第40話 アジト放棄と地下潜伏
ズズズンッ……!
地下深くの冷たく湿った水脈跡を歩く俺たちの頭上から、再び重く鈍い振動が伝わってきた。
あの見慣れた洋館アジトが、俺たちの追手を道連れにして、完全に焼け落ちた音だ。
「……止まらないで。追手は分断したけど、クロノスのことだから、すぐに別ルートから地下を捜索しに来るわよ」
最後尾を歩くボスの青木裕里子が、暗闇の中で鋭い声を響かせた。
俺は、胸に抱えたキャリーバッグの中で不安そうに丸くなる黒猫のチビを慰めるように撫でながら、重いリュックを背負い直して歩みを進めた。
光源はスマホのライトだけ。足元には冷たい泥水が溜まっており、一歩進むたびに靴が沈み込んで体力を奪っていく。
「遠藤くん、ストップ。そこの足元、鉄筋が剥き出しになっているわ。右側を避けて歩いて」
俺の少し前を歩く顧問弁護士の福田由希さんが、ライトで地面を照らしながら的確に指示を出してくれた。
「ありがとうございます、由希さん」
「くるみ。この先のルートは?」
裕里子が問いかけると、暗闇の中でタブレットの青白い光に照らされた金庫番のくるみさんが、冷徹な声で答えた。
「事前のマッピング通りなら、あと1キロほどで旧日本軍が掘削して放棄された防空壕跡――私たちが『第一シェルター』として密かに物資を備蓄していた場所に到達しますわ。……ただ、全員の疲労がピークに達しています。到着次第、十分な休息が必要です」
くるみさんの言う通りだった。
先頭を歩く陽子さんのシルクのガウンは泥と煤で汚れ、冬美ちゃんはボロボロになった木刀を杖代わりに引きずるように歩いている。グレタは無言だが息が荒く、アストリッドに至っては重いノートPCを抱えながら、今にも泣き出しそうな顔で足を引きずっていた。
家を失い、死と隣り合わせの激戦を潜り抜け、終わりの見えない暗闇を歩き続ける。肉体的にも精神的にも、チームの限界はすぐそこまで来ていた。
それから1時間後。
俺たちはついに、行き止まりのコンクリート壁にカモフラージュされた重厚な鉄扉の前に辿り着いた。
アストリッドが震える手で電子キーを操作すると、プシュウゥゥという空気の抜ける音と共に、分厚い扉が重々しく開いた。
中に入り、くるみさんが自家発電機のスイッチを入れると、チカチカと点滅しながら薄暗い蛍光灯が点灯した。
そこは、テニスコート一面分ほどの広さがあるコンクリート打ちっ放しの地下空間だった。壁際には水の入ったポリタンクや非常食の段ボール箱、簡易ベッドがいくつも並べられており、換気扇が低いモーター音を立てて回っている。
「……着いた。ここなら、クロノスの衛星からも熱源センサーからも完全に隠れられるよん」
アストリッドがそう言った瞬間、緊張の糸が切れたように、全員が冷たいコンクリートの床にへたり込んだ。
「あー……死ぬ。マジで足が棒になっとるばい……」
冬美ちゃんが大の字になって倒れ込む。由希さんも陽子さんも、汚れを気にする余裕もなく、壁にもたれかかって目を閉じた。
俺は床にリュックを下ろし、胸のキャリーバッグを開けた。
「ミャン」
チビが顔を出し、安全を確認するように耳をピクピクと動かした。そして、おそるおそるバッグから這い出すと、部屋の隅をクンクンと嗅ぎ回り、最終的に俺のあぐらをかいた膝の上にちょこんと座り込んだ。
恐怖と疲労で震えている小さな身体。俺はチビの背中を、落ち着かせるように何度も何度も撫でた。
「……チビ、よく頑張ったな。もう大丈夫だぞ」
チビは「ゴロゴロ」と微かに喉を鳴らし、俺のお腹に顔を埋めて目を閉じた。
その愛らしい寝顔を見ていると、俺の胸の奥から、ふつふつと温かいものが湧き上がってくるのを感じた。
「こんな時だからこそ、腹に入れなきゃ戦えない」
俺はチビを毛布の上にそっと寝かせると、立ち上がり、壁際に積まれた備蓄品の段ボール箱を物色し始めた。
「くるみさん。この段ボールに入っている白い粉の袋、なんですか?」
「ああ、それね。日持ちする炭水化物として大量に買い込んでおいた、乾燥ウラド豆の粉末と米粉よ。水で溶いて焼けば、とりあえず腹の足しにはなると思って」
「豆の粉と米粉……それに、こっちの段ボールにはレトルトのジャガイモと、缶詰のスパイスセットがありますね。これなら『マサラドーサ』が焼けます」
「ドーサ!? 南インドの、あの巨大なクレープみたいなやつ?」
由希さんが不思議そうに目を開けた。
「ええ。でも、本来ドーサの生地は、水で溶いてから一晩かけて乳酸発酵させないと、あの特有の酸味と、パリッとした気泡の入った食感が出ないんです。さすがに明日まで待つ余裕はありませんから……そこで、これの出番です」
俺は、飲料用の備蓄段ボールから、数本の細長い缶を取り出した。
「……レッドブル? エナジードリンクをどうするの?」
陽子さんが怪訝な顔をする。
「料理の科学ですよ。発酵させる時間がないなら、生地にレッドブルを混ぜるんです。レッドブルの『強炭酸』が生地の中に無数の気泡を作り出してパリッとした食感を生み、エナジードリンク特有の『クエン酸系の酸味』が、発酵したような風味を疑似的に再現してくれます」
「炭酸と酸味で、発酵プロセスをショートカットするってわけね。……相変わらず、変なところで機転が利くわね、あんたは」
裕里子が呆れたように息を吐きながらも、その目には微かな期待の色が浮かんでいた。
俺はシェルターに備蓄されていたカセットコンロを二つ並べ、俺のリュックから生き残った愛用のフライパンと包丁を取り出し、手早く調理を開始した。
まずは中身となる「マサラポテト」の調理だ。
リュックに残っていた少量のサラダ油を熱し、備蓄のマスタードシードを投下する。パチパチパチッ! と種が弾ける小気味よい音が地下室に響く。そこへ缶詰のカレーリーフやターメリックパウダーを加え、レトルトのジャガイモを潰しながら炒め合わせる。
瞬間、柑橘類のような、それでいてスパイシーな鮮烈な香りが、カビ臭かったコンクリート打ちっ放しの地下空間を一気に南インドの風へと塗り替えた。
「うわぁ……なんか、すっごい食欲そそる匂いがしてきたよん……」
疲れ切っていたアストリッドが、ふらふらと立ち上がって近づいてくる。
次はいよいよ、ドーサの焼き上げだ。
ボウルに米粉と豆の粉を入れ、そこに冷えたレッドブルと少量の水を注いで素早く混ぜ合わせる。炭酸のシュワシュワとした泡が生地の中に閉じ込められていく。
熱したフライパンの中心に、その特製バッター液をお玉でジュワッ! と注ぎ込む。
すぐさまお玉の底を使い、生地の中心から外側に向かって、螺旋を描くように素早く、薄く広げていく。
「お見事な手際ですわね。まるで職人のようですわ」
くるみさんが感心したように呟く。
炭酸ガスのおかげで、生地の表面には本物の発酵生地のような小さな穴がポツポツと開き始めた。表面が乾いてきたら、縁から油を回しかける。油の香ばしい匂いが立ち上り、白い生地がみるみるうちにキツネ色に焼き上がっていく。
縁がパリッと反り返り、完璧な黄金色になったところで、中央にマサラポテトをこんもりと乗せる。そして、生地を筒状にパタン、パタンと折りたためば、プロ顔負けの巨大な「即席マサラドーサ」の完成だ。
「お待ちどうさまです。……それと、飲み物もどうぞ」
俺は焼き上がったドーサを紙皿に乗せると、キンキンに冷えた残りのレッドブルを備蓄の紙コップに注ぎ、ドーサと共にメンバーに手渡した。
「今日の過酷な逃避行を乗り切り、これからの反撃への気力をチャージするための、俺なりの最強のペアリングです」
「いただきます……!」
全員が、大きなドーサを手でちぎって口に運んだ。
パリッ……! という小気味よい音。
ドーサの香ばしさと、レッドブル由来のほのかな酸味。そして中から現れる、スパイスの香りを纏った熱々でホクホクのマサラポテト。
口の中がスパイスの熱気で満たされたところに、冷たいレッドブルを流し込む。
「……ッ!!」
スパイスの刺激を強炭酸が洗い流し、ケミカルな甘味と酸味が爆発的に混ざり合い、未知の活力を生み出していく。
「ウマッ! なんこれ、サトル先輩! 徹夜明けでボロボロの体に、スパイスとエナドリのコンボがマジでブチ上がるとよ!!」
冬美ちゃんが目を輝かせ、猛烈な勢いでドーサに噛み付く。
「……信じられない組み合わせだけど、悪くないわね。スパイスの血行促進効果と、カフェインの覚醒作用……理にかなっているわ」
グレタも静かに分析しながら、満足そうにレッドブルを煽った。
絶望の淵にあった地下シェルターに、香ばしいスパイスの匂いと、メンバーたちの力強い咀嚼音、そして微かな笑い声が満ちていく。
家を失い、死の恐怖を味わったはずの彼女たちの目には、すでに屈強な闘志の炎が再び宿り始めていた。
「……ごちそうさま、サトル」
裕里子がドーサを完食し、レッドブルの缶をテーブルの段ボールの上にドンッと置いた。
彼女は立ち上がり、黒光りするダマスカス鋼の退職届を力強く握り直した。
「腹も膨れたし、目も覚めたわ。……これ以上、奴らの好きにはさせない」
裕里子の言葉に呼応するように、アストリッドがノートPCを開き、キーボードをターン! と叩いた。
「さあ、反撃の時間よ」
俺の料理の科学とエナジードリンクが着火剤となり、ミッドナイト・エグジットの逆襲の狼煙が、この暗い地下シェルターから確かに上がったのだった。




