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社畜の俺、伝説の元スパイと「深夜0時の退職代行」始めます。~ブラック企業からヤクザの組まで、物理と法律で「円満退社」させます~  作者: 伊達ジン
【第3章】 過去からの亡霊

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第31話 チーム解散の危機

 朝の柔らかな日差しが、アジトのキッチンの床に四角い模様を描いていた。

 俺は、コーヒーメーカーのスイッチを入れ、その隣で小さな命の朝食を準備していた。


「ミャァ……ミャァッ!」


 足元では、緑色の唐草模様の首輪をつけた黒猫のチビが、待ちきれない様子で俺のズボンの裾によじ登ろうとしている。

 拾った当初は手のひらサイズだったチビも、最近はずいぶんと猫らしい体つきになってきた。とはいえ、まだまだ子猫だ。短い手足をジタバタさせながら、必死に「ご飯アピール」をする姿は、どれだけ見ていても飽きない。


「はいはい、待て待て。今出すからな」


 俺はチビ用の浅いお皿に、子猫用のカリカリと、少しのウェットフードを混ぜて置いてやった。

 チビは「ニャムニャム」と鼻を鳴らしながら、一心不乱に食べ始める。勢い余って、口からポロリとこぼれ落ちた一粒のカリカリ。チビはそれを短い右の前足でチョイチョイと引き寄せ、顔を横に傾けて不器用に掬い上げようとしている。

 そのあどけなくも真剣な仕草が破壊的に可愛くて、俺は思わずしゃがみ込み、チビの柔らかい背中をそっと撫でた。


「お前はいいな。毎日ご飯を食べて、寝て、遊んでるだけでみんなを幸せにしてるんだから」

「ミャッ?」


 チビが口元にフードの欠片をつけたまま、琥珀色の瞳で見上げてくる。

 俺は苦笑して、その汚れを指先で拭ってやった。

 平和な朝だ。

 昨夜、裕里子さんから突然の「解雇宣告」を受けた時はどうなることかと思ったが、俺の説得でなんとか撤回させることができた。最大の敵であるコンサルタント会社『クロノス』の脅威は迫っているが、俺たちはチームとして共に立ち向かう決意を固めたはずだった。


「サトル先輩、おはよー……」


 欠伸をしながらリビングに現れたのは、パジャマ姿の藤原冬美だった。寝癖でツインテールが片方だけ跳ねている。


「おはよう、冬美ちゃん。朝ご飯、トーストと昨日のピエロギの残りでいいか?」

「うん、食べるー。あー、ヤバい、まだ眠い……」


 冬美ちゃんに続いて、アストリッド、由希さん、くるみさん、グレタ、陽子さんと、アジトの住人たちが次々とダイニングに集まってくる。

 いつもの騒がしい朝の光景だ。

 ただ一人、この組織のボスである青木裕里子の姿がないことを除いては。


「裕里子さん、まだ起きてきませんね」

「昨日の夜、『明日は午後まで寝るから』って言ってたじゃない。あの戦闘狂のことだから、どうせ昼過ぎに起きてきて『肉が食べたい』とか騒ぎ出すわよ」


 由希さんがトーストにバターを塗りながら、呆れたように言った。

 確かに昨夜の彼女は、肋骨を負傷した状態でパワードスーツの巨漢と戦い、さらにはヤクザの事務所にカチコミをかけるという、常人離れした強行軍をこなしていた。疲労が溜まっていても不思議ではない。


 だが、俺の胸の奥で、社畜時代に培われた「嫌な予感」を告げるアラートが、微かに鳴り始めていた。

 昨夜の裕里子の様子。解雇を言い渡してきた時の、あの悲痛な瞳。

 俺の言葉に折れたように見えたが、本当に彼女は諦めたのだろうか?


「……俺、ちょっと様子を見てきます」


 俺はエプロンを外し、二階にある裕里子の自室へと向かった。

 重厚な木製のドアの前に立ち、ノックをする。


「裕里子さん。起きてますか?」


 返事はない。

 寝ているなら無理に起こす必要はない。だが、嫌な予感が拭えず、俺はそっとドアノブに手をかけた。鍵はかかっていなかった。


「失礼します……」


 ドアを開けた瞬間、俺は息を呑んだ。

 部屋の中は、もぬけの殻だった。

 ベッドのシーツは一枚のシワもなく綺麗に整えられており、昨夜まで彼女が着ていた服も、愛用している特殊警棒などの武器類も、すべて消え失せている。

 人が生活していた匂いすら、完全に拭い去られているようだった。


「……嘘だろ」


 俺は部屋の中に足を踏み入れた。

 サイドテーブルの上に、見覚えのある鈍色の金属板が置かれているのを見つけた。

 無骨な溶接跡が残る、ダマスカス鋼の退職届。

 その隣には、彼女のスマートフォンと、一枚の白い便箋が残されていた。


 俺は震える手でその便箋を手に取った。

 そこには、裕里子の整った筆跡で、たった一行だけが書かれていた。


『今までありがとう。みんなと過ごした日々、悪くなかったわ』


「……っ!!」


 俺は血の気が引くのを感じながら、階段を駆け下りた。


「みんな! 裕里子さんが……ボスが、いなくなった!!」


 ダイニングに飛び込んできた俺の声に、全員の動きがピタリと止まった。


「いなくなった? どういうことよ、遠藤くん」


 くるみさんが立ち上がり、険しい顔で問いかける。

 俺は手に持っていたダマスカス鋼の退職届と置き手紙、そして彼女のスマホをテーブルの上に叩きつけた。


「これを見つけて……部屋には荷物も武器も、スマホすら残されていませんでした。昨日の夜、俺に『解雇する』って言ってきたんです。クロノスは危険だから、俺たちを巻き込めないって。俺が断ったから、一人で……!」


 俺の言葉に、リビングの空気が一瞬にして凍りついた。


「あの馬鹿女……! なんで一人で行くんよ!」


 冬美ちゃんが椅子を蹴り倒し、声を荒げた。


「相手はあのクロノスよ。単身で乗り込んで無事で済むはずがないわ……!」


 由希さんがギリッと唇を噛み締める。

 陽子さんは顔面を蒼白にし、グレタは舌打ちをした。


「アストリッド! ボスの行方は追えないの!?」


 グレタの鋭い声に、アストリッドが弾かれたようにノートPCのキーボードを叩き始めた。

 カカタ、カカタ、ッターン!

 凄まじい速度でタイピングが行われ、複数のウィンドウが開いては閉じる。


「スマホを置いていったならGPSは使えない! 街の監視カメラ網を顔認証でスキャンする……ダメだ、完全にカメラの死角を縫って移動してる。スパイ時代のプロの動きだよ!」

「じゃあ、どこに向かったか分からないのか……?」

「待って……昨日、ボスが私の裏サーバーからアクセスした機密データの閲覧ログが残ってる! ……ビンゴ。港区にある巨大な高層ビル。クロノスのダミー会社の登記住所だ。間違いない、ボスは敵の総本山に向かったんだ!」


「……飛んで火にいる夏の虫とはこのことだわ」


 くるみさんが冷たく呟く。

 その瞳には、かつてないほどの焦燥感が浮かんでいた。

 いくら裕里子が最強の元スパイだとしても、生きて帰ってこられる保証はどこにもない。


「どうするの……ウチら、どうすればいいん……!?」


 冬美ちゃんが顔を覆って泣き出しそうになる。

 アストリッドも、震える手でPCのモニターを見つめたまま固まっていた。

 最強のボスを失い、チームは完全に統率を失いかけていた。

 解散の危機。

 このまま裕里子を見捨てて逃げることもできる。それが、彼女が俺たちに望んだことなのだから。


 だが。


「ミャァ……」


 足元で、チビが不安そうに鳴いた。

 俺の足にスリスリと体を擦り寄せ、見上げてくる。

 その温もりを感じた瞬間、俺の中にあった迷いが、嘘のようにスッと消え去った。


「……依頼を受けましょう」


 俺の静かな声が、ダイニングに響いた。


「依頼? 誰のよ」


 由希さんが眉をひそめる。

 俺は、テーブルに置かれたダマスカス鋼の退職届を手に取り、しっかりと握り締めた。


「遠藤悟です。……俺が、ミッドナイト・エグジットに依頼します」

「遠藤くん……?」

「対象者は、青木裕里子。彼女を、クロノスという名のブラック組織から、強制的に『退職』させてください」


 俺は、メンバー全員の顔を真っ直ぐに見回した。


「俺たちの仕事は、辞めたくても辞められない人を、物理的・法的に退職させることじゃないですか。裕里子さんは今、過去という名のブラック組織に縛られて、自分から辞めることができていないんです」

「……」

「だから、俺たちが彼女の『退職代行』をするんです。クロノスから、彼女を無理やり辞めさせて、このアジトに連れ戻す。……それが、俺たちのやるべき仕事でしょう?」


 俺の言葉に、重苦しかった空気が、少しずつ、確実に変わっていくのが分かった。

 静寂の中、ふっと息を吐く音が聞こえた。

 くるみさんだった。彼女はいつもの「聖母の微笑み」を取り戻し、優雅に髪をかき上げた。


「……ふふっ。言うようになったじゃない、遠藤くん。ただの家事手伝いの社畜だと思っていたのに。でも、相手は巨大な組織よ? 依頼料は、とても高くてよ?」

「出世払いでお願いします。……俺の借金、まだチャラにする気はありませんから」


 俺がニヤリと笑うと、由希さんが呆れたように肩をすくめた。


「法的な代理人としては、ずいぶんと無茶苦茶で、利益の出ない案件ね。……でも、悪くないわ。あの馬鹿なボスに、違約金を請求してやらないと気が済まないからね」


 由希さんが六法全書を手に取り、不敵な笑みを浮かべる。


「致死量ギリギリの劇薬が必要になりそうね。……あの筋肉ダルマを溶かすための、とびきり強い酸を調合するわ」


 グレタが白衣を翻し、地下の実験室へと向かう。


「ウチの潜入スキル、見せつけちゃる! あんなビル、清掃員にでも化ければ一発で侵入できるけんね!」


 冬美ちゃんが両手でバンと頬を叩き、気合を入れる。


「最高の舞台ね。私が主演女優賞をもらっちゃうわよ。クロノスの役員どもを、私の色香と嘘で狂わせてあげる」


 陽子さんが真紅のルージュを引き直し、妖艶に笑う。


「私はクロノスのメインサーバーを、跡形もなく消去してやる! フェンリルの防壁ごと、木っ端微塵にしてやるんだから!」


 アストリッドがヘッドフォンを装着し、凄まじい気迫でキーボードを叩き始めた。


 全員の目に、かつての輝きと闘志が戻っていた。

 誰も、逃げる気などない。

 ボスの青木裕里子を救い出す。そのためなら、どんな組織が相手でも、俺たちは一歩も引かない。


「遠藤くん」


 くるみさんが、俺の肩にポンと手を置いた。


「貴方が総務部長で、本当に良かったわ。……さあ、作戦会議よ」

「はい!」


 足元で、チビが「ミャウ!」と力強く鳴いた。まるで自分も作戦に参加すると言っているようだ。

 俺はチビの頭を優しく撫で、ダマスカス鋼の退職届をアタッシュケースに収めた。


 チーム解散の危機は去った。

 ここからは、反撃の時間だ。

 クロノスへの、史上最大の退職代行が、今、始まろうとしていた。

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