺はタッパーの蓋を開け、チビが逃げ込んだ診察台の下に向けて、床にそっと置いた。
「ほら、チビ。おいで……」
俺は身を低くし、静かに呼びかける。
診察室の消毒液の匂いの中に、鶏の旨味が溶け込んだ香りが広がっていく。
数十秒の膠着状態。裕里子も口を噤み、俺も動かずにじっと待つ。
やがて、診察台の暗がりの中から、ピンク色の鼻先がわずかに突き出された。チビは周囲を警戒するように何度か匂いを嗅ぎ、ゆっくりと、本当に少しずつ床を這うようにしてタッパーへと近づいてきた。
チャプ、チャプ。
チビの舌が茹で汁を舐める音が聞こえた。
俺は息を詰め、洗濯ネットの口を広げたまま、背後からゆっくりと手を伸ばす。
いける、と思った瞬間、俺の気配に気づいたチビがビクッと身をすくませて後ずさりしようとした。
俺はためらわず、ネットごと両腕でチビを床に押さえ込むようにして抱え込んだ。
「ニャァァッ!」
チビが網の中でもがき、俺の親指の付け根にガブリと牙を立てる。
「痛ッ……! でも、捕まえたぞ」
俺は噛みつかれた痛みに顔をしかめながらも、チビの身体がすっぽりとネットに収まるようにジッパーを引き上げた。網目で身体が覆われると、狭い場所に包まれた安心感からか、チビの動きは次第に大人しくなっていった。
「先生、今のうちにお願いします!」
「お、おお、はい」
獣医師が慌てて近づき、洗濯ネットの網目の隙間から、チビの背中に素早く針を刺した。
無事に、ワクチン接種完了だ。
動物病院からの帰り道。
「もう二度と、猫の注射には付き合わないわ」
裕里子が、絆創膏を二枚貼られた自分の腕を見つめながら、心底うんざりしたように溜め息をついた。
「すみません。俺も完全に油断してました」
俺の右手には、チビに噛まれた時の小さな歯型が赤く残っている。
俺は胸に抱えたキャリーバッグの重みを感じながら、家路を急いだ。




