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社畜の俺、伝説の元スパイと「深夜0時の退職代行」始めます。~ブラック企業からヤクザの組まで、物理と法律で「円満退社」させます~  作者: 伊達ジン
【第3章】 過去からの亡霊

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第29話 裕里子の正体

 『クロノス』。


 俺たちが戦ってきたブラック企業を裏で操り、人を壊れるまで使うマニュアルを提供していた巨大なコンサルタント会社。

 そして、ボスの青木裕里子が「私を殺人兵器として育て上げた古巣」と呼んだ組織。


 昨夜の衝撃的な告白の後、アジトは重苦しい沈黙に包まれたまま夜が明け、そして重だるい午後を迎えていた。

 メンバーたちはそれぞれ自室に引きこもるか、リビングのソファで無言のまま沈み込んでいる。

 誰も口を開こうとしない中、俺、遠藤悟はエプロンを締め、一人キッチンに立っていた。

 こんな時こそ、俺の出番だ。腹が減っていては、絶望と戦うことはできない。


 俺は分厚い牛肉のブロックを大きめの一口大にカットし、石臼でスパイスのペースト「レンパ」を作り始めた。

 レモングラスの茎、ガランガル、赤エシャロット、たっぷりのニンニク。そこに、コリアンダーシード、クミン、ターメリック、そして水で戻した乾燥唐辛子を加え、石の乳棒でひたすらに叩き潰していく。

 カンッ、カンッ、と石がぶつかる規則的な音が、静まり返ったアジトに響く。


 ペースト状になったスパイスを油でじっくりと炒め、香りが頂点に達したところで牛肉を投入する。表面に焼き色がついたら、濃厚なココナッツミルクをたっぷりと注ぎ込み、そこへシナモンスティック、八角、クローブ、カルダモンといったホールスパイスを落とした。

 これから数時間、水分が完全に飛び、ココナッツミルクから油が分離するまで、焦げ付かないようにひたすら煮込み続ける。


 料理の名は『ルンダン』。

 インドネシア・スマトラ島発祥の、世界一美味しいとも称される牛肉のスパイス煮込みだ。長い時間をかけて煮込むことで、肉の繊維一つ一つにスパイスとココナッツの旨味が凝縮されていく。


 鍋を火にかけながら、俺は並行してドリンクの準備に取り掛かった。

 大きなピッチャーに、スペイン産のフルボディの赤ワインを注ぐ。そこに、皮ごとスライスしたオレンジ、リンゴ、レモンを放り込み、シナモンスティックと少量のブランデーを加えて蓋をした。自家製の『サングリア』だ。冷蔵庫で数時間寝かせれば、フルーツの甘みと香りがワインに溶け出し、極上のカクテルになる。


 数時間後。夕闇が迫る頃。

 鍋の中の水分は完全に飛び、肉はスパイスの濃厚なペーストに包まれ、黒光りしていた。ココナッツミルクから分離した澄んだ油が、チリチリと音を立てて肉を揚げ焼きのような状態にしている。


「……できた」


 濃厚なスパイスとココナッツの甘い香りが、アジト中を満たしていた。


「ご飯の準備ができましたよ」


 俺が声をかけると、自室にこもっていた面々や、リビングのソファで丸まっていたメンバーたちが、一人、また一人とダイニングテーブルに集まってきた。


「ルンダン……手間のかかる料理を作ったわね、遠藤くん」


 くるみさんが、ふわりと香るスパイスの湯気に目を細めた。

 ジャスミンライスの上に盛り付けられた、漆黒の牛肉。それに、氷を入れたグラスに注がれたルビー色のサングリア。


「いただきます」


 全員がスプーンを手に取った。

 肉を口に運んだ瞬間、冬美ちゃんが目を見開いた。


「なにこれ……お肉、ホロホロ! 噛まんでも口の中で溶けるんやけど!」

「スパイスの複雑な辛味を、ココナッツミルクのコクが包み込んでるわ。……それに、このサングリア」


 由希さんがグラスを傾ける。


「濃厚な肉の脂とスパイスの刺激を、赤ワインの渋みとフルーツの甘酸っぱさが見事にリセットしてくれる。……最高のペアリングよ、遠藤くん」

「ありがとうございます。……元気、出ましたか?」


 俺が尋ねると、由希さんは少しだけ苦笑した。

 食卓の端では、裕里子が昨夜から一睡もしていないような顔で、無言のままゆっくりとルンダンを口に運んでいた。彼女の表情は硬く、いつものように「サトル、おかわり!」と騒ぐ気力もないようだった。


 その時だった。


『……ボス。解析、終わったよ』


 アストリッドが、ノートPCの画面から顔を上げた。

 彼女はクロノスの裏サーバーから引き上げた膨大なデータを、昨夜から丸一日かけて復号化していたのだ。


「クロノスの役員名簿と、社内通信の隠しログだよ。……そして、ボス宛てに、特定のIPアドレスから直接『ビデオメッセージ』が届いてた」


 アストリッドがエンターキーを叩くと、ダイニングのメインモニターに映像が映し出された。


 薄暗い部屋。

 高級なレザーチェアに深く腰掛けているのは、プラチナシルバーの髪を撫で付けた、初老の西洋人の男だった。

 仕立ての良いスリーピーススーツを着こなしているが、その目つきは蛇のように冷たく、そして狂気を孕んでいた。


『久しぶりだな。私の愛しい最高傑作よ』


 男が英語混じりの日本語で語りかける。

 その声を聞いた瞬間、裕里子が持っていたスプーンをカチャンと落とした。

 彼女の肩が、微かに震えている。


『我が社――クロノスの大切なクライアント企業が、最近立て続けに「退職代行」を名乗るゴロツキに潰されていると聞いてね。調べてみれば、なんと君がリーダーをしているじゃないか。……驚いたよ、No.07(ナンバーセブン)』


「ナンバー……セブン?」


 俺が呟くと、画面の中の男は薄気味悪い笑みを浮かべた。


『今は「青木裕里子」と名乗っているのだったかな? そんな平凡な名前、君には似合わない。君は私が育て上げた、感情を持たない完璧な人間兵器だったのだから』


 男の言葉に、由希さんやくるみさんたちの顔色も変わった。


『クロノスの真の目的は、企業コンサルタントではない。極限のストレス下において人間の精神がどう壊れるか、そしてどうすれば他者を「駒」として完全に洗脳・支配できるか。その究極のデータ収集と、兵器への応用だ』


 男はワイングラスを揺らしながら続けた。


『君は、幼い頃に我々の施設に集められた孤児たちの中で、唯一生き残った「成功例」だった。どんな命令にも従い、どんな標的も躊躇なく破壊する。……だが、10年前のある任務で、君は突如としてエラーを起こし、組織から逃亡した』


 裕里子が両手で顔を覆った。

 いつも強気で、どんな敵にも真っ向から立ち向かう彼女が、かつての「教官」の声を前にして、ただの怯える少女のようになっていた。


『我々の実験場を荒らすのはやめたまえ、セブン。君は普通の世界では生きていけない。君の居場所は、血と硝煙の中にしかないのだ。……戻ってこい。クロノスは、いつでも君を歓迎するよ』


 映像は、そこでプツンと途切れた。

 モニターが真っ暗になり、ダイニングには息苦しい沈黙が戻った。


「……私の、過去よ」


 裕里子が、絞り出すように言った。

 顔を覆っていた両手を下ろし、真っ赤に充血した目で俺たちを見た。


「私は、あいつらに拾われて、感情を殺す訓練を受けた。人を壊し、命を奪うことだけを教えられた。……でも、ある任務で、標的だった子供の泣き顔を見た時……どうしても、引き金が引けなかったの」


 彼女の目から、一粒の涙がこぼれ落ちた。


「私は組織を裏切って、逃げたわ。日本に潜伏して、由希とくるみに助けられて……『青木裕里子』っていう戸籍を作って、普通の人間になろうとした。でも、私の本質は……ただの壊れた兵器なのよ。だから、退職代行なんていう、力ずくの仕事しかできない」


 裕里子は自嘲気味に笑った。


「ごめんなさい、みんな。……私と一緒にいたら、あんたたちもクロノスに殺されるわ。今のビデオメッセージは、私への宣戦布告よ」

「ボス……」


 アストリッドが悲しそうに眉をひそめる。

 裕里子は立ち上がり、ダイニングを出て行こうとした。

 一人で、過去の因縁に決着をつけるために。


「……待ってください」


 俺は、裕里子の細い腕を掴んだ。

 彼女が驚いて振り返る。


「サトル……離して。あんたの命まで――」

「ルンダン、まだ半分残ってますよ」


 俺は、彼女の手を引いて、無理やり椅子に座らせた。


「俺は、あんたが昔、人間兵器だったとか、ナンバーセブンだったとか、そんなことはどうでもいいんです」


 俺は、冷めかけた彼女の皿のルンダンをスプーンで掬い、彼女の口元に運んだ。


「俺が知っているのは、過労死しかけていた俺の地獄のオフィスに、窓を割って飛び込んできてくれた『青木裕里子』です。……不器用で、マカロンが好きで、すぐに物を壊すけど、誰よりも依頼人のために怒れる、最高のボスです」

「……サトル」

「それに」


 俺の背後から、由希さんが歩み出た。


「法的に見ても、貴女は『青木裕里子』よ。戸籍は完璧に作ってあるんだから。……過去の契約なんて、私が全部無効にしてあげるわ」


「そうよ、裕里子ちゃん」


 くるみさんも優しく微笑んだ。


「貴女はもう、壊れた兵器なんかじゃないわ。この騒がしいアジトの、立派な大黒柱でしょう?」


「ウチらがおるんやけん、一人で抱え込まんでよ!」

「そうだよん! ハッキングなら、私がクロノスのシステムを丸裸にしてやる!」

「……まあ、毒物の調合なら手伝ってあげてもいいわよ」


 冬美、アストリッド、グレタも次々と声を上げる。

 俺たちの言葉に、裕里子の瞳から、次々と大粒の涙が溢れ出した。


「……バカね、あんたたち。相手は、国家レベルの権力を持った化け物組織よ……」

「ブラック企業が大きくなっただけです。退職代行屋の俺たちが、ビビる相手じゃありませんよ」


 俺は微笑み、もう一度スプーンを差し出した。

 裕里子は涙を拭い、パクッとその肉を頬張った。


「……美味しい」


 彼女は、泣き笑いのような顔で咀嚼した。


「スパイスが効いてて、目が覚めたわ。……サトルのご飯は、本当に魔法みたいね」

「どうも。おかわり、まだありますから」


 裕里子はサングリアのグラスを一気に飲み干すと、バン!とテーブルを叩いて立ち上がった。

 その顔には、もう迷いも恐怖もなかった。

 あるのは、かつての俺たちを救ってくれた、あの不敵で最高にカッコいい「エージェント」の顔だ。


「サトル、由希、くるみ、アス、冬美、グレタ! 聞いての通り、次のターゲットは『クロノス』よ!」


 裕里子の号令に、全員の表情が引き締まる。


「あいつらは、人の心を弄んで、壊すことを楽しんでいる。そんなふざけた『コンサルティング』、この私が物理的に解約してやるわ!」

「「「おおーっ!!」」」


 俺たちは拳を突き上げた。

 足元で、チビが「ミャウ!」と力強く鳴く。


 俺たちの退職代行は、ついに最終局面へと突入する。

 相手は、人を壊す悪魔の組織。

 だが、俺たちには「ファミリー」の絆と、最高のルンダンがある。負ける気は、少しもしなかった。

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