第42話 東京湾の地下要塞
朝の冷たい潮風が吹き荒れる東京湾。
陽子さんが裏社会のツテで手配した小型クルーザーは、黒い波を乱暴に蹴立てながら、沖合に浮かぶ巨大な人工島――世界的コンサルタント会社「クロノス」の本丸へと真っ直ぐに進んでいく。
俺は揺れる船室の中で、魔法瓶から温かいコーヒーを二つの紙コップに注いだ。そして、窓際で特注のノートPCを開き、目まぐるしい速度でキーボードを叩いているアストリッドの隣に腰を下ろした。
「アストリッド、少し休め。コーヒーが入ったぞ」
「サトル・サン、ありがとうだよん」
アストリッドは画面から目を離さずに右手だけで紙コップを受け取り、ふうふうと息を吹きかけてから一口飲んだ。徹夜明けの彼女の横顔は青白いが、その碧い瞳には、かつてないほど鋭い闘志の炎が宿っている。
「人工島の外部セキュリティのクラッキングは順調か?」
「うん。熱源センサーと監視カメラのループ処理は完璧に終わってる。これで、上陸からメインゲートまでは透明人間のようにお散歩できるよ。……でも、最深部にある中枢サーバーのプロテクトだけは、物理的に隔絶されてる。私が外からハッキングするには、どうしても中から直接物理回線を繋いでもらう必要があるんだ」
アストリッドはキーボードを叩く手を止め、真剣な眼差しで俺を見た。
「私はこのクルーザーに残って、外部からシステムを抑え込む。……サトル・サンたちは、最深部でこのUSBを端末に挿して。そこから120秒あれば、私が全てのゲートとサーバーのロックを吹っ飛ばしてあげる」
「分かった。俺の命に代えても繋ぐよ」
俺がUSBメモリを受け取ろうとすると、アストリッドはその手をサッと引っ込めた。
「ダメだよん。命に代えちゃ」
アストリッドは、少しだけ寂しそうに、けれど力強い笑顔を浮かべた。
「フェンリルの時……私の過去のトラウマと一緒に戦ってくれたサトル・サンが、こんなところで死んだら絶対に許さない。だから、ちゃんと生きて帰ってくること。それが条件」
「……ああ、約束する」
「それとね」
アストリッドはいたずらっぽくウインクをした。
「これが全部終わって、クロノスをぶっ潰したら……私とデートしてよ」
「デート?」
「そう。秋葉原のジャンク通りを一日中歩き回って、最高のPCパーツを探すの。荷物持ちはサトル・サンね。その後は、メイド喫茶でケチャップたっぷりのオムライスをご馳走してよね。……二人きりで」
それは、彼女なりの「生還の誓い」だった。俺は深く頷き、彼女の手からUSBメモリをしっかりと受け取った。
「最高だな。シェルターで待ってるチビを迎えに行ったら、そのまま秋葉原へ向かおう。俺の特製オムライスより美味いかどうか、きっちり判定させてもらうよ」
午前8時30分。小型クルーザーは人工島の裏側にある搬入用埠頭に音もなく接岸した。
ここからは、陽子さんと冬美ちゃんの独壇場だ。
「みんな、着替えは済んだわね。胸のIDカードは見えやすい位置に出しておくこと」
陽子さんが手渡してきたのは、大手設備メンテナンス会社「クリーン・トウキョウ」の青い作業服だった。陽子さん自身は現場監督風のヘルメットとバインダーを持ち、完全にその道十年のベテランのオーラを纏っている。
俺たち――裕里子、由希さん、くるみさん、グレタ、冬美ちゃん、そして俺――は作業員に扮し、清掃用具やメンテナンス機材を装った巨大なキャスター付きケースを押して上陸した。
最初の関門である搬入口のゲート。昨夜の大炎上を受け、警備は最高警戒態勢に引き上げられていた。完全武装の警備員たちが、アサルトライフルを構えて立ちはだかる。
「止まれ。昨夜からの非常警戒態勢につき、いかなる外部業者の立ち入りも禁じられている。直ちに引き返せ」
「あら、困ったわね。冷却システムに重大な異常警告が出ていて、今すぐバルブを交換しないと数時間でシステム全体が熱暴走を起こすって、上層部から緊急通達があったはずよ? 確認してちょうだい」
陽子さんが毅然とした態度で偽造の書類を突きつける。
警備員が訝しげにタブレットを操作したその瞬間。ゲート周辺の警告ランプが一斉に赤く点滅し、けたたましいサイレンが鳴り響いた。アストリッドがタイミングを合わせて、基幹システムに偽の熱暴走アラートを滑り込ませたのだ。
「なっ、何だ!? 本当に冷却システムが……!」
警備員たちがパニックに陥り、一瞬だけ視線がタブレットと警告灯へ逸れた。
そのコンマ数秒の死角を突き、冬美ちゃんが音もなくゲートの認証パネルに滑り寄り、小型のクラッキングデバイスを物理的に接続する。
「パスワード解析……突破したばい!」
冬美ちゃんの囁きと同時に、分厚いゲートが重々しい音を立ててスライドした。
「ほら、一刻を争う事態なのよ。通させてもらうわ」
陽子さんの堂々たるハッタリと見事な連携により、俺たちは最高警戒態勢のゲートを強行突破した。
内部は、無機質なコンクリートと金属の壁がどこまでも続く、巨大な迷宮だった。
だが、アストリッドのナビゲートにより、俺たちは迷うことなく最深部へと下っていく。エレベーターを乗り継ぎ、複雑な電子ロックの扉を次々とパスしていく。
やがて、冷たい空気が漂う地下3階――最深部「エリアX」のメインゲート前に到達した。
厚さ数十センチはあろうかという、巨大な防爆扉。この奥に、プロジェクト・オーバーライトを司る中枢サーバーがある。
『サトル・サン。聞こえる? そこの右側の壁にあるメンテナンスパネルを開けて。そこに物理ポートがあるから、USBを挿してちょうだい』
インカムからアストリッドの声が響く。俺は頷き、キャスターケースから工具を取り出してパネルを開けた。
しかし、俺がUSBを挿そうとした、その瞬間だった。
「――作業予定にないイレギュラーな生体反応を確認。排除プロトコルに移行します」
冷ややかで、一切の感情の起伏がない機械的な声が、広大な地下空間に響き渡った。
暗がりから、二つの人影が音もなく現れる。
パワードスーツのような重装甲ではない。裕里子と同じ、漆黒のタイトな戦闘服に身を包んだ、大柄な男と、細身の女。
だが、その筋肉の密度、無駄の一切ない歩み、そして何よりも、光を吸い込むような底なしの冷たい瞳は、彼らが完全に「人間」という規格を逸脱していることを物語っていた。
「……チッ。やっぱり出たわね」
裕里子が、作業服を乱暴に脱ぎ捨て、背中に隠していたダマスカス鋼の退職届を引き抜いた。
「久しぶりね、ヨン、ゴォ。相変わらずクロノスの忠実な犬やってるの?」
裕里子の挑発に対し、男――No.04と、女――No.05は、表情一つ変えずに首を傾げた。
「No.07。10年前に組織を裏切った不良品。……速やかにスクラップにして、総帥に報告する」
圧倒的な殺気が、空気を凍らせる。
ただ立っているだけで、彼らが昨日までの強化兵士たちとは次元が違うことが理解できた。裕里子と同じ、感情を消され、殺人兵器として調整された「ナンバーズ」。それが二体。武力では、明らかにこちらが不利だ。
『サトル・サン! 早くUSBを! ロック解除まで120秒かかる!』
インカム越しの叫びに、俺はハッとしてポートにUSBをねじ込んだ。
「120秒……! 裕里子さん、ハッキング完了まで持ちこたえられますか!?」
「バカ言わないで。120秒もあれば、あいつらをバラバラにしてお釣りが来るわ」
裕里子は強がって笑ったが、その額には微かに冷や汗が滲んでいた。相手は自分と同格の化け物が二体。まともにぶつかれば、数秒で決着がついてしまうかもしれない。
端末のカウントダウンが【残り115秒】を刻んだ時、No.04が両手に握った特殊合金の軍刀を構え、床を蹴ろうとした。
その刹那。
「お待ちしなさい」
凛とした声が、殺気の渦を切り裂いた。
一歩前に出たのは、顧問弁護士の由希さんだった。彼女は作業服のポケットからタブレットを取り出し、冷ややかな視線を二人の殺人兵器に向けた。
「あなたたち、自分が今、刑法第199条の殺人罪をはじめ、数十件に及ぶ重大犯罪の実行犯として、国際指名手配のリストに登録されていることを知っているの?」
「……法など、我々には無意味だ」
No.05が機械的に答える。
「そうかしら。クロノスの中枢は昨夜の大炎上で完全にパニックよ。彼らは今、トカゲの尻尾切りを始めている。……あなたたちのような『非合法な処理班』の存在を公に認めれば組織が崩壊する。だから、彼らはあなたたちの存在を抹消し、全責任を押し付けて切り捨てる準備を進めているわ。現に、この要塞の自爆シークエンスは、すでに総帥の手によってスタンバイされているのよ」
由希さんの言葉は、完璧なハッタリだった。だが、彼女の圧倒的な自信と、揺るぎない法理論の構築が、数十秒の時間をかけてその言葉に「真実」の重みを持たせる。
俺の手元で、端末のタイマーは容赦なく【残り95秒】を刻んでいた。
クロノスの忠実な犬である彼らの思考プロセッサに、「組織からの切り捨て」という予期せぬエラーが投げ込まれた。
そこに、すかさずくるみさんが優雅な足取りで前に出た。
「ええ、その通りですわ。……あなたたち、自分では感情を消したつもりでしょうけれど、私の目にははっきりと見えています。瞳孔の微かな収縮、呼吸の乱れ。完全に『恐怖』を抑圧していますわね」
「我々に、恐怖などない」
「嘘をつきなさい。組織に裏切られる恐怖。自分がただの使い捨ての道具であるという恐怖。……あるいは、かつて最強と呼ばれたNo.07に、ここで無惨に殺されることへの恐怖を」
くるみさんの悪魔的なプロファイリングが、彼らの無意識下にある「人間の防衛本能」をじわじわと抉り出す。
感情を持たないはずの殺人兵器。
しかし、二人の弁護士と心理戦のプロによる、言葉という名の鋭いメスが時間をかけて脳髄をかき回したことで、彼らの完璧な戦闘ロジックに、ほんのコンマ数秒の「迷い」が生じた。
「今よ、裕里子!」
由希さんの叫びと共に、裕里子が床を爆発的に蹴り上げた。
「退職代行の深夜割増料金は……命で払ってもらうわよ!!」
漆黒のダマスカス鋼が、空気を切り裂いてNo.04の首元へと迫る。
ガギィィィィィィンッッ!!!
特殊合金の軍刀とダマスカス鋼が激突し、暗い地下空間に目も眩むような火花が散った。
凄まじい衝撃波が走り、俺は思わず腕で顔を庇った。
ハッキング完了まで、残り68秒。
俺は容赦なく減っていく端末のカウントダウンを見つめながら、アストリッドとの「デートの約束」を胸に強く刻み込んだ。生きて帰る。絶対に、全員で。
東京湾の海底深く。かつての同胞同士による、血で血を洗う悲壮な死闘の幕が、今、切って落とされたのだった。




