第45話 最強の刺客
東京湾に浮かぶ人工島の地下3階。
プロジェクト・オーバーライトの心臓部である中枢サーバー室まで、あと数十メートル。
俺と裕里子の前には、この要塞の最深部を守る「最強の壁」が立ち塞がっていた。
広々としたコンクリートの通路の奥から、足音ひとつ立てずに現れた三つの影。
漆黒の戦闘服に身を包んだその姿は、先ほどまでのNo.04やNo.05と同じだ。だが、彼らが放つ異質なまでの冷たい威圧感は、明らかに次元が違っていた。
「……最悪ね」
裕里子が、愛用のダマスカス鋼の退職届を握る手にギリッと力を込めた。その声には、かつて聞いたことがないほどの緊張が混じっている。
「裕里子さん、あいつらは……」
「No.01、No.02、No.03。クロノスの感情を持たない殺人兵器の中でも、最初に造られた完成形にして最強の三体。……そして、10年前まで私に殺人術の全てを叩き込んだ『教官』たちよ」
裕里子の言葉に、俺は息を呑んだ。
三体の兵器は、一切の感情を交えぬ冷たい瞳で俺たちを見据えている。真ん中に立つ長身の男――No.01が、機械的な声で告げた。
「No.07。組織の最高機密であるエリアXへの侵入は、万死に値する。これより、不良品の完全な廃棄処分を実行する」
「やれるものならやってみなさいよ、旧式のポンコツども!」
裕里子が弾かれたように地を蹴り、先陣を切ってNo.01へと肉薄する。
だが、必殺の一撃は、No.01の特殊合金の軍刀によって軽々と弾き返された。
ガギィィィンッ!
火花が散る中、両サイドからNo.02とNo.03が音もなく裕里子の死角へ回り込む。
「くっ……!」
裕里子は身体を捻ってNo.02の蹴りを避けるが、No.03の放ったナイフが彼女の肩口を掠め、黒いレザージャケットが裂けて鮮血が舞った。
「裕里子さん!」
「下がってなさい、サトル! こいつらは、あんたがどうにかできる相手じゃない!」
裕里子は叫びながら、三体を相手に凄絶な立ち回りを演じる。だが、相手は彼女の師であり、戦闘パターンのすべてを熟知している最強の個体だ。さらに、戦闘力皆無の俺を背後に庇いながらの孤軍奮闘。裕里子の体力と集中力は、瞬く間に削り取られていく。
俺は防爆扉の陰に身を隠しながら、自分の無力さに歯噛みしていた。
リュックの中に残っているのは、由希さんから預かったメインストレージと、救急セット、そして数種類の調味料と日用品だけだ。銃弾と刃が飛び交う戦場で、俺ができることなど何もないように思えた。
だが、脳裏に浮かんだのは、アジトの洋館で俺が作っていた「朝食」の風景だった。
なぜかこんな絶体絶命の極限状態の中で、数日前の、ある静かな朝の光景が鮮明にフラッシュバックしたのだ。
あれは、裕里子が徹夜でクロノスの情報を追跡し、心身ともに極限まで疲弊していた朝のことだ。
俺は彼女を優しく、しかし確実に再起動させるため、手早く「究極の和朝食」を用意した。
香ばしく焼いた甘塩鮭とカリカリのちりめんじゃこを土鍋ご飯に混ぜ込み、ふんわりと三角に握ったお握り1個。とろけるような大粒の梅干しを1個添える。さらに、こだわりの醤油と卵黄を落として白く泡立つまでかき混ぜた納豆と、鰹出汁の香りを活かしたもずくの味噌汁を手際よく食卓へ並べた。
その素朴だが手抜きの一切ない朝食を見た時、裕里子の疲労に満ちた顔がパッと明るくなった。
『最高の朝食ね。細胞の隅々まで栄養が行き渡って……生き返るわ。ありがとう、サトル』
あの時の、裕里子の心からの笑顔。
俺が作った料理で、彼女は「生き返る」と言ってくれた。俺の料理が、俺の家事が、彼女の命を繋ぐ力になっているのだ。
「……俺の、仕事だ」
俺は、リュックのジッパーを開けた。
このまま黙って見ているわけにはいかない。俺はミッドナイト・エグジットの総務部長だ。ボスを死なせるわけにはいかない。
前方の通路では、裕里子がNo.01の猛攻を防ぎきれず、ついに膝をついていた。
「終わりだ、No.07」
No.01が軍刀を振り上げる。さらに俺の存在に気づいたNo.02が、目にも留まらぬ速さで俺の方へと標的を変え、無機質な瞳で突進してきた。
「サトル、逃げて!!」
裕里子の悲痛な叫びが響く。
俺は逃げなかった。
リュックから取り出したのは、掃除用に常備していた大容量の「重曹」の袋と、マリネ液やドレッシングを作るために持っていた「穀物酢」の大きなボトル。そして、アジトから持ち出していた食器洗い用の「中性洗剤」だ。
「料理も掃除も、化学反応の応用だ!」
俺は迫り来るNo.02の足元に向けて、重曹の粉末を大量に撒き散らし、その上から中性洗剤をたっぷりとかけた。そして、穀物酢のボトルの蓋を開け、中身を丸ごと勢いよくぶちまける。
シュワァァァァァァッッッ!!!
弱アルカリ性の重曹と、酸性の酢。
二つが混ざり合った瞬間、急激な中和反応が起こり、大量の炭酸ガスが発生する。そこに中性洗剤の界面活性剤が加わることで、爆発的な量のきめ細かい泡が通路を一瞬にして埋め尽くした。
「……!?」
突如として足元から自己増殖するように噴き上がった泡の壁が、No.02の視界を完全に奪った。
さらに、このトラップの真骨頂はここからだ。
発生した炭酸ガスの無数の気泡が洗剤の滑り成分と混ざり合うことで、床面は自動車のハイドロプレーニング現象と同じ、摩擦係数ゼロの最悪のスケートリンクと化したのだ。
「……軌道修正、不可」
最強の体幹バランスを誇るNo.02であっても、物理的な摩擦が完全に消失した洗剤と泡の海では踏ん張りが利かない。No.02は勢いよく足を滑らせ、受け身を取る間もなく壁に激突して体勢を崩した。
「よくやったわ、サトル!!」
俺が作り出したコンマ数秒の隙。
それを、最強のボスが見逃すはずがなかった。
裕里子はNo.01の軍刀をダマスカス鋼で弾き飛ばすと同時に床を蹴り、壁に激突して硬直したNo.02の胸ぐらを掴んだ。
「あんたたちの教育には、感謝してるわ。……退職届よ、受け取りなさい!!」
漆黒の重い一撃が、No.02の顎を正確に打ち抜いた。
ゴッ! という鈍い音と共に、No.02の身体が宙を舞い、そのまま床に崩れ落ちて完全に沈黙した。
「……No.02の生体反応消失。脅威度を上方修正し、制圧ロジックを再構築する」
No.01とNo.03は味方が倒されても微塵の動揺も見せず、機械的な音声で戦術を切り替えた。俺の決死の「家事トラップ」で一筋の光をこじ開けたが、最強の兵器たちはさらに冷酷な動きで距離を詰めてこようとする。
戦況は依然として厳しい。裕里子の体力は限界に近く、俺のトラップの素材も完全に底を突いた。
「……ハァ、ハァ……どう? 少しは計算が狂ったんじゃない?」
裕里子が、肩の傷から血を流しながらも、猛禽類のような笑みを浮かべて残る二体を睨みつける。
No.01が軍刀を構え直し、無慈悲な足取りで再び踏み込もうとした、その時だった。
「……待たせたわね、裕里子!」
広間の右側の暗がり――メンテナンス用のハッチから、凛とした声が響き渡った。
そこには服が汚れながらも鋭い眼光を放つ福田由希さんと、不敵な笑みを浮かべる藤井くるみさん、そして劇薬の試験管を手にしたグレタの姿があった。
「ウチらも忘れちゃ困るばい!」
さらに左側の別の通路からは、警棒を肩に担いだ藤原冬美ちゃんと、スタンガンを構えた三浦陽子さんも駆けつけてきた。
「みんな……!」
俺は胸の奥が熱くなるのを感じた。
分断され、それぞれが別の死地を潜り抜けてきたミッドナイト・エグジットの仲間たちが、ついに中枢サーバー室の前に再集結を果たしたのだ。
「……遅いわよ、あんたたち。サトルのトラップがなかったら、私が刻まれてたところよ」
裕里子が、強がりながらも心底安堵したような笑みを浮かべた。
「さあ、形勢逆転よ。クロノスの最強兵器ども。……私たち全員で、まとめて引導を渡してあげるわ!」
仲間たちの合流。俺たちの反撃の炎が、東京湾の海底要塞で最高潮に燃え上がろうとしていた。




