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社畜の俺、伝説の元スパイと「深夜0時の退職代行」始めます。~ブラック企業からヤクザの組まで、物理と法律で「円満退社」させます~  作者: 伊達ジン
【第3章】 過去からの亡霊

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第25話 電脳空間の鬼ごっこ

 アストリッドのPCが焼き切られ、彼女の過去のトラウマである凄腕ハッカー「フェンリル」の影がアジトに落ちた翌日。


 俺は、秋葉原の喧騒から少し離れた、昭和レトロな純喫茶にいた。

 向かいの席に座っているのは、白衣を黒いレザージャケットに着替えたグレタ・ヴァイスだ。

 彼女はテーブルの上に、先ほどジャンク通りで買い集めた電子パーツや謎の基盤を広げ、黙々とピンセットで弄っている。


「……あの、グレタさん。こんな時に秋葉原で買い出しなんて、してていいんですか?」


 俺がアイスコーヒーを啜りながら尋ねると、グレタは冷ややかなブルーアイズを少しだけ上げた。


「こんな時だからよ。フェンリルとやらがアジトのネットワークを狙っているなら、デジタルな防壁は無意味。物理的に遮断するためのアナログな安全装置が必要なの」

「なるほど。だから基盤を自作してるんですね」

「ええ。それに……」


 グレタは手元の作業を止め、ふっと息を吐いた。


「あの小鳥が立ち直るには、少し時間が必要でしょう。私がアジトにいて『恐怖は非合理的な感情よ』なんて正論を吐いても、彼女の回復プロセスを阻害するだけだわ」


 俺は少し驚いた。

 感情を「非合理的」と切り捨てる彼女が、アストリッドの心に配慮して、あえてアジトを空けてくれたのだ。


「グレタさんって、実は優しいですよね」

「馬鹿言わないで。私はただ、チームの最大戦力であるハッカーが機能不全に陥るのが不利益だから、最適な行動を選択しただけよ」


 彼女はそっぽを向いて、赤いパウダーを自分のコーヒーに振りかけた。

 素直じゃない。でも、それが彼女なりの「ファミリー」への接し方なのだろう。


「アストリッド、大丈夫でしょうか。昨夜は一睡もしてないみたいでしたけど」

「大丈夫よ」


 グレタは毒物のように赤く染まったコーヒーを一口飲み、確信に満ちた声で言った。


「彼女には、あんたがついているもの。あんたという最大の『バグ』がいれば、フェンリルの組んだアルゴリズムなんて、すぐに狂うわ」

「バグって……俺、ハッキングなんて一文字も書けませんよ?」

「プログラミング言語だけが武器じゃないわ。……さあ、行くわよ。嫌な予感がするからね」


 俺たちは急いで店を出て、アジトである洋館へと向かった。

 グレタの「嫌な予感」は、見事に的中することになる。


「おい! これどうなってんのよ!」


 アジトの玄関を開けた瞬間、裕里子の怒声が響き渡った。

 エントランスホールは異常事態だった。

 照明が赤や青に不気味に明滅し、スマートスピーカーからは不協和音のようなノイズが流れ続けている。

 さらに、以前俺が魔改造した「ルンバ1号」が殺意を剥き出しにして迫り、「ルンバ2号」が不規則な軌道で自爆特攻を仕掛けてきていた。


「ミャァァァァッ!」


 チビが毛を逆立てて、カーテンレールの上に避難している。


「サトル! 遅いわよ! アジトのシステムが全部乗っ取られたわ!」


 ソファーの上から、由希さんが叫んだ。

 リビングの奥、メインモニターの前には、頭を抱えて震えるアストリッドの姿があった。


「アストリッド! 大丈夫か!?」


 俺が駆け寄ろうとすると、ガシャン!と自動ドアのロックが下りる音がした。

 アジトのすべての扉の電子錠が、外部から強制的に施錠されたのだ。


『Welcome to my escape room, little bird.(ようこそ私の脱出ゲームへ、小鳥ちゃん)』


 リビングの巨大モニターに、狼の牙を模した禍々しいアイコンが映し出され、合成音声が響き渡った。

 フェンリルだ。


『君たちの隠れ家は、私の支配下にある。あと10分で、室内のスプリンクラーから水ではなく「消火用ハロンガス」を散布する。窒息したくなければ、システムを止めてみろ』


「ハロンガス!? 酸素濃度を一気に下げる気か! 死ぬわよ!」


 グレタが青ざめる。

 ただの嫌がらせじゃない。本気で俺たちを殺しに来ている。


「アストリッド! 昨夜、ネットワークは物理的に遮断したはずだろ!?」

「フェンリルはアジトのスマート家電の独立回線から侵入して、地下のメインサーバーを強制的に遠隔ブートさせたんだ! 私の権限は全部奪われてる。今はアジトの内部ネットワーク自体が、フェンリルの作った『迷路』になってる!」


 アストリッドの顔は涙と恐怖でぐしゃぐしゃだった。


「ごめんなさい……私のせいで……」

「謝るのは後よ! リビングのスイッチで落とせないの!?」


 裕里子がルンバ1号を特殊警棒で粉砕しながら叫ぶ。


「ダメ……! リモート制御の権限ごと奪われてる! 地下の……メインサーバー室に行って、直接物理ケーブルを引き抜いて、USBからクリーンOSで立ち上げ直すしかない! でも……」

「でも、何よ!」

「サーバー室までの地下通路は、最高の防犯トラップを仕掛けてあるの! 今はそれが全部フェンリルの制御下にある。……赤外線レーザーと、高圧電流ネット。触れたら黒焦げだよ!」


 絶望的な状況だった。

 デジタルで対抗しようにも、相手は天才ハッカー。

 物理で破壊しようにも、トラップが張り巡らされた通路を裕里子が無理やり突破すれば、サーバーごと破壊してしまうか、裕里子自身が黒焦げになる。


「……俺が行くよ」


 俺は、スーツの上着を脱ぎ捨てながら言った。


「サトル・サン!?」

「俺なら行ける。そのトラップのパターン、どうせAIのアルゴリズムで動いてるんだろ?」

「ウン……一定の周期でレーザーの網の目が変わるようにプログラムされてるけど……」

「なら、ただの『死にゲー』と同じだ」


 俺は、社畜時代を思い出していた。

 深夜、残業を終えた後のわずかな時間。俺は現実逃避のために、ひたすら高難易度のアクションゲームをやり込んでいた。敵の攻撃パターンを完全に記憶し、フレーム単位で回避する。その無駄なスキルが、まさか現実で役に立つ日が来るとは。


「アストリッド。お前はモニターでトラップの動きを見て、俺にタイミングを指示してくれ」

「で、でも……失敗したら、サトル・サンが死んじゃう!」

「お前がナビゲートしてくれれば、失敗しないさ。……俺たちのファミリーの天才ハッカーを、信じてるからな」


 俺が微笑みかけると、アストリッドの碧い瞳から涙がこぼれ、そして、強く光った。


「……分かった。私、やる!」


 彼女はモニターの前に座り直し、ヘッドフォンを装着した。

 かつての「小鳥」の顔ではない。俺たちの相棒の顔だ。


「サトル・サン! 地下への扉、ロックを0.5秒だけ強制解除する! 飛び込んで!」

「了解!」


 俺は地下への階段に向かって走り出した。

 ガチャッ!

 扉が開いた瞬間にスライディングで滑り込む。


 地下通路は、まるでSF映画のようだった。

 薄暗い空間に、赤いレーザーの網の目が無数に交差している。触れれば高圧電流が流れる死のトラップだ。


『サトル・サン! 最初のトラップ、3秒後に下段が空く! スライディングで抜けて!』

「3、2、1……今だ!」


 俺は床を蹴り、赤い光の隙間を縫うように滑り込んだ。

 頭上数ミリをレーザーが掠める。髪の毛が少し焦げた匂いがした。


『次は連続ジャンプ! 右、左、中央!』

「右! 左! 中央!」


 社畜時代に鍛えられた神経の反射速度。

 感情を殺し、ただただパターンの反復に身を委ねる。

 これは残業だ。終わりの見えないタスクを、一つずつ処理していく作業だと思え。


「ふっ、はっ!」


 側転、前転、壁蹴り。

 自分でも驚くほどの身体能力で、俺はトラップを次々と突破していく。


『……嘘でしょ。あの動き、完全にフレーム回避してるわ』


 インカムから、冬美ちゃんが呆れたような声を上げる。


『さすがあんたの選んだ男ね、裕里子』

『私の部下よ。伊達に毎日フライパン振ってないわ』


 由希と裕里子の会話をBGMに、俺はついに最後の扉――メインサーバー室の前に到達した。


『サトル・サン! 最後の扉はアナログのダイヤル錠! フェンリルもそこまでは干渉できないはず! パスワードは「0831」!』

「野菜かよ! 分かりやすいな!」


 俺はダイヤルを回し、分厚い扉を開け放った。


 サーバー室の中央には、巨大なメインフレームが鎮座している。

 そのモニターには、あの憎たらしい狼のアイコンが表示されていた。


『……何者だ。私のアルゴリズムを物理で突破する人間がいるなど、計算外だ』


 スピーカーから、フェンリルの驚愕する声が響く。


「人間を計算式だけで測れると思うなよ、三流ハッカー」


 俺は、グレタから受け取った言葉をそのまま返してやった。


「俺は、お前のアルゴリズムを壊す『バグ』だ」


 俺はメインサーバーの裏側に回り込み、極太の主電源ケーブルを両手で掴んだ。


「電源、落とすぞ!」

『やれ! サトル・サン!』


 ブチィィィンッ!!


 火花を散らして、電源ケーブルを引き抜く。

 瞬間、アジト中の明滅していた照明が消え、耳障りなノイズがピタリと止んだ。

 完全なる静寂。


「アストリッド! 今だ!」

『クリーンOS、ブート開始! ローカルネットワーク再構築! ……フェンリルのバックドア、完全に遮断!』


 サーバーのファンが再び静かに回り始め、アジトの通常の照明がパッと点灯した。


『ミッション・コンプリート! やったよ、サトル・サン!』


 インカム越しに、アストリッドの歓喜の声が爆発した。


 リビングに戻ると、メンバー全員が俺を拍手で迎えてくれた。


「お疲れ様、サトル先輩! マジで忍者みたいやったよ!」

「遠藤くん、見直したわ。後でご褒美に高級なお酒を開けましょう」


 冬美ちゃんと由希さんが口々に褒めてくれる。

 俺は汗だくのシャツをパタパタと仰ぎながら、ソファーにへたり込んだ。


「死ぬかと思いましたよ……」

「フッ、よくやったわ」


 裕里子が、俺の頭に冷えたペットボトルの水を押し当ててきた。

 痛いけど、冷たくて気持ちいい。


 そして、アストリッドが俺の前に立ち、深く頭を下げた。


「サトル・サン。本当に、ありがとう。……サトル・サンがいなかったら、私、また逃げてたかもしれない」


 彼女は顔を上げ、その碧い瞳にはもう迷いはなかった。


「私、もう逃げない。フェンリルは、私の『過去』。私が自分で決着をつけなきゃいけない相手だから」


 アストリッドはキーボードに手を置き、不敵な笑みを浮かべた。


「今度はこっちから狩ってやる。……あいつの尻尾を掴んで、この現実世界に引きずり出して、ボスの鉄拳を食らわせてやるんだから!」

「ええ。その時は、私が跡形もなくスクラップにしてあげるわ」


 裕里子が拳を鳴らして応える。

 電脳空間の鬼ごっこは、俺たちの辛勝で幕を閉じた。

 しかし、フェンリルという巨大な敵、そしてその背後にある「クロノス」という謎の組織との戦いは、まだ始まったばかりだ。


「……サトル」


 ふと、グレタが俺の耳元で囁いた。


「あんたの『バグ』、最高の働きだったわよ。……私が組んだ回路に、あんたというイレギュラーが加わって、完璧な化学反応が起きたわ」

「どうも。でも、もう二度とあんな死にゲーはやりたくないですけどね」


 俺が苦笑すると、グレタは微かに、本当に微かにだけ微笑んだ。


「ミャ〜ゥ」


 チビがカーテンレールから降りてきて、俺の膝に乗った。

 日常が戻ってきた。

 だが、この平穏がいつまで続くかは分からない。俺たちは、見えない巨大な敵の影を、確かに感じ取っていたのだった。

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