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社畜の俺、伝説の元スパイと「深夜0時の退職代行」始めます。~ブラック企業からヤクザの組まで、物理と法律で「円満退社」させます~  作者: 伊達ジン
【第3章】 過去からの亡霊

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第35話 法律など通用しない?

 昨日の白昼堂々行われた霞が関へのカチコミは、結果的に大成功を収めた。

 俺たちミッドナイト・エグジットは、ブラック労働システム「プロジェクト・オーバーライト」の推進者であった神宮寺局長を物理的・社会的・法的に完全に失脚させ、監禁状態だった依頼人の新海さんを救出した。

 さらに、諸悪の根源である巨大コンサルタント会社「クロノス」と、政官界を繋ぐ決定的な証拠データも手に入れたのだ。俺たちはついに、最強の敵であるクロノスの本丸へ攻め込むための、絶対的な武器を得たはずだった。


 翌朝。アジトである洋館は、いつもと変わらない穏やかな空気に包まれていた。

 俺はいつものようにエプロン姿でキッチンに立ち、メンバーたちの朝食作りに取り掛かっていた。今日は少し冷え込むため、胃腸を温める和食メニューに決めている。小鍋に張った水に日高昆布を沈め、じっくりと弱火にかけて旨味を引き出していく。


「にゃーん」


 ふと、足元から高くて甘い鳴き声が聞こえた。

 視線を下げると、黒猫のチビが俺の足首に柔らかなしっぽをくるんと巻きつけながら、スリスリと頭を擦り寄せてきている。


「おはよう、チビ。お腹空いたのか?」


 俺がしゃがみ込んで耳の後ろを優しく掻いてやると、チビは目を細め、「ゴロゴロ、ゴロゴロ……」と小さなエンジン音のような喉鳴らしを始めた。ピンク色の小さな肉球を見せながら前足を伸ばし、ザラザラとした舌で俺の指先をペロペロと舐め、時折じゃれるように甘噛みしてくる。

 ひとしきり甘え終わると、チビは「にゃっ」と短く鳴き、朝日が差し込むリビングの窓辺へとトコトコ歩いていった。ぽかぽかとした陽だまりの中に座り込み、前足を丁寧に舐めて顔を洗い始める。そして、大きな欠伸を一つして、丸くなってうたた寝を始めた。

 その丸みを帯びた艶やかな黒い背中と、無防備で愛らしい姿を見ていると、かつてブラック企業で擦り切れていた俺の心は芯から癒やされていく。チビは間違いなく、この危険と隣り合わせのアジトにおける一服の清涼剤であり、俺が何としても守り抜きたいと願う「平和な日常」の象徴だった。


「……おはよう、遠藤くん。いい匂いね」


 背後から声をかけられ、俺は振り返った。

 リビングに現れたのは、顧問弁護士の福田由希さんだった。しかし、その姿を見て俺は思わず目を丸くした。

 いつもは一糸乱れぬ完璧なスーツ姿で、凛とした隙のないオーラを纏っている彼女が、今日はシルクのブラウスに無数のシワを寄せ、タイトスカートも少しよれている。何より、その整った顔立ちは青白く、目の下には隠しきれないほど濃い隈ができていた。ハイヒールを鳴らす足取りも、どこかふらついている。


「由希さん……? もしかして、昨日から一睡もしていないんですか?」

「ええ……まあね」


 由希さんは力なく微笑むと、崩れ落ちるように革張りの大きなソファに身を沈めた。

 昨日、神宮寺局長からアストリッドが抜き取った膨大な裏データ。由希さんはアジトに帰還した後、休む間もなくその解析と、クロノスおよび関与した政治家たちを法的に告発するための書類作成に没頭していたはずだ。

 俺が温かいほうじ茶を淹れて由希さんの前に置くと、彼女は震える両手でティーカップを包み込むように持ち、一口飲んで深く、重い溜め息を吐いた。


「……私の、完敗よ」


 ポツリとこぼれ落ちたその声には、今まで俺が聞いたこともないような深い絶望が滲んでいた。


「完敗って……告発状の準備は完璧だったんじゃないんですか? 証拠だって、言い逃れできないほどの決定的な裏帳簿があったはずじゃ……」

「そうよ。完璧だったわ。私が弁護士人生を懸けて組み上げた、一分の隙もない法理論。あれなら、どんな大物政治家だろうと、クロノスの幹部だろうと、確実に刑務所にぶち込めたはずだった」


 由希さんは悔しげに唇を噛み締め、カップを見つめたまま言葉を紡ぐ。


「今朝一番で、地検特捜部の知人に直接データを持ち込んだの。でも、彼らは証拠書類を見るなり顔色を変えて、奥の部屋へ引っ込んだ。そして1時間後に出てきた特捜部長から言い渡されたのは、『不受理』という言葉だったわ」

「不受理? どうしてですか!」

「『重大な安全保障に関わる機密事項が含まれているため、現行法では立件できない』……だそうよ。でっち上げもいいところだわ」


 由希さんの拳が、膝の上で白くなるほど強く握りしめられた。


「それだけじゃない。裁判所に提出しようとした仮処分申請も、担当裁判官が突然すげ替えられて即座に却下された。私が所属する弁護士会には、朝の時点で『国家反逆罪に該当する疑いがある』という理由で、私の弁護士資格の停止処分を検討しろという圧力が上層部からかかっているらしいわ」


 俺は息を呑んだ。

 それが、国の中枢を敵に回すということか。これまで俺たちが相手にしてきたブラック企業の社長や悪徳コンサルタント、あるいはヤクザの組長といったレベルを遥かに超越した「理不尽の塊」がそこにあった。


「……でも、メディアはどうなんですか?」


 俺はすかさず尋ねた。


「昨日、カチコミの最中に主要マスコミ各社や、海外メディアのリーク窓口にも証拠のデータを一斉送信しましたよね? あっちから報道の火の手が上がれば……」

「無駄よ」


 由希さんは力なく首を振った。


「各局の報道フロアまでは間違いなくデータが届いていた。でも、今朝のニュース番組はどこも一言もこの件に触れていないわ。それどころか、深夜にアストリッドが海外の匿名掲示板やSNSにばら撒いた告発の投稿すら、数分のうちに謎のアルゴリズムによって根こそぎ削除されているのよ」


 法廷という戦場すら用意してもらえず、世間に事実を伝えるメガホンすらも強引に奪い取られる。


「証拠も、論理も、正義も……全てが『超法規的措置』という名の一言で、なかったことにされた。私が信じて、武器として磨き上げてきた法律が、連中の前ではただの紙切れ同然だったのよ……っ」


 由希さんの瞳から、ポロリと一滴の涙が零れ落ち、スカートの生地に染みを作った。

 常に冷静沈着で、法律という絶対的な剣で何人もの依頼人を救ってきた彼女が、その剣を根元からへし折られ、プライドを粉々に打ち砕かれた瞬間だった。


「なんだ、朝から湿っぽいじゃないの」


 二階からあくびをしながら降りてきたのは、ボスの青木裕里子だった。彼女の背後には、アストリッドやくるみさん、冬美ちゃん、陽子さんたちの姿もある。皆、由希さんのただならぬ様子に事態を察したようだった。

 由希さんの報告を聞いた裕里子は、不機嫌そうに舌打ちをした。


「要するに、お偉いさん方が寄ってたかって自分たちの悪事を法制度の陰に隠して揉み消したってわけね。クソ忌々しい。由希、アンタは悪くないわよ」


 裕里子は壁に立てかけてあった愛用のダマスカス鋼の退職届を手に取ると、鋭い眼光を放った。


「小賢しい理屈が通じないなら、話は早いわ。アタシが直接永田町に乗り込んで、関わった連中の頭蓋骨を物理的に割って、脳みそに直接退職届を刻み込んでやるわよ」

「ダメです、裕里子さん」


 すかさず止めたのは、金庫番のくるみさんだった。彼女はいつもの笑顔を完全に消し、冷徹な目で裕里子を睨む。


「相手の規模を考えてください。あなたが単独で暴れ回れば、それこそ彼らに『テロリストによる破壊工作』という大義名分を与え、自衛隊や公安警察の総力を挙げて私たちを合法的に抹殺しに来るでしょう。クロノスの思う壺です」

「じゃあ、泣き寝入りしろって言うの!?」

「そうは言っていません。ただ、正面からの力押しは悪手だと言っているんです」


 重苦しい沈黙がリビングを支配した。

 頼みの綱だった「法律」が無効化され、最大の武器である「物理」も封じられた。八方塞がりだ。見えない巨大な壁の前に、チームは完全に動きを止められていた。

 そんな中、俺は無言でキッチンへと戻った。

 俺には、強大な権力を打ち倒すような腕力も、天才的なハッキングスキルも、人を操る心理術もない。ただの元社畜だ。

 だが、俺には「料理」があった。そして、ブラック企業という地獄の底を這いずり回ってきた経験があった。

 俺は小鍋で取っていた昆布出汁に、たっぷりの血合い抜きの本枯節を加えて一番出汁を引く。透き通った黄金色の出汁に、薄口醤油と少量の塩で上品な味を調える。

 次に、昨日買っておいた新鮮な金目鯛の切り身に軽く塩を振り、皮目がパリッとするように丁寧に炙り焼きにする。炊きたてのつややかな白いご飯をどんぶりによそい、その上にほぐした金目鯛の身をたっぷりと乗せた。刻んだ三つ葉と、香ばしいぶぶあられ、そしてほんの少しの柚子の皮を添える。

 最後に、熱々の特製一番出汁を、金目鯛の身の上から静かに回しかけた。

 フワァ……と、三つ葉と柚子、そして上品な鰹出汁の香りがキッチンからリビングへと漂っていく。


「由希さん。少し、食べてください」


 俺はお盆に乗せた「金目鯛と三つ葉の特製出汁茶漬け」を、ソファで俯く由希さんの前のテーブルにそっと置いた。

 その時だった。窓辺で寝ていたはずのチビが、トコトコと由希さんの足元に歩み寄り、軽やかなジャンプで由希さんの膝の上にポンと乗ったのだ。


「……チビ?」


 チビは由希さんの太ももの上で丸くなると、由希さんのお腹に顔を押し付けるようにして、「ゴロゴロ、ゴロゴロ……」と大きな音で喉を鳴らし始めた。まるで、絶望に震える由希さんを温め、慰めようとしているかのように。

 由希さんはハッとして、震える手でチビの柔らかな黒い毛並みを撫でた。チビの体温が、冷え切っていた由希さんの手のひらに伝わっていく。


「いただきます……」


 由希さんはチビを片手で抱きながら、もう片方の手で木製のスプーンを持ち、出汁茶漬けをすくって口へ運んだ。

 瞬間、由希さんの目が僅かに見開かれた。

 上品で奥深い出汁の旨味。金目鯛の脂の甘みと香ばしさ。三つ葉の爽やかな香りが、徹夜で荒れ果てた胃の粘膜に優しく染み渡っていく。熱々の温度が、こわばっていた彼女の身体の緊張を芯から解きほぐしていくようだった。


「美味しい……すごく、温かいわ」


 由希さんは涙を拭い、夢中で出汁茶漬けを口に運んだ。三分の一ほど食べたところで、彼女の顔には少しだけ血の気が戻っていた。


「遠藤くん。ごめんなさい、私……弁護士として、一番大切なところで役に立てなかった」


 由希さんの弱音に対し、俺はエプロンの紐を締め直しながら、静かに、しかし力強い声で言った。


「俺、由希さんが役に立たなかったなんて、全く思いませんよ。由希さんの告発状があったからこそ、相手は『超法規的措置』なんていうなりふり構わない手段を使わざるを得なかったんです。それは、彼らが由希さんの法律を最大の『脅威』だと認めた証拠じゃないですか」

「でも、結果的に握り潰されたわ。ルールを作る側の人間がルールを無視したら、私たちにはもう打つ手がない……」

「打つ手なら、ありますよ」


 俺の真っ直ぐな言葉に、リビングにいた全員の視線が集まった。


「俺が以前いたブラック企業でも、就業規則や労働基準法なんて、ただの飾りでした。上が『黒』と言えば『白』も『黒』になる。社長の言葉が絶対のルールでした。そういう閉鎖的な組織の中でルールを無視された時、中でいくら正論を叫んでも無駄なんです」


 俺は、かつて自分が三十歳の誕生日に死にかけていた夜のことを思い出しながら言葉を繋いだ。


「そういう時に効くのは、ただ一つです。中がダメなら、外から火をつけるしかない。理屈が通じない相手は、理屈じゃないもので殴るんです」

「理屈じゃないもの……?」

「由希さん。法律がダメなら……『世論』です」


 俺の言葉が、静かなリビングに響き渡った。


「相手が報道機関を検閲して情報を消すなら、メディアを通さずに直接世界中の人々に突きつければいい。国民の、いや、一般大衆の『怒り』や『不信感』という圧倒的な感情のうねりを引き起こして、奴らが隠れ蓑にしている権力ごと燃やし尽くすんです」


 その言葉を聞いた瞬間、由希さんの瞳の奥に、消えかけていた理知的な光が再び灯るのが見えた。

 同時に、アストリッドがポンと手を打った。


「なるほどね! 既存のメディアやSNSのプラットフォームを通すから、連中の息がかかったアルゴリズムに握り潰されるんだ。なら、世界中のユーザーの端末を一時的に乗っ取って、ダイレクトに、強制的に真実のデータを送りつけてやればいい!」

「お堅いニュースじゃなくて、誰もが飛びつく最悪のスキャンダルとしてエンタメに仕立て上げるのよ」


 陽子さんも艶やかな笑みを浮かべ、自身の長い髪をファサリと掻き上げた。


「私がシナリオを書いてあげる。大衆の怒りと好奇心に、一瞬で爆発的な火をつけるような極上のドキュメンタリーをね」

「おや、それは面白そうですね。コントロール不可能な大衆の感情のうねりは、いかなる権力者であっても抑え込むことはできませんから」


 くるみさんも、底知れぬ笑みを浮かべてメガネを押し上げた。


 膝の上のチビが「にゃっ」と鳴いて由希さんの手を舐めた。

 由希さんはチビの頭を優しく撫でると、すっかり空になったどんぶりをテーブルに置き、スッと立ち上がった。その立ち姿には、もう先ほどの絶望の影は微塵もなかった。


「遠藤くん。美味しい朝食をありがとう。目が覚めたわ」


 由希さんは凛とした声で宣言した。


「法律が紙切れにされたのなら、その紙切れを火種にして、奴らの足元に大火災を起こしてやるわ。アストリッド、陽子。準備にかかって。クロノスと腐りきった中枢に、世論という名の裁きを下すわよ!」


 俺の機転と温かい料理、そしてチームの絆が、絶望の淵にあった顧問弁護士を復活させた。

 見えない巨大な壁に対し、俺たちミッドナイト・エグジットは次なる手――「世界を巻き込んだ大炎上」という、かつてない規模の反撃作戦へと舵を切ったのだった。

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