第26話 くるみの古巣
秋の風が心地よい、休日の表参道。
銀杏並木の下を歩く人々の中で、俺は、ひときわ目を引く女性の隣を歩いていた。
「遠藤くん。今日のランチ、とても美味しかったわ。お店のチョイス、完璧ね」
「あ、ありがとうございます。くるみさんの好みに合ってよかったです」
藤井くるみ。
この組織「ミッドナイト・エグジット」の金庫番であり、心理戦のスペシャリストである彼女は、シックなボルドー色のワンピースに身を包み、大人の女性の魅力を完璧に体現していた。
今日は彼女のリクエストで、美術館での絵画鑑賞からのフレンチランチという、俺の人生には縁のなかった「大人のデート」に付き合わされている。
「でも、驚きました。くるみさんが絵画に詳しいなんて」
「絵画は『人間の心理』の集大成よ。描いた画家の葛藤、モデルの隠された感情……それを読み解くのが好きなの」
くるみは優雅に微笑みながら、すれ違う人々へと視線を移した。
「ほら、あそこのベンチに座っているカップル。……一見仲が良さそうに見えるけれど、男性の足のつま先が女性から外側へ向いているわ。無意識の拒絶反応ね。おそらく、あの男性は彼女に隠し事をしていて、早くこの場を立ち去りたいと思っている」
彼女のプロファイリングは、相変わらず恐ろしいほど鋭かった。
「……相変わらず、人を観察するのが得意ですね」
「ふふ。職業病ね。昔、人の嘘を見抜く仕事ばかりしていたから」
「ブラック企業の人事部、でしたっけ」
俺が何気なく尋ねると、くるみの足が一瞬だけ止まった。
彼女の「聖母の微笑み」が、ほんの少しだけ曇る。
「……ええ。大手企業のね。そこで私は、人を『部品』として評価し、壊れる前に切り捨てる……そんな冷酷な仕事をしていたのよ」
くるみは遠くを見つめた。
「自分の手を汚さず、言葉だけで人を絶望の淵に追いやる。私はそういう人間なのよ、遠藤くん」
「……そんなことありません」
俺は立ち止まり、彼女の目を真っ直ぐに見た。
「今のくるみさんは、理不尽に虐げられている人たちを救うために、その力を使っているじゃないですか。……俺は、今のくるみさんしか知りませんけど、誰よりも人の心に寄り添える人だと思っています」
俺の言葉に、くるみは少しだけ目を見開いた。
そして、ふわりと、今度は本当に嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「……貴方って、たまに反則みたいなこと言うわよね。嘘がつけないから、余計にタチが悪いわ」
彼女は少しだけ俺の腕に触れ、歩き出した。
その横顔は、いつもの「隙のないプロファイラー」ではなく、一人の等身大の女性に見えた。
夕方、アジトに帰還すると、リビングには重苦しい空気が漂っていた。
応接ソファには、青白い顔をした20代後半の男性が座っている。
「おかえりなさい、くるみ、サトル」
由希さんが書類から顔を上げ、俺たちを見た。
「ちょうど今、新しい依頼のヒアリングが終わったところよ」
「どんな内容かしら?」
くるみがいつもの「仕事の顔」に戻って尋ねる。
依頼人の中島という青年が、震える声で語り始めた。
「……私は、大手総合商社『東都グローバル』の営業部で働いています」
その企業名が出た瞬間、くるみの眉がピクリと動いた。
「過度なノルマとパワハラで、心療内科でうつ病の診断を受けました。それで、退職を申し出たんですが……人事部から執拗な引き留めに遭いまして」
「引き留め、ですか?」
「はい。『今辞めるなら、進行中のプロジェクトの損害をすべてお前に被せ、懲戒解雇扱いにする』と。さらに、『業界内のコネを使って、他社に転職できないように手を回すぞ』と脅されています」
退職妨害。そして、転職妨害。
大企業特有の、組織の力を使った陰湿なハラスメントだ。
「……それで、その脅迫を行っている人事部長の名前は?」
くるみの声が、いつもより一段低かった。
「大門……大門部長です」
その名前を聞いた瞬間、アジトの室温が急激に下がったような気がした。
くるみの顔から、完全に表情が消え去っていたのだ。
絶対零度の、能面のような顔。
「……大門。まだあそこに居座っていたのね」
「くるみさん?」
「ええ。知っているわ」
くるみは、冷たく、だがどこか楽しげに唇の端を歪めた。
「彼こそが、私に『人を壊す方法』を教え込んだ、かつての上司だから」
全員が息を呑む。
くるみの古巣。そして、因縁の元上司。
彼女は俺たちを見回し、静かに宣言した。
「今回の案件、私が直接行くわ。……彼の手口も、隠している弱点も、全部知っているもの」
深夜0時00分。
千代田区にある、東都グローバルの本社ビル。
ガラス張りの巨大なオフィスビルは、すでにほとんどの照明が落ちていた。
「セキュリティ・ロック解除。監視カメラの映像、ループに切り替えたよん」
インカムからアストリッドの軽い声が響く。彼女のサイバー攻撃の前に、大企業のセキュリティなど紙切れ同然だ。
「行くわよ」
俺たちは、社員通用口から堂々とビルに侵入した。
先頭を歩くのは、完璧なダークスーツに身を包んだ藤井くるみ。
その後ろには、ダマスカス鋼の退職届を手にした青木裕里子。
そして俺は、「外部コンサルタントの助手」という体裁で、分厚いファイルを抱えて最後尾を歩く。
「裕里子。今日は私のサポートに徹してちょうだい。物理的な制圧は、私が『サイン』を出してからよ」
「分かってるわ。今日はあんたのステージよ、くるみ」
裕里子がニヤリと笑う。
エレベーターで15階の人事部フロアへ。
静まり返ったフロアの奥、ただ一つだけ明かりが点いている部屋があった。
「人事部長室」。
大門は、この時間まで「社員の評価査定」のために残業しているという情報だった。
くるみはノックもせずに、ドアノブを回した。
「……誰だ! こんな時間に!」
部屋の中央のデスクで、書類を睨んでいた初老の男が顔を上げる。
大門人事部長。白髪交じりのオールバックに、神経質そうな細い目。その目には、部下を虫ケラのように見下す傲慢さが張り付いていた。
「お久しぶりです、大門部長。……相変わらず、人を人とも思わない査定を夜な夜なされているようですね」
くるみが、聖母のような微笑みを浮かべて部屋に入った。
「お、お前は……藤井か!? なぜこんなところに!」
「ええ。ご無沙汰しております。今日は、私のクライアントである中島さんの退職手続きに参りました」
くるみは俺からファイルを受け取り、大門のデスクにバンッと叩きつけた。
「彼に対する数々の違法な引き留め工作、損害賠償の脅し、そして転職妨害の通告。……昔から何も成長していませんね、貴方は」
「ふん……!」
大門は最初こそ驚いたようだが、相手がかつての部下だと分かると、すぐに傲慢な態度を取り戻した。
「何の真似かと思えば、そんなゴロツキのような真似をして退職代行か? 会社を裏切るようなゴミには、それ相応のペナルティが必要だ。組織を守るためには当然の処置だろう」
大門は立ち上がり、くるみを睨みつけた。
「お前だって、私と一緒にそうやって何人も部下を切り捨ててきただろうが! お前は私の最高傑作だった。それが今更、正義の味方気取りか!」
その言葉は、くるみの過去の傷を抉るものだった。
だが、くるみの笑顔は全く崩れなかった。
いや、むしろその笑顔は、さらに深く、恐ろしいものへと変貌していった。
「ええ。私は貴方の言う通り、血も涙もない人事部員でした」
くるみの声は、まるで氷の刃のように冷たく、静かだった。
「だからこそ、私は、その罪を償うために今ここにいるのよ」
くるみは、大門の鼻先に一枚の書類を突きつけた。
「アストリッド、スクリーンに投影して」
『アイアイサー!』
部長室の壁掛けモニターが勝手に起動し、そこに大量のデータが映し出された。
大門の顔色が一瞬で青ざめる。
「な、なんだそれは……!」
「貴方が裏で行っていた『不正』の数々よ。……自分に逆らう優秀な社員の評価を不当に下げて退職に追い込み、自分に媚びへつらう無能なイエスマンだけを昇進させる査定データ。そして何より……」
くるみの指先が、モニターの一点を指し示す。
「新入社員の研修費用と偽って、自分の愛人の会社に数千万円の架空発注を行っていた横領の証拠。……昔から脇が甘いと思っていましたが、まさかここまでとはね」
「き、貴様ら……ハッキングしたのか! これは犯罪だぞ!」
「犯罪? どの口が言うのかしら」
くるみは、大門に一歩近づいた。
「社員を『駒』としか思っていない。自分の保身と利益のためだけに組織を私物化する。……だから貴方は、いつまで経っても三流なのよ、大門部長」
三流。
その一言が、エリート意識の塊である大門のプライドを粉々に打ち砕いた。
「ふざけるなァァァ!」
逆上した大門が、デスクの上にあった重いクリスタル製の灰皿を掴み、くるみに向かって振り上げた。
「死ねッ、藤井!」
だが、その灰皿がくるみに届くことはなかった。
ヒュンッ!
ガシィッ!
くるみの背後から飛び出した黒い影――裕里子が、大門の腕を空中でガッチリと掴み止めたのだ。
「……私の経理担当に手を出そうなんて、いい度胸ね」
裕里子の目が、爬虫類のように細められる。
彼女はそのまま大門の腕を捻り上げ、デスクの天板に顔面から叩きつけた。
「グギャァァァッ!」
「物理的な査定は、私が担当よ」
裕里子が容赦なく大門の背中を踏みつける。
大門は無様に呻き声を上げながら、完全に制圧された。
「……さて」
くるみは、乱れた髪を直すこともなく、床に這いつくばる大門の顔の前にしゃがみ込んだ。
「中島さんの退職、今すぐ受理していただけますね? それと、これまでのパワハラに対する慰謝料の支払いも。……もし断るなら、この横領のデータ、明日の朝には東京地検特捜部と、東都グローバルの全社員のメールボックスに届くことになりますが」
もはや、大門に選択の余地などなかった。
「……じゅ、受理する……! 頼む、データだけは……!」
「ご協力に感謝しますわ」
くるみは立ち上がり、裕里子に目配せをした。
裕里子が、ダマスカス鋼の退職届を大門の顔のすぐ横に、ズガン!と突き刺した。
「中島氏の退職、確かに受理されたわ」
悪徳人事部長の失脚。
それは同時に、くるみが自身の「過去」に一つ、ケリをつけた瞬間でもあった。
アジトへの帰り道。
深夜の静かな通りを、俺とくるみは並んで歩いていた。
「……お疲れ様でした、くるみさん」
「遠藤くんも、お疲れ様。今日はエスコートから後始末まで、完璧だったわよ」
くるみは、秋の夜風に髪をなびかせながら、ふうと息をついた。
「少しは、過去の自分にケリがつけられたかしら」
「ええ。大門は完全に終わりましたよ。中島さんも、これで救われます」
俺の言葉に、くるみは足を止め、俺の方を向いた。
「遠藤くんが言ってくれた通りね。……私のこの『人の心を折るスキル』も、使い道によっては誰かを救うことができる」
彼女は、昼間のデートの時のような、本当に優しくて、柔らかい笑顔を向けた。
「ありがとう、遠藤くん。貴方が隣にいてくれたおかげよ。……理想の旦那様候補に、もう一歩近づいたかしら?」
「えっ!? あ、いや、それはその……」
俺がドギマギして言葉を詰まらせると、くるみは「ふふっ」と悪戯っぽく笑い、先に歩き出した。
冷徹なプロファイラーであり、経理の鬼。
でも、その奥にある彼女の本当の優しさを、俺は少しだけ触れられた気がした。
まあ、明日の朝になれば、また「遠藤くん、レシートの計算が合ってないわよ」と笑顔で詰められるのだろうけれど。
それでも、この不器用で最強の仲間たちと過ごす日々が、俺はたまらなく好きになっていた。




