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社畜の俺、伝説の元スパイと「深夜0時の退職代行」始めます。~ブラック企業からヤクザの組まで、物理と法律で「円満退社」させます~  作者: 伊達ジン
【第3章】 過去からの亡霊

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第27話 メンタリストの真骨頂

 深夜のアジト。

 全員が寝静まった静寂なキッチンで、俺は一人、温度計と睨み合っていた。


「……よし、27度」


 ボウルの中に入っているのは、フランス産の最高級クーベルチュール・チョコレートだ。

 湯煎にかけて45度まで温め、完全に溶かしたチョコレートを、今度は氷水を入れたボウルに当てて静かに混ぜながら冷ましていく。

 この「テンパリング」と呼ばれる作業が、チョコレート作りにおける命だ。カカオバターの結晶を最も安定した状態に整えることで、完成した時に美しい艶と、パキッという小気味よい食感が生まれる。


 温度が27度まで下がったのを確認し、俺は再びボウルを一瞬だけ湯煎に当てた。

 最終的な作業温度である31度〜32度に引き上げる。ここで温度を上げすぎれば、結晶が壊れてしまい、また最初からやり直しだ。息を止めるような繊細な作業が続く。


 完璧な温度に達したチョコレートに、あらかじめ作っておいたガナッシュをくぐらせる「トランペ」の作業に入る。

 専用のフォークを使い、薄く、均一にチョコレートを纏わせ、オーブンシートの上に並べていく。仕上げに、表面に金箔や砕いたピスタチオを飾り付ければ、プロ顔負けのボンボンショコラの完成だ。


「……ふぅ。いい出来だ」


 カカオの芳醇で濃厚な香りが、キッチンいっぱいに広がっている。


「本当に、プロのショコラティエみたいね」


 ふと、背後から声がした。

 振り返ると、シルクのナイトガウンを羽織った藤井くるみが、キッチンカウンターに肘をついてこちらを見つめていた。


「あ、くるみさん。起こしちゃいましたか?」

「ううん。少し目が冴えてしまって。……甘い、いい匂いね」

「夜食の準備ですよ。裕里子さんが『おやつ没収』のストレスで暴れ出しそうなので、内緒で少しだけ作っておこうかと」


 俺が苦笑すると、くるみは「ふふっ」と聖母のように微笑んだ。


「遠藤くんのそういう気配り、嫌いじゃないわ。……私にも一つ、いただけるかしら?」

「ええ、もちろん。せっかくですから、コーヒーも淹れますよ。……この濃厚なチョコレートには、深煎りのマンデリンが合います。浅煎りの酸味だとカカオの香りとぶつかってしまいますからね。深い苦味とコクが、チョコレートの甘さを完璧に引き立ててくれるはずです」


 俺は手早くコーヒー豆を挽き、ハンドドリップで丁寧に抽出した。

 漆黒のコーヒーと、艶やかに輝くボンボンショコラをプレートに乗せて、ダイニングテーブルに運ぶ。


 くるみはショコラを一つ口に運び、目を細めた。


「……パリッ。……んっ、素晴らしいわ。外側のコーティングの小気味よい食感の後に、中のガナッシュが舌の上でとろけていく。……そしてこのコーヒーの苦味が、甘さをスッと洗い流して、カカオの余韻だけを残してくれる。完璧なペアリングね」

「お口に合って良かったです」


 俺は向かいの席に座り、自分のコーヒーを啜った。


「それで、くるみさん。目が冴えた理由って、やっぱりあの件ですか?」

「ええ」


 くるみの瞳から、先ほどの柔らかな光が消えた。

 代わりに宿ったのは、全てを見透かすプロファイラーの冷徹な眼差しだ。


「東都グローバルの大門人事部長。……先日、彼に中島くんの退職を受理させたけれど、あれで彼が大人しく引き下がるわけがないわ。彼は自分の『罪』を隠蔽するためなら、どんな手でも使う人間だから」


 大門。くるみのかつての上司であり、彼女に「人を壊す方法」を教え込んだ張本人だ。

 先日の深夜のオフィスで、裕里子の暴力と、くるみの突きつけた「横領の証拠データ」によって、彼は完全に屈服したかに見えた。


「アストリッドが監視している大門の通信ログに、動きがあったの」


 くるみはコーヒーカップを置いた。


「彼は裏社会のゴロツキや、悪徳弁護士を雇って、私たちを襲撃しようと計画していたわ。あの横領データを、物理的・法的に力ずくで奪い返すためにね」

「えっ!? じゃあ、ここが危ないんじゃ……」

「安心して。彼が雇おうとしたゴロツキは、裕里子が先回りして『お話』をしてきたから、二度と東京には戻ってこないわ。悪徳弁護士の方も、由希が『弁護士法違反の教唆で懲戒請求にかける』と電話一本入れたら、泣いて手を引いたわ」


 俺たちの組織の武力と法力は、すでに大企業の部長個人がどうにかできるレベルを遥かに超えている。


「物理的な恐怖だけでは、人間の本質的な心は折れないのよ」


 くるみは、残っていたショコラを指先で弄びながら言った。


「大門のようにプライドが高く、他人を支配することに快感を覚える人間は、自分の逃げ道が全て塞がれたことを『理解』させない限り、何度でも裏で動く。……だから、私が直接、彼の心を『完全な折れ方』に導いてあげる必要があるの」


 くるみの顔に浮かんだのは、美しくも恐ろしい、メンタリストとしての真骨頂の笑みだった。


「彼には、彼自身の『退職』という薬が必要ね。……遠藤くん、明日、エスコートをお願いできるかしら?」

「……はい。総務部長として、お供しますよ」


 翌日の夜。

 俺とくるみは、都内の一等地にそびえ立つ、超高級ホテルの最上階にいた。

 大門が、会社の経費で借り上げているスイートルームだ。


 俺たちはルームサービスのワゴンを押すスタッフに変装し、部屋への侵入に成功していた。


「な、なんだお前らは!? ルームサービスなど頼んでいないぞ!」


 バスローブ姿の大門が、リビングルームで葉巻を咥えながら怒鳴り声を上げた。

 その背後、寝室の扉の奥には、若い女性が怯えた様子で隠れているのが見えた。


「こんばんは、大門部長。……相変わらず、経費の使い方がお上手ですね」


 くるみがスタッフ用の帽子を脱ぎ捨て、艶やかなブラウンの髪を揺らした。


「ふ、藤井……!? き、貴様、なぜここが分かった!」

「貴方のスマホのGPS情報など、うちのハッカーにかかれば筒抜けですわ。それよりも……」


 くるみは、ワゴンの上に置かれた銀色のクロッシュをパカッと開けた。

 中に入っていたのは料理ではなく、分厚いファイルの束だった。


「貴方が裏で雇おうとしていた方々、誰も来ませんよ?」


 大門の顔色が一瞬で土気色に変わった。


「貴方が頼りにしていた暴力団関係者は、すでに病院のベッドの上です。貴方が相談した悪徳弁護士は、着手金を返還して逃げ出しました。……貴方の『防衛線』は、もうどこにも存在しないのですよ」


「ば、馬鹿な……! 私を誰だと思っている! 東都グローバルの人事部長だぞ! 警察を呼べば、不法侵入で貴様らなど一捻りで……!」


「警察? ぜひお呼びなさいな」


 くるみは一歩、大門に近づいた。

 その歩みはゆっくりだが、確実な圧力を持って大門を追い詰めていく。


「警察が来れば、私はこのファイルをお渡しするだけです。貴方が新入社員の研修費用と偽って、奥の寝室にいらっしゃる『彼女』のダミー会社に数千万円を横領した証拠。そして、自分に逆らう社員を不正な査定で追い詰めたパワハラの記録。……警察が興味を持つのは、不法侵入よりも貴方の業務上横領罪の方ではありませんか?」


「うっ……!」


 大門は葉巻を取り落とし、後ずさった。

 完全に逃げ場を失った人間の顔だ。


「藤井……! 金か! いくら欲しいんだ! 私が横領した金の半分……いや、全額くれてやる! だからそのデータだけは……!」

「お金で解決できる時期は、とうに過ぎています」


 くるみの声は、どこまでも冷たく、静かだった。


「貴方は、人を部品のように切り捨ててきた。他人の人生を壊すことを、人事の『権力』だと勘違いしていた。……その罪は、貴方自身の社会的地位を失うことでしか購えません」


 くるみは、ファイルの中から一枚の紙を取り出し、大門の足元に投げ捨てた。

 それは、「退職願」のフォーマットだった。


「貴方には、二つの選択肢があります」


 くるみが指を一本立てる。


「一つ。私が今この場で、証拠のすべてを東京地検特捜部、国税局、週刊誌、そして貴方の『奥様』に一斉送信する。貴方は横領犯として逮捕され、家庭も崩壊し、社会的にも人間的にも、完全に死ぬわ」


 大門がヒッと短い悲鳴を上げた。


「二つ」


 くるみが指を二本立てる。


「貴方自身が明日、東都グローバルを『自主退職』し、警察に横領を自首する。……そうすれば、愛人との下劣な密会写真がご家族に届くことだけは防いであげる。ご家族には『仕事の重圧で魔が差した』という、綺麗な理由を残せるわよ」


 退職か、社会的な死か。


 究極の二択。

 いや、選択肢など最初からない。どちらを選んでも大門の人生は終わるが、後者の方がわずかに「家族への体裁」という蜘蛛の糸が残されている。

 人間の心理の最も脆弱な部分を、正確に抉り取るプロファイリング。

 これこそが、メンタリスト・藤井くるみの真骨頂だ。


「さあ、お選びください、大門部長」


 くるみが、かつて大門に見せていたのと同じ、完璧な「部下の笑顔」を作った。


「あ、ああ……あぁぁぁぁ……!」


 大門は床に崩れ落ち、頭を抱えて咽び泣き始めた。

 もはや抵抗する気力も、言い訳をする知恵も残っていない。彼の心は、完全にへし折られていた。


「……退職……する。私が、自首するから……家族だけには、頼む……!」


 震える手で退職願を拾い上げ、大門は嗚咽を漏らしながら自分の名前を書き込んだ。


「賢明なご判断ですわ」


 くるみは退職願を拾い上げると、俺に目配せをした。


「行きましょう、遠藤くん。……もう、この部屋は息が詰まるわ」

「はい」


 俺たちは、床に這いつくばって泣き続ける男を後に残し、スイートルームを後にした。

 ドアが閉まる音と共に、くるみと大門の過去の因縁は、完全に断ち切られたのだった。


 アジトへの帰路。

 ハイエースの助手席で、くるみは窓の外の夜景を静かに眺めていた。


「お疲れ様でした、くるみさん」


 運転席でハンドルを握りながら、俺は声をかけた。


「ええ。ありがとう、遠藤くん。……あの男が二度と立ち上がれないようにするまでが、私自身の仕事だったから」

「大門、完全に心が折れてましたね。……やっぱり、くるみさんには敵いませんよ」


 俺が苦笑すると、くるみはふっと息を吐き、俺の方を向いた。


「人を壊すのは簡単なことよ。一番大切にしているものを、論理的に奪えばいいだけ。……でも、人を救うのは、壊すことの何倍も難しいわ」

「……」

「大門のように、他人を平気で壊せる人間には、二度と人事の権力を握らせてはいけない。だから、私が完全に息の根を止めたのよ。……私、恐ろしい女でしょう?」


 彼女の言葉には、ほんの少しだけ自嘲の色が混じっていた。

 俺は、赤信号で車を停め、彼女の顔を真っ直ぐに見た。


「恐ろしいですよ。俺なんて、いつも経費の計算で殺されるんじゃないかってビクビクしてますし」

「ふふ、正直ね」

「でも」


 俺は言葉を継いだ。


「くるみさんのその『恐ろしさ』が、中島さんや、他の多くの依頼人たちの心を救っているんです。俺は、今のくるみさんのやり方、間違ってないと思いますよ」


 俺の言葉に、くるみは少しだけ目を見張り、そして、柔らかく微笑んだ。

 それは、相手を追い詰めるための計算された笑顔ではなく、心からの安堵の笑みだった。


「……帰ったら、昨日の残りのチョコレート、いただいてもいいかしら?」

「ええ、もちろん。極上のコーヒーも淹れますよ。……でも、夜中のおやつは経費では落ちませんからね?」

「あら、生意気言うようになったじゃない。……遠藤くんの借金に上乗せしておこうかしら?」

「勘弁してくださいよ!」


 車内に、二人の笑い声が響く。

 深夜の東京を駆け抜けるハイエースの中だけが、世界のどこよりも温かく感じられた。


 俺たちの退職代行は、まだまだ終わらない。

 だが、この頼もしくも恐ろしい仲間たちと一緒なら、どんな理不尽な闇でも切り裂いていける。俺はそう確信していた。

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