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社畜の俺、伝説の元スパイと「深夜0時の退職代行」始めます。~ブラック企業からヤクザの組まで、物理と法律で「円満退社」させます~  作者: 伊達ジン
【第3章】 過去からの亡霊

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第26話 くるみの古巣

 秋の風が心地よい、休日の表参道。

 銀杏並木の下を歩く人々の中で、俺は、ひときわ目を引く女性の隣を歩いていた。


「遠藤くん。今日のランチ、とても美味しかったわ。お店のチョイス、完璧ね」

「あ、ありがとうございます。くるみさんの好みに合ってよかったです」


 藤井くるみ。

 この組織「ミッドナイト・エグジット」の金庫番であり、心理戦のスペシャリストである彼女は、シックなボルドー色のワンピースに身を包み、大人の女性の魅力を完璧に体現していた。

 今日は彼女のリクエストで、美術館での絵画鑑賞からのフレンチランチという、俺の人生には縁のなかった「大人のデート」に付き合わされている。


「でも、驚きました。くるみさんが絵画に詳しいなんて」

「絵画は『人間の心理』の集大成よ。描いた画家の葛藤、モデルの隠された感情……それを読み解くのが好きなの」


 くるみは優雅に微笑みながら、すれ違う人々へと視線を移した。


「ほら、あそこのベンチに座っているカップル。……一見仲が良さそうに見えるけれど、男性の足のつま先が女性から外側へ向いているわ。無意識の拒絶反応ね。おそらく、あの男性は彼女に隠し事をしていて、早くこの場を立ち去りたいと思っている」


 彼女のプロファイリングは、相変わらず恐ろしいほど鋭かった。


「……相変わらず、人を観察するのが得意ですね」

「ふふ。職業病ね。昔、人の嘘を見抜く仕事ばかりしていたから」

「ブラック企業の人事部、でしたっけ」


 俺が何気なく尋ねると、くるみの足が一瞬だけ止まった。

 彼女の「聖母の微笑み」が、ほんの少しだけ曇る。


「……ええ。大手企業のね。そこで私は、人を『部品』として評価し、壊れる前に切り捨てる……そんな冷酷な仕事をしていたのよ」


 くるみは遠くを見つめた。


「自分の手を汚さず、言葉だけで人を絶望の淵に追いやる。私はそういう人間なのよ、遠藤くん」

「……そんなことありません」


 俺は立ち止まり、彼女の目を真っ直ぐに見た。


「今のくるみさんは、理不尽に虐げられている人たちを救うために、その力を使っているじゃないですか。……俺は、今のくるみさんしか知りませんけど、誰よりも人の心に寄り添える人だと思っています」


 俺の言葉に、くるみは少しだけ目を見開いた。

 そして、ふわりと、今度は本当に嬉しそうな笑顔を浮かべた。


「……貴方って、たまに反則みたいなこと言うわよね。嘘がつけないから、余計にタチが悪いわ」


 彼女は少しだけ俺の腕に触れ、歩き出した。

 その横顔は、いつもの「隙のないプロファイラー」ではなく、一人の等身大の女性に見えた。


 夕方、アジトに帰還すると、リビングには重苦しい空気が漂っていた。

 応接ソファには、青白い顔をした20代後半の男性が座っている。


「おかえりなさい、くるみ、サトル」


 由希さんが書類から顔を上げ、俺たちを見た。


「ちょうど今、新しい依頼のヒアリングが終わったところよ」

「どんな内容かしら?」


 くるみがいつもの「仕事の顔」に戻って尋ねる。

 依頼人の中島という青年が、震える声で語り始めた。


「……私は、大手総合商社『東都グローバル』の営業部で働いています」


 その企業名が出た瞬間、くるみの眉がピクリと動いた。


「過度なノルマとパワハラで、心療内科でうつ病の診断を受けました。それで、退職を申し出たんですが……人事部から執拗な引き留めに遭いまして」

「引き留め、ですか?」

「はい。『今辞めるなら、進行中のプロジェクトの損害をすべてお前に被せ、懲戒解雇扱いにする』と。さらに、『業界内のコネを使って、他社に転職できないように手を回すぞ』と脅されています」


 退職妨害。そして、転職妨害。

 大企業特有の、組織の力を使った陰湿なハラスメントだ。


「……それで、その脅迫を行っている人事部長の名前は?」


 くるみの声が、いつもより一段低かった。


「大門……大門部長です」


 その名前を聞いた瞬間、アジトの室温が急激に下がったような気がした。

 くるみの顔から、完全に表情が消え去っていたのだ。

 絶対零度の、能面のような顔。


「……大門。まだあそこに居座っていたのね」

「くるみさん?」

「ええ。知っているわ」


 くるみは、冷たく、だがどこか楽しげに唇の端を歪めた。


「彼こそが、私に『人を壊す方法』を教え込んだ、かつての上司だから」


 全員が息を呑む。

 くるみの古巣。そして、因縁の元上司。

 彼女は俺たちを見回し、静かに宣言した。


「今回の案件、私が直接行くわ。……彼の手口も、隠している弱点も、全部知っているもの」


 深夜0時00分。

 千代田区にある、東都グローバルの本社ビル。

 ガラス張りの巨大なオフィスビルは、すでにほとんどの照明が落ちていた。


「セキュリティ・ロック解除。監視カメラの映像、ループに切り替えたよん」


 インカムからアストリッドの軽い声が響く。彼女のサイバー攻撃の前に、大企業のセキュリティなど紙切れ同然だ。


「行くわよ」


 俺たちは、社員通用口から堂々とビルに侵入した。

 先頭を歩くのは、完璧なダークスーツに身を包んだ藤井くるみ。

 その後ろには、ダマスカス鋼の退職届を手にした青木裕里子。

 そして俺は、「外部コンサルタントの助手」という体裁で、分厚いファイルを抱えて最後尾を歩く。


「裕里子。今日は私のサポートに徹してちょうだい。物理的な制圧は、私が『サイン』を出してからよ」

「分かってるわ。今日はあんたのステージよ、くるみ」


 裕里子がニヤリと笑う。


 エレベーターで15階の人事部フロアへ。

 静まり返ったフロアの奥、ただ一つだけ明かりが点いている部屋があった。


 「人事部長室」。


 大門は、この時間まで「社員の評価査定」のために残業しているという情報だった。


 くるみはノックもせずに、ドアノブを回した。


「……誰だ! こんな時間に!」


 部屋の中央のデスクで、書類を睨んでいた初老の男が顔を上げる。

 大門人事部長。白髪交じりのオールバックに、神経質そうな細い目。その目には、部下を虫ケラのように見下す傲慢さが張り付いていた。


「お久しぶりです、大門部長。……相変わらず、人を人とも思わない査定を夜な夜なされているようですね」


 くるみが、聖母のような微笑みを浮かべて部屋に入った。


「お、お前は……藤井か!? なぜこんなところに!」

「ええ。ご無沙汰しております。今日は、私のクライアントである中島さんの退職手続きに参りました」


 くるみは俺からファイルを受け取り、大門のデスクにバンッと叩きつけた。


「彼に対する数々の違法な引き留め工作、損害賠償の脅し、そして転職妨害の通告。……昔から何も成長していませんね、貴方は」

「ふん……!」


 大門は最初こそ驚いたようだが、相手がかつての部下だと分かると、すぐに傲慢な態度を取り戻した。


「何の真似かと思えば、そんなゴロツキのような真似をして退職代行か? 会社を裏切るようなゴミには、それ相応のペナルティが必要だ。組織を守るためには当然の処置だろう」


 大門は立ち上がり、くるみを睨みつけた。


「お前だって、私と一緒にそうやって何人も部下を切り捨ててきただろうが! お前は私の最高傑作だった。それが今更、正義の味方気取りか!」


 その言葉は、くるみの過去の傷を抉るものだった。

 だが、くるみの笑顔は全く崩れなかった。

 いや、むしろその笑顔は、さらに深く、恐ろしいものへと変貌していった。


「ええ。私は貴方の言う通り、血も涙もない人事部員でした」


 くるみの声は、まるで氷の刃のように冷たく、静かだった。


「だからこそ、私は、その罪を償うために今ここにいるのよ」


 くるみは、大門の鼻先に一枚の書類を突きつけた。


「アストリッド、スクリーンに投影して」

『アイアイサー!』


 部長室の壁掛けモニターが勝手に起動し、そこに大量のデータが映し出された。

 大門の顔色が一瞬で青ざめる。


「な、なんだそれは……!」

「貴方が裏で行っていた『不正』の数々よ。……自分に逆らう優秀な社員の評価を不当に下げて退職に追い込み、自分に媚びへつらう無能なイエスマンだけを昇進させる査定データ。そして何より……」


 くるみの指先が、モニターの一点を指し示す。


「新入社員の研修費用と偽って、自分の愛人の会社に数千万円の架空発注を行っていた横領の証拠。……昔から脇が甘いと思っていましたが、まさかここまでとはね」

「き、貴様ら……ハッキングしたのか! これは犯罪だぞ!」

「犯罪? どの口が言うのかしら」


 くるみは、大門に一歩近づいた。


「社員を『駒』としか思っていない。自分の保身と利益のためだけに組織を私物化する。……だから貴方は、いつまで経っても三流なのよ、大門部長」


 三流。

 その一言が、エリート意識の塊である大門のプライドを粉々に打ち砕いた。


「ふざけるなァァァ!」


 逆上した大門が、デスクの上にあった重いクリスタル製の灰皿を掴み、くるみに向かって振り上げた。


「死ねッ、藤井!」


 だが、その灰皿がくるみに届くことはなかった。


 ヒュンッ!

 ガシィッ!


 くるみの背後から飛び出した黒い影――裕里子が、大門の腕を空中でガッチリと掴み止めたのだ。


「……私の経理担当に手を出そうなんて、いい度胸ね」


 裕里子の目が、爬虫類のように細められる。

 彼女はそのまま大門の腕を捻り上げ、デスクの天板に顔面から叩きつけた。


「グギャァァァッ!」

「物理的な査定は、私が担当よ」


 裕里子が容赦なく大門の背中を踏みつける。

 大門は無様に呻き声を上げながら、完全に制圧された。


「……さて」


 くるみは、乱れた髪を直すこともなく、床に這いつくばる大門の顔の前にしゃがみ込んだ。


「中島さんの退職、今すぐ受理していただけますね? それと、これまでのパワハラに対する慰謝料の支払いも。……もし断るなら、この横領のデータ、明日の朝には東京地検特捜部と、東都グローバルの全社員のメールボックスに届くことになりますが」


 もはや、大門に選択の余地などなかった。


「……じゅ、受理する……! 頼む、データだけは……!」

「ご協力に感謝しますわ」


 くるみは立ち上がり、裕里子に目配せをした。

 裕里子が、ダマスカス鋼の退職届を大門の顔のすぐ横に、ズガン!と突き刺した。


「中島氏の退職、確かに受理されたわ」


 悪徳人事部長の失脚。

 それは同時に、くるみが自身の「過去」に一つ、ケリをつけた瞬間でもあった。


 アジトへの帰り道。

 深夜の静かな通りを、俺とくるみは並んで歩いていた。


「……お疲れ様でした、くるみさん」

「遠藤くんも、お疲れ様。今日はエスコートから後始末まで、完璧だったわよ」


 くるみは、秋の夜風に髪をなびかせながら、ふうと息をついた。


「少しは、過去の自分にケリがつけられたかしら」

「ええ。大門は完全に終わりましたよ。中島さんも、これで救われます」


 俺の言葉に、くるみは足を止め、俺の方を向いた。


「遠藤くんが言ってくれた通りね。……私のこの『人の心を折るスキル』も、使い道によっては誰かを救うことができる」


 彼女は、昼間のデートの時のような、本当に優しくて、柔らかい笑顔を向けた。


「ありがとう、遠藤くん。貴方が隣にいてくれたおかげよ。……理想の旦那様候補に、もう一歩近づいたかしら?」

「えっ!? あ、いや、それはその……」


 俺がドギマギして言葉を詰まらせると、くるみは「ふふっ」と悪戯っぽく笑い、先に歩き出した。


 冷徹なプロファイラーであり、経理の鬼。

 でも、その奥にある彼女の本当の優しさを、俺は少しだけ触れられた気がした。

 まあ、明日の朝になれば、また「遠藤くん、レシートの計算が合ってないわよ」と笑顔で詰められるのだろうけれど。


 それでも、この不器用で最強の仲間たちと過ごす日々が、俺はたまらなく好きになっていた。

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