第44話 それぞれの戦場
分厚いチタン製の隔壁が落下し、俺と裕里子が中央ルートに取り残されたあの時。
左右のブロックに弾き出された仲間たちもまた、生き残るための凄絶な死闘を繰り広げていた。
これは、後に無事に生還した彼女たちから聞いた、地下要塞での各々の戦いの記録である。
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要塞の左ルートへと分断された、潜入担当の藤原冬美ちゃんと、信用詐欺師の三浦陽子さん。
彼女たちの目の前には、十名以上の完全武装した警備部隊と、二体の量産型パワードスーツが銃口を向けて立ち塞がっていた。
さらに最悪なことに、彼女たちの足元には、先ほどの隔壁落下によって中央ルートから弾き出されてきたクロノスの殺人兵器――大柄な男「No.04」が、ゆっくりと立ち上がろうとしているところだった。
前門の虎、後門の狼。武力で真っ向から勝負すれば、瞬時にハチの巣にされる絶望的な状況だ。だが、陽子さんと冬美ちゃんが選んだのは、この絶望的な配置を逆利用する「虚実」の魔法だった。
「冬美。三十秒あげるから、奴らのローカル通信網をクラッキングして頂戴。私は『目眩まし』を入れるわ」
「了解ばい!」
冬美ちゃんが物陰でタブレットを開き、目まぐるしい速度でコードを打ち込み始める。
その間に陽子さんは、キャスターケースから取り出した衣装を素早く羽織り、髪をまとめ上げた。一瞬にして、彼女はクロノス本部の「特別監査官」のオーラを纏った。
陽子さんは堂々たる足取りで物陰から進み出ると、銃を構える警備部隊に向かって毅然と声を張り上げた。
「銃を下ろしなさい! 今すぐ、そこにいる黒ずくめの男を制圧するのよ! その実験体はテロリストにハッキングされて暴走しているわ!」
圧倒的な演技力と美貌、そして絶対的な自信に満ちた発声。警備部隊の隊員たちは、突然現れた上層部らしき女性の言葉と、実際に目の前で殺気を放って立ち上がるNo.04の姿を見て、一瞬だけ毒気を抜かれた。
「今や!」
冬美ちゃんがエンターキーを叩いた瞬間、警備部隊のバイザーのディスプレイに『対象にイレギュラーな生体反応・テロリストのハッキングを確認』という緊急アラートと、偽のデータが強制表示された。
「なっ……監査官の言う通りだ! 実験体No.04が暴走しているぞ!」
「撃てぇッ! 取り押さえろ!」
疑心暗鬼とパニックに陥った警備部隊が、一斉にNo.04とパワードスーツに向けて発砲を開始した。突然味方から銃撃を受けたNo.04も、感情を持たない戦闘ロジックに従って即座に警備部隊への反撃を開始する。
暗い通路は、瞬く間にクロノス兵同士の凄惨な同士討ちの戦場と化した。
「ほら、行くわよ」
陽子さんは悠然と身を翻し、同士討ちの混乱を抜け出して防爆扉の陰へと身を隠した。
「……あーあ。せっかくのシルクのブラウスが、硝煙と埃で台無しよ。この仕事が終わったら、サトルに最高級のディナーを奢らせないと割に合わないわね」
陽子さんが汚れを払いながらため息をつくと、隣で息を潜める冬美ちゃんがクスクスと笑った。
「ヤバっ、サトル先輩の借金、また増える一方やね。どんまいとしか言えんわ」
「ふふっ、冗談よ。……そうだ、冬美。この地獄を無事に抜け出したら、私の奢りで銀座の天ぷら屋に行きましょうか」
陽子さんは、激しい銃声と爆音が響く地下要塞の冷たい壁にもたれかかりながら、硝煙の匂いをかき消すように、極上の日常の記憶を語り始めた。
「銀座の路地裏にある、隠れ家的な名店よ。極上の太白胡麻油のブレンドで、生きた車海老をサクッとレアに揚げる一万円のおまかせコース。天茶漬けで締めた後は、八丁目の重厚なバーで、キリッと冷えたドライマティーニを傾けるの」
「ヤバっ……想像しただけでお腹空いてきたばい」
「あの静寂で、香り高い大人の空間こそ、私たちが帰るべき『日常』よ。……絶対に生きて、そこへ帰るわよ」
死地にいながら、銀座の極上コースと高級バーの情景を鮮明に語る陽子さん。長々とした食レポなど必要ない。その短いシズル感のある言葉だけで、若き工作員である冬美ちゃんの恐怖は和らぎ、強烈な「生存本能」が喚起されていた。
「……絶対行く! ウチ、絶対に生きて帰って、陽子さんに天ぷら奢ってもらうけんね!」
「ええ、約束よ」
二人は暗闇の中で力強くハイタッチを交わし、凄絶な同士討ちの音を背に、要塞の深部へと歩みを進めた。
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一方、由希さん、くるみさん、グレタの三人は、右側のブロックを進んでいた。
彼女たちの前には、中央から弾き出されてきた細身の女――「No.05」が、無表情のまま鋭利な刃物を仕込んだブーツを構えて迫っていた。
だが、三人が防御の姿勢を取ったその時、通路の奥から音もなく、漆黒の戦闘服を着た小柄な人物が現れた。感情を消されたもう一つの殺人兵器、「No.06」だ。
No.06は武器を持たず、ただ冷たい瞳で三人――そして、味方であるはずのNo.05をも見つめると、自身のスーツのバルブを無言で開放した。
シューッ……というかすかな音と共に、無色に近い気体が通路に充満し始める。
「……咳ッ! なに、これ……呼吸が……!」
由希さんが喉を押さえてその場に膝をついた。前方にいたNo.05も、無差別に散布されたガスの影響で僅かに動きを鈍らせる。
「息を止めて! 神経性の毒ガスだわ!」
元医師のグレタが即座に白衣のポケットから小型の分析試薬を取り出し、ガスの成分を測定した。
「有機リン系の致死性神経ガス……サリンの亜種よ! 吸い込めば数分で呼吸筋が麻痺して死に至るわ!」
だが、グレタは微塵も焦る様子を見せず、清掃用具に偽装していたキャスターケースを勢いよく開けた。
「サトルが日用品でトラップを作れるなら、私にだってできるわ」
グレタは中に仕込んでいた次亜塩素酸ナトリウムのボトルと、アルカリ性の劇薬のボトルを掴み出した。それらを即席の噴霧器の中で混合し、アルカリ加水分解の原理を利用した強力な「中和スプレー」を瞬時に調合する。
「散布するわよ! 少しむせるから気をつけて!」
グレタがスプレーのノズルを開放すると、白い霧が通路に猛烈な勢いで広がり、猛毒の神経ガスを次々と無害な物質へと化学分解していく。
通路が真っ白な霧に包まれる中、ガスの影響で視覚と呼吸系にダメージを負ったNo.05とNo.06が、足元をふらつかせながらも三人に迫ってくる。
「……グレタさんの中和剤のおかげで、命拾いしましたわ」
むせ返りながらも立ち上がったくるみさんが、冷徹な目で二体の兵器の動きを観察した。
「あの二人、視界が奪われ、呼吸も乱れていますわ。……由希さん、壁際の高圧配電盤が見えますか?」
「ええ、見えるわ。……なるほど、そういうことね」
由希さんはくるみさんの意図を瞬時に理解し、壁に設置されていた緊急用の消火栓ボックスを力任せに開け、太いホースを引き出した。
頭脳派の彼女たちが選んだのは、言葉による心理戦ではない。この閉鎖空間の設備を最大限に利用した、冷酷な物理トラップだ。
「いくわよ!」
由希さんが消火栓のバルブを全開にする。
ドバァァァッ!!
凄まじい水圧の放水が、視界を奪われていたNo.05とNo.06を直撃した。強烈な水流に足を取られた二体の兵器は、そのままズルズルと後退し、くるみさんが指差した壁際の「高圧配電盤」へと激突する。
「仕上げですわ」
くるみさんが、先ほど通路に落ちていた金属製のパイプを拾い上げ、水浸しになった配電盤の隙間へと正確に投げ込んだ。
バチィィィィィンッッ!!
凄まじい放電音と共に、高圧電流がショートを起こした。水浸しになっていた配電盤から、No.05とNo.06の濡れた身体へと、致死量に近い高圧電流が一気に流れ込む。
「ガ、ァァァッ……!」
機械的な痙攣を起こし、二体の殺人兵器はついにその場に崩れ落ち、完全に活動を停止した。
言葉すら必要としない、由希さんとくるみさんの完璧な環境利用トラップが、クロノスの刺客を打ち破った瞬間だった。
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こうして、分断された仲間たちは、それぞれの持つ特技と圧倒的な「生への執念」で、立ち塞がる死地を次々と切り抜けていたのだ。
一方、中央ルートを進んでいた俺と裕里子は――。
要塞の最深部、中枢サーバー室の手前まで到達していた。
「……静かね。嫌な予感がするわ」
裕里子がダマスカス鋼の退職届を握り直し、足を止めた。
俺も息を呑む。目の前の巨大な広間に、先ほどのNo.04やNo.05とは比較にならない、圧倒的で絶対的な「死のオーラ」が渦巻いていたのだ。
薄暗い広間の奥から、足音もなく三つの影が現れる。
この先に、俺たちの想像を絶する最強の刺客たちが待ち受けていることを、俺たちはこの時、嫌というほど思い知らされるのだった。




