第41話 最後の晩餐
ひんやりとしたコンクリートの冷気が、薄い毛布越しに肌を刺す。
午前6時。俺は、薄暗い地下シェルターの簡易ベッドで目を覚ました。
むくりと身を起こすと、足元の毛布の上で丸くなっていた黒猫のチビが「ミャン」と小さく鳴き、前足をいっぱいに伸ばして愛らしい欠伸をした。俺はチビの首元の柔らかい毛をそっと撫で、周囲を見渡した。
天井の蛍光灯が微かに点滅する、殺風景な地下空間。
パイプ椅子や備蓄品の段ボール箱が積まれたその隙間で、ミッドナイト・エグジットのメンバーたちが泥のように眠っている。皆、煤や泥で服を汚し、顔には深い疲労の色が刻まれていた。
数時間前、俺たちは自分たちの居場所であった洋館アジトを、迫り来る特殊部隊もろとも炎で焼き払った。チビが初めて走り回った広いリビングも。俺が毎日みんなの朝ご飯や夜食を作った、あの使い勝手の良いアイランドキッチンも。もうこの世界のどこにも存在しない。
その喪失感は、冷たい地下の空気と共に、俺たちの心に重くのしかかっていた。
「……腹が減っては、戦はできないからな」
俺は小さく呟き、静かに立ち上がった。
失ったものを嘆いても始まらない。俺はミッドナイト・エグジットの「総務部長」だ。みんなが目覚めた時、心と体を極限まで温め、前を向かせるような極上の朝食を用意すること。それが今の俺にできる唯一の戦いだった。
俺は壁際に積まれた備蓄品の段ボール箱を次々と開け、残された食材を物色し始めた。
シェルターの物資は日持ちのする缶詰や乾物が中心だ。その中の一つの箱から、俺はあるものを見つけて目を輝かせた。
「……これだ。本場の『讃岐うどん』の乾麺。しかも、かなり上質なやつだ」
太く真っ直ぐな乾麺の束。それに、真空パックされた沖縄産のもずくと、常温保存可能なゆで卵。さらに、数日前に俺が買い出しでリュックに入れていた万能ネギの生き残りがある。
決戦の朝に相応しい、心と身体の隅々にまで染み渡る極上の一杯を作ろう。
俺はシェルターの隅にある簡易キッチンにカセットコンロを二つ並べ、手早く調理を開始した。
まずは、うどんの命である「麺の茹で上げ」だ。
乾麺をプロ顔負けのクオリティで仕上げるには、圧倒的な湯量で茹でることが絶対条件になる。俺は備蓄の中で一番大きな寸胴鍋にたっぷりの水を張り、強火で沸騰させる。ボコボコと激しく気泡が立つ熱湯の中に、讃岐うどんの乾麺をパラパラと扇状に広げながら投入した。
麺が湯の中に沈むと、俺は菜箸を使って優しく、しかし素早くかき混ぜる。強火のまま、麺が鍋の中で対流に乗って「くるくると踊る」状態をキープする。
茹でている間に、隣のコンロで「出汁」の準備に取り掛かる。
乾麺に添付されていた粉末出汁を小鍋に開け、規定量のお湯で溶く。これだけでも十分美味しいが、今日は決戦の朝だ。もう一段階上の深い旨味が欲しい。
俺はリュックから、アジトを脱出する際に咄嗟に詰め込んでいた「市販の白だし」の小瓶を取り出した。
添付の出汁に、市販の白だしをほんの少しだけブレンドする。異なる由来のイノシン酸とグアニル酸が掛け合わさることで、旨味の相乗効果が爆発的に跳ね上がるのだ。
ふわりと、地下シェルターのカビ臭い空気を切り裂くように、芳醇で上品な出汁の香りが立ち込めた。
「……んん、なんかめっちゃええ匂いがする……」
寝袋の中から、潜入担当の冬美ちゃんが寝ぼけ眼をこすりながら起き上がってきた。その匂いに釣られるように、由希さんや陽子さん、くるみさんたちも次々と身を起こす。
「おはようございます。ちょうど茹で上がりますよ」
俺はタイマーの音と共に寸胴鍋を火から下ろし、茹で上がったうどんを一気にザルへ空けた。
ここからが勝負だ。熱々の麺を、あらかじめ用意しておいた氷水の中に一気に投入する。
両手で麺を揉むようにして、表面のぬめりを徹底的に洗い落とす。熱湯での激しい対流と、氷水による急激な温度変化。この妥協のない工程が、乾麺の中に本場さながらの強烈な弾力とつるりとした喉越しを蘇らせる。
しっかりと締まった麺の水を切り、もう一度だけ熱湯に数秒くぐらせて温め直す。どんぶりに麺を盛り付け、熱々の特製出汁をたっぷりと注ぎ込んだ。
仕上げのトッピングだ。
つるりとした麺の上に、磯の香りが豊かな沖縄産のもずくをたっぷりと乗せる。さらに、半分に切った半熟のゆで卵の鮮やかな黄色と、小口切りにした万能ネギの緑を散らす。
「そして、最後の魔法だ」
俺はリュックの調味料ポーチの中から、小さな木製のひょうたん型の容器を取り出した。俺が料理のアクセントとして愛用している、京都の老舗の『黒七味』だ。
焙煎された白ごま、唐辛子、山椒、青のり、けしの実などが複雑に絡み合った黒七味を、うどんの表面にパラリと振りかける。
熱い出汁の蒸気に乗って、山椒の痺れるような香りと、焙煎ごまの香ばしさが一気に花開いた。
「さあ、朝ご飯です。冷めないうちにどうぞ」
俺が折りたたみテーブルに七杯のうどんを並べると、メンバーたちは無言で席につき、割り箸を手にした。
「いただきます……」
まずは全員が、どんぶりに口をつけて出汁を啜る。
「……っ!」
由希さんの瞳が、驚きに見開かれた。
「すごい……。出汁の深い旨味と黒七味の香りで、冷え切っていた身体が一瞬で熱を取り戻していくみたい」
「ヤバっ! サトル先輩、このうどんマジで美味しい! 乾麺とは思えんくらいコシがあるんやけど!」
冬美ちゃんが、目を輝かせて勢いよく麺を啜り上げる。
沖縄もずくのトロリとした滑らかさが、コシの強いうどんに絡みつき、絶妙な食感のコントラストを生み出している。濃厚なゆで卵の黄身を出汁に溶かせば、黒七味の鋭い辛味を優しく包み込み、まろやかなコクへと変化する。
「ハッカーの徹夜明けには、この優しい味が最高だよん……サトル・サン、天才」
アストリッドが、涙ぐみながらどんぶりを両手で抱え込んでいる。
「ええ。限られた備蓄品でこれほどの味を創り出すとは……。山椒の香りが、見事に全体を引き締めていますわ。遠藤くん、素晴らしい仕事です」
くるみさんも、優雅な所作で麺を啜りながら微笑んだ。
「……悪くないわね。むしろ、あのアジトのキッチンで作っていた時より、腕が上がってるんじゃない?」
ボスの青木裕里子は、あっという間にうどんを平らげ、どんぶりの底に残った出汁まで飲み干して息を吐いた。
「家なんて、どこにあったっていいわ。……あんたの作るこの飯がある場所が、今の私たちの『アジト』よ」
裕里子の言葉に、俺は少しだけ目頭が熱くなるのを感じた。
そうだ。建物が燃えても、俺たちの帰る場所はここにある。
食事を終え、温かいお茶で一息ついたところで、空気が一変した。
「みんな、聞いて。大炎上作戦の余波と、昨夜の通信ログの解析が終わったよん」
アストリッドがノートPCの画面を壁に投影した。
そこに映し出されたのは、東京湾に浮かぶ巨大な人工島の見取り図だった。表向きは「次世代型エネルギーの研究施設」とされているが、地下の構造は異様なほど堅牢に作られている。
「クロノスの中枢サーバー……『プロジェクト・オーバーライト』のマスターシステムは、この人工島の地下要塞に存在してる。連中、この地下から霞が関のシステムに直接アクセスして、国家の労働管理プログラムを書き換えようとしてるんだ」
「東京湾の地下要塞……。セキュリティは軍事施設並みでしょうね」
グレタが冷徹な声で指摘する。
「ええ。それに、忘れないで」
裕里子が、ダマスカス鋼の退職届をテーブルの上にドンッと置いた。
「そこは、私を育てた『処理班』の本丸よ。昨日戦ったような量産型のパワードスーツだけじゃない。私と同じように感情を消され、殺人兵器として調整された『ナンバーズ』の連中が、間違いなく待ち構えているわ」
その言葉に、重い緊張感が走る。
「……でも、海に浮かぶ要塞なんて、どうやって行くんですの? アジトと一緒に車も失いましたし、地上に出ればすぐに警察の網に引っかかりますわ」
くるみさんのもっともな指摘に、陽子さんがふふっと艶やかに笑った。
「移動手段の心配はいらないわ。私の昔からのツテで、東京湾から人工島の作業用搬入ルートに近づける小型のクルーザーを裏で手配しておいたの。日の出埠頭に待たせてあるわ」
「埠頭までの足は、私がカーシェアの自動運転車をハッキングして、シェルターの近くまで配車済みだよん!」
アストリッドがVサインを作る。
それぞれの得意分野が完璧に噛み合い、敵の本丸へ通じる一本の道が切り開かれたのだ。
俺は足元で無邪気に毛づくろいをしているチビを見つめた。
「……チビは、ここに置いていきます」
俺は備蓄の段ボールの中から、底が広く倒れにくい大きめのプラスチックタッパーを二つ見つけ出し、片方にたっぷりの水を、もう片方にリュックに入れていた数日分のドライフードを山盛りにした。
「チビ、ここなら絶対に安全だ」
俺はチビを抱き上げ、その小さな鼻先に自分の鼻をすり寄せた。
「俺が必ず迎えに帰ってくるから、お利口に待ってるんだぞ」
チビは「ミャッ」と力強く鳴き、俺の頬をザラザラの舌でひと舐めした。まるで行ってこいと背中を押してくれているようだった。
俺はチビを簡易ベッドの上にそっと下ろし、立ち上がった。
「行きましょう。クロノスに、最後の『退職届』を叩きつけに」
俺の言葉に、メンバー全員が無言で頷き、立ち上がった。
冬美ちゃんは新しい警棒を腰に差し、陽子さんは変装用のトランクを手に取る。由希さんはタブレットを小脇に抱え、くるみさんとグレタもそれぞれの武器を確認した。
裕里子は、ダマスカス鋼の板を片手に、爛々とした瞳で俺たちを見回した。
「ミッドナイト・エグジット。……最後のカチコミよ。一人残らず、生きてあのうどんのおかわりを食べるわよ!」
俺たちは、全てを終わらせるため、冷たい地下シェルターから決戦の地・東京湾の人工島へと歩みを進めた。




