第30話 遠藤の決断
深夜のアジト。
広いキッチンのステンレス台の上で、俺は小麦粉の山と格闘していた。
強力粉と薄力粉を絶妙なブレンドで合わせ、中央にくぼみを作る。そこに卵、塩、少量のサラダ油、そしてたっぷりのサワークリームを落とし、ぬるま湯を少しずつ加えながら指先で混ぜ合わせていく。
最初は手にベタベタとまとわりついていた生地が、捏ねるうちに次第になめらかになり、耳たぶのような柔らかな弾力を持ってきた。
ボウルを被せて生地を休ませている間に、フィリングの準備にとりかかる。
今日作っているのは、東欧の伝統的な家庭料理『ピエロギ』。
一言で言えば、ポーランド風の茹で餃子だ。
具材は二種類用意した。
一つは『ルスキエ』と呼ばれる大定番。ホクホクに茹でてマッシュした男爵イモに、カッテージチーズ、そして飴色になるまでじっくりと炒めた玉ねぎをたっぷりと混ぜ込む。塩胡椒で味を調えただけのシンプルな構成だが、ジャガイモの甘みとチーズの酸味、玉ねぎのコクが三位一体となる。
もう一つは『カプスタ・イ・グジビ』。酸味の効いたサワークラウトと、水で戻した香り高いドライポルチーニ茸、そして豚のひき肉を合わせて炒め煮にした、大人向けの深い味わいのフィリングだ。
休ませておいた生地を麺棒で薄く延ばし、グラスの縁を使って丸く型を抜いていく。
そこにたっぷりのフィリングを乗せ、半分に折って縁を指でつまみ、フリルのような美しいヒダを作って閉じる。このヒダ作りこそが、プロ顔負けのピエロギに仕上げるための腕の見せ所だ。
数十個の美しい半月型のピエロギが、オーブンシートの上に整然と並んだ。
たっぷりの湯を沸かし、少量の塩と油を入れてピエロギを泳がせる。
数分後、ぷっくりと膨らんだピエロギが水面に浮き上がってきたら、素早く網杓子で引き上げる。
本来ならこのまま茹でたてを食べるのも美味しいが、俺はもうひと手間かける。
熱したフライパンにたっぷりの無塩バターを溶かし、茹で上がったピエロギを投入する。ジュワァァァッ! という食欲をそそる音と共に、バターの芳醇な香りが深夜のキッチンに弾けた。
「……いい匂いね。真夜中のテロだわ」
背後から、静かな声がした。
振り返ると、黒いシルクのガウンを羽織ったボスの青木裕里子が、キッチンの入り口で腕を組んで立っていた。
昨日の夕方、あの『クロノス』の幹部からの宣戦布告ビデオメッセージを見て以来、彼女の表情はずっと硬いままだったが、今は少しだけ疲労の色が混じっているように見えた。
「眠れませんか、裕里子さん」
「ええ。目を閉じると、昔の血生臭い光景がフラッシュバックしてね。……あんたこそ、こんな時間に何を作ってるの」
「ピエロギですよ。東欧の餃子みたいなもんです。……ちょうど焼き上がります。食べますか?」
俺が尋ねると、裕里子は無言でコクリと頷き、ダイニングテーブルの定位置に座った。他のメンバーたちは皆、自室で深い眠りについている。
俺は焼き上がったピエロギを皿に盛り付けた。
表面はバターでカリッとキツネ色に焼け、中はモッチリとしている。その上から、カリカリに炒めたベーコンビッツと、フレッシュなディルを散らし、脇に冷たいサワークリームをたっぷりと添える。
「そして、今日の夜食に合わせるお酒は、これです」
俺は、あらかじめぬる燗に温めておいた陶器の徳利と、お猪口をテーブルに置いた。
注がれた液体は、うっすらと黄金色に色づいている。
「……日本酒?」
「はい。石川県産の、山廃仕込みの純米酒です」
「東欧の料理に、日本酒を合わせるの?」
「ええ。山廃仕込み特有の、乳酸発酵によるふくよかな酸味と、力強いお米の旨味がポイントです。ピエロギのバターのコク、カッテージチーズやサワークラウトの酸味と、この日本酒の酸味が、口の中で見事に調和するんですよ。下手な白ワインよりずっと合います」
俺が自信を持って勧めると、裕里子はお猪口を手に取り、くいっと一口煽った。
そして、フォークで『ルスキエ』のピエロギを切り分け、サワークリームを乗せて口に運ぶ。
「……サクッ、モチッ」
「どうですか?」
「……驚いた。本当に合うわね」
裕里子の目が、わずかに見開かれた。
「バターで焼けた香ばしい生地の中から、イモの甘みとチーズのまろやかな酸味が溶け出してくる。そこへ、この温かい日本酒を流し込むと……料理の重さを日本酒の酸が綺麗に洗い流して、旨味だけを何倍にも引き伸ばしてくれる。……美味しいわ」
彼女はすぐさま二つ目の『カプスタ・イ・グジビ』に手を伸ばした。
ポルチーニ茸の深い香りとキャベツの酸味が、さらに山廃の酒と複雑に絡み合う。
しばらくの間、ダイニングにはピエロギを咀嚼する音と、お猪口がテーブルに置かれる小さな音だけが響いていた。
「……サトル」
皿が半分ほど空になった頃。
裕里子が、ふと手を止め、俯いたまま口を開いた。
「美味しいご飯をありがとう。……これが、あんたの作る『最後のまかない』になるわね」
「えっ?」
俺はコーヒーを淹れようとしていた手を止めた。
「どういう意味ですか?」
「言葉通りの意味よ」
裕里子は顔を上げ、俺を真っ直ぐに見た。
その瞳には、先ほどの食事の温もりは欠片もなく、冷徹な元暗殺者としての氷のような光が宿っていた。
「遠藤悟。今日付けで、あんたを解雇にするわ」
「……は?」
突然の宣告に、俺の脳が処理を停止した。
「解雇って……なんでですか!? 俺、何かミスしましたか? 経費の計算なら、くるみさんのチェックも通ってますし、掃除だって完璧に……」
「そうじゃないわ。あんたの仕事ぶりは完璧よ。……完璧すぎるくらいね」
裕里子はガウンのポケットから、一枚の羊皮紙のような重厚な書類を取り出し、テーブルの上に置いた。
それは、俺がこの組織に入った日にサインさせられた、あの『借金680万円の返済契約書』だった。
ビリッ、ビリッ。
裕里子は、その契約書を無造作に真っ二つに引き裂き、さらに細かく破り捨てた。
「ゆ、裕里子さん!?」
「これで、あんたの借金はチャラよ。明日、このアジトを出て行きなさい。……元の『普通の生活』に戻るのよ」
破り捨てられた契約書の欠片が、ピエロギの皿の横に散らばる。
「……『クロノス』のせい、ですか」
俺が低い声で尋ねると、裕里子は小さく息を吐いた。
「ええ、そうよ」
彼女は手元の日本酒を煽り、自嘲気味に笑った。
「あんたも昨日見たでしょう。クロノスは、ただのブラック企業じゃない。政財界の裏にまで根を張る、巨大なコンサルタント会社……いや、国家レベルの権力を持った『暴力装置』よ。私がいた頃よりも、組織は遥かに巨大化している」
「……」
「これまで私たちが潰してきた、鮫島や神田、大門といった連中は、クロノスの末端の『実験動物』に過ぎなかった。でも、これからは違う。本物の『人間兵器』や、プロの暗殺部隊が、私たちを直接殺しにくるわ」
裕里子は立ち上がり、キッチンのカウンター越しに俺と対峙した。
「由希やくるみ、グレタ、アストリッド、冬美。あいつらは、それぞれ自分の過去にケリをつけるために、自分の意志で裏社会に足を踏み入れた人間よ。自分の身は自分で守れるし、覚悟も決まってる」
彼女は、俺の胸元を指差した。
「でも、あんたは違う。あんたはただ、運悪くあの夜の爆発に巻き込まれて、なし崩し的に私の雑用係になっただけの……ただの『一般人』よ」
「……」
「これ以上、あんたを巻き込むわけにはいかないの。あんたには、戦闘力も、裏のコネクションもない。次にあのパワードスーツの巨漢みたいな奴が現れたら、あんたは確実に死ぬわ。……私は、あんたが死ぬところを見たくないのよ」
裕里子の声は、微かに震えていた。
それは、彼女が「ナンバーセブン」という感情のない兵器ではなく、一人の人間として、俺の命を本気で心配してくれている証拠だった。
借金をチャラにしてでも、俺を安全な場所へ逃がそうとしているのだ。
「……荷物をまとめて、明日の朝一番で出て行きなさい。チビも連れて行っていいわ」
彼女は背を向け、自室へ戻ろうとした。
「……お断りします」
俺の口から出た言葉に、裕里子の足がピタリと止まった。
彼女が信じられないという顔で振り返る。
「は……? あんた、自分が何を言ってるか分かってるの? 命を助けてやるって言ってるのよ!?」
「ええ、分かってます。でも、解雇の件は承服しかねます」
俺はエプロンを外し、裕里子の前に歩み寄った。
「『普通の生活に戻れ』って言いましたよね。……俺にとっての普通の生活って、何ですか? あの六本木のオフィスで、毎日毎日、上司の罵声を浴びながら、死んだ魚の目でキーボードを叩き続ける日々ですか?」
「それは……再就職先なら、由希のツテでまともな企業を紹介して――」
「そういう問題じゃないんです!」
俺は声を荒げた。深夜のアジトに、俺の怒鳴り声が響く。
裕里子が驚いて目を見開く。俺が彼女に対してこんなに声を張ったのは、初めてだった。
「俺は、あの夜のオフィスで……本当は、死んでいたんです。心が、完全に折れかけていた。……でも、あんたが窓ガラスをぶち破って、ダマスカス鋼の退職届を突き立ててくれたから……俺は、自分の人生を取り戻せたんです」
俺は、震える自分の両手を強く握り締めた。
「このアジトでの生活は、確かに異常です。借金は理不尽だし、銃は飛んでくるし、毒は盛られるし、毎日命がけだ。……でも、俺の作ったご飯を『美味しい』って言ってくれる仲間がいる。俺の計算スキルを『最強の武器だ』って頼りにしてくれる人がいる」
俺は裕里子の大きな瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「俺は今、生まれて初めて『生きてる』って実感してるんです。……だから、ここから逃げる気はありません」
「サトル……」
「俺は、一般人です。戦闘力はゼロだし、足手まといになるかもしれない。……でも、あんたが戦ってボロボロになって帰ってきた時、温かいご飯を作って待っている人間が、このチームには絶対に必要だ」
俺は、床に散らばった契約書の破片を足で軽く払いのけた。
「俺は、青木裕里子の秘書で、ミッドナイト・エグジットの総務部長です。社長の勝手なワンマン解雇なんて、労働基準法違反で無効ですよ」
一息に言い切り、肩で息をする俺。
裕里子はしばらくの間、呆然と俺の顔を見つめていた。
やがて、彼女の瞳からスッと険しい光が消え、代わりに、深い深い溜め息が漏れた。
「……はぁ。まったく、どいつもこいつも言うことを聞かないんだから」
裕里子は前髪をかき上げ、天井を仰いだ。
「死んでも知らないわよ。……第20条、業務中に死亡した場合の香典は10万円。それ以上は一円も出ないわよ」
「ええ。その代わり、生きてる間はしっかり経費精算させてもらいますからね」
俺がニヤリと笑うと、裕里子もついに吹き出した。
「ふふっ……あはははっ! あーあ、馬鹿な男。最強の暗殺組織を敵に回すっていうのに、ただの社畜が威張っちゃって」
「社畜の執念、舐めないでくださいよ」
裕里子は笑いながら、再びダイニングの椅子に腰を下ろした。
「サトル。……ピエロギ、もう一つちょうだい。あと、日本酒のおかわりも」
「はい。すぐに温めますよ」
俺は再びコンロに火をつけ、徳利を湯煎にかけた。
足元に、いつの間にか起きてきたチビが「ミャウ」と擦り寄ってくる。
最大の敵『クロノス』との戦い。
俺たちはもう、後戻りできない場所まで来てしまった。
でも、不思議と恐怖はなかった。
最強のボスと、イカれた仲間たち。そして、俺の作る最高のご飯がある限り、どんな理不尽な闇でも切り裂いていける。
俺は、熱燗を注ぐトクトクという心地よい音を聞きながら、静かに、そして確かな決意を胸に刻んだのだった。




