第25話 電脳空間の鬼ごっこ
アストリッドのPCが焼き切られ、彼女の過去のトラウマである凄腕ハッカー「フェンリル」の影がアジトに落ちた翌日。
俺は、秋葉原の喧騒から少し離れた、昭和レトロな純喫茶にいた。
向かいの席に座っているのは、白衣を黒いレザージャケットに着替えたグレタ・ヴァイスだ。
彼女はテーブルの上に、先ほどジャンク通りで買い集めた電子パーツや謎の基盤を広げ、黙々とピンセットで弄っている。
「……あの、グレタさん。こんな時に秋葉原で買い出しなんて、してていいんですか?」
俺がアイスコーヒーを啜りながら尋ねると、グレタは冷ややかなブルーアイズを少しだけ上げた。
「こんな時だからよ。フェンリルとやらがアジトのネットワークを狙っているなら、デジタルな防壁は無意味。物理的に遮断するためのアナログな安全装置が必要なの」
「なるほど。だから基盤を自作してるんですね」
「ええ。それに……」
グレタは手元の作業を止め、ふっと息を吐いた。
「あの小鳥が立ち直るには、少し時間が必要でしょう。私がアジトにいて『恐怖は非合理的な感情よ』なんて正論を吐いても、彼女の回復プロセスを阻害するだけだわ」
俺は少し驚いた。
感情を「非合理的」と切り捨てる彼女が、アストリッドの心に配慮して、あえてアジトを空けてくれたのだ。
「グレタさんって、実は優しいですよね」
「馬鹿言わないで。私はただ、チームの最大戦力であるハッカーが機能不全に陥るのが不利益だから、最適な行動を選択しただけよ」
彼女はそっぽを向いて、赤いパウダーを自分のコーヒーに振りかけた。
素直じゃない。でも、それが彼女なりの「ファミリー」への接し方なのだろう。
「アストリッド、大丈夫でしょうか。昨夜は一睡もしてないみたいでしたけど」
「大丈夫よ」
グレタは毒物のように赤く染まったコーヒーを一口飲み、確信に満ちた声で言った。
「彼女には、あんたがついているもの。あんたという最大の『バグ』がいれば、フェンリルの組んだアルゴリズムなんて、すぐに狂うわ」
「バグって……俺、ハッキングなんて一文字も書けませんよ?」
「プログラミング言語だけが武器じゃないわ。……さあ、行くわよ。嫌な予感がするからね」
俺たちは急いで店を出て、アジトである洋館へと向かった。
グレタの「嫌な予感」は、見事に的中することになる。
「おい! これどうなってんのよ!」
アジトの玄関を開けた瞬間、裕里子の怒声が響き渡った。
エントランスホールは異常事態だった。
照明が赤や青に不気味に明滅し、スマートスピーカーからは不協和音のようなノイズが流れ続けている。
さらに、以前俺が魔改造した「ルンバ1号」が殺意を剥き出しにして迫り、「ルンバ2号」が不規則な軌道で自爆特攻を仕掛けてきていた。
「ミャァァァァッ!」
チビが毛を逆立てて、カーテンレールの上に避難している。
「サトル! 遅いわよ! アジトのシステムが全部乗っ取られたわ!」
ソファーの上から、由希さんが叫んだ。
リビングの奥、メインモニターの前には、頭を抱えて震えるアストリッドの姿があった。
「アストリッド! 大丈夫か!?」
俺が駆け寄ろうとすると、ガシャン!と自動ドアのロックが下りる音がした。
アジトのすべての扉の電子錠が、外部から強制的に施錠されたのだ。
『Welcome to my escape room, little bird.(ようこそ私の脱出ゲームへ、小鳥ちゃん)』
リビングの巨大モニターに、狼の牙を模した禍々しいアイコンが映し出され、合成音声が響き渡った。
フェンリルだ。
『君たちの隠れ家は、私の支配下にある。あと10分で、室内のスプリンクラーから水ではなく「消火用ハロンガス」を散布する。窒息したくなければ、システムを止めてみろ』
「ハロンガス!? 酸素濃度を一気に下げる気か! 死ぬわよ!」
グレタが青ざめる。
ただの嫌がらせじゃない。本気で俺たちを殺しに来ている。
「アストリッド! 昨夜、ネットワークは物理的に遮断したはずだろ!?」
「フェンリルはアジトのスマート家電の独立回線から侵入して、地下のメインサーバーを強制的に遠隔ブートさせたんだ! 私の権限は全部奪われてる。今はアジトの内部ネットワーク自体が、フェンリルの作った『迷路』になってる!」
アストリッドの顔は涙と恐怖でぐしゃぐしゃだった。
「ごめんなさい……私のせいで……」
「謝るのは後よ! リビングのスイッチで落とせないの!?」
裕里子がルンバ1号を特殊警棒で粉砕しながら叫ぶ。
「ダメ……! リモート制御の権限ごと奪われてる! 地下の……メインサーバー室に行って、直接物理ケーブルを引き抜いて、USBからクリーンOSで立ち上げ直すしかない! でも……」
「でも、何よ!」
「サーバー室までの地下通路は、最高の防犯トラップを仕掛けてあるの! 今はそれが全部フェンリルの制御下にある。……赤外線レーザーと、高圧電流ネット。触れたら黒焦げだよ!」
絶望的な状況だった。
デジタルで対抗しようにも、相手は天才ハッカー。
物理で破壊しようにも、トラップが張り巡らされた通路を裕里子が無理やり突破すれば、サーバーごと破壊してしまうか、裕里子自身が黒焦げになる。
「……俺が行くよ」
俺は、スーツの上着を脱ぎ捨てながら言った。
「サトル・サン!?」
「俺なら行ける。そのトラップのパターン、どうせAIのアルゴリズムで動いてるんだろ?」
「ウン……一定の周期でレーザーの網の目が変わるようにプログラムされてるけど……」
「なら、ただの『死にゲー』と同じだ」
俺は、社畜時代を思い出していた。
深夜、残業を終えた後のわずかな時間。俺は現実逃避のために、ひたすら高難易度のアクションゲームをやり込んでいた。敵の攻撃パターンを完全に記憶し、フレーム単位で回避する。その無駄なスキルが、まさか現実で役に立つ日が来るとは。
「アストリッド。お前はモニターでトラップの動きを見て、俺にタイミングを指示してくれ」
「で、でも……失敗したら、サトル・サンが死んじゃう!」
「お前がナビゲートしてくれれば、失敗しないさ。……俺たちのファミリーの天才ハッカーを、信じてるからな」
俺が微笑みかけると、アストリッドの碧い瞳から涙がこぼれ、そして、強く光った。
「……分かった。私、やる!」
彼女はモニターの前に座り直し、ヘッドフォンを装着した。
かつての「小鳥」の顔ではない。俺たちの相棒の顔だ。
「サトル・サン! 地下への扉、ロックを0.5秒だけ強制解除する! 飛び込んで!」
「了解!」
俺は地下への階段に向かって走り出した。
ガチャッ!
扉が開いた瞬間にスライディングで滑り込む。
地下通路は、まるでSF映画のようだった。
薄暗い空間に、赤いレーザーの網の目が無数に交差している。触れれば高圧電流が流れる死のトラップだ。
『サトル・サン! 最初のトラップ、3秒後に下段が空く! スライディングで抜けて!』
「3、2、1……今だ!」
俺は床を蹴り、赤い光の隙間を縫うように滑り込んだ。
頭上数ミリをレーザーが掠める。髪の毛が少し焦げた匂いがした。
『次は連続ジャンプ! 右、左、中央!』
「右! 左! 中央!」
社畜時代に鍛えられた神経の反射速度。
感情を殺し、ただただパターンの反復に身を委ねる。
これは残業だ。終わりの見えないタスクを、一つずつ処理していく作業だと思え。
「ふっ、はっ!」
側転、前転、壁蹴り。
自分でも驚くほどの身体能力で、俺はトラップを次々と突破していく。
『……嘘でしょ。あの動き、完全にフレーム回避してるわ』
インカムから、冬美ちゃんが呆れたような声を上げる。
『さすがあんたの選んだ男ね、裕里子』
『私の部下よ。伊達に毎日フライパン振ってないわ』
由希と裕里子の会話をBGMに、俺はついに最後の扉――メインサーバー室の前に到達した。
『サトル・サン! 最後の扉はアナログのダイヤル錠! フェンリルもそこまでは干渉できないはず! パスワードは「0831」!』
「野菜かよ! 分かりやすいな!」
俺はダイヤルを回し、分厚い扉を開け放った。
サーバー室の中央には、巨大なメインフレームが鎮座している。
そのモニターには、あの憎たらしい狼のアイコンが表示されていた。
『……何者だ。私のアルゴリズムを物理で突破する人間がいるなど、計算外だ』
スピーカーから、フェンリルの驚愕する声が響く。
「人間を計算式だけで測れると思うなよ、三流ハッカー」
俺は、グレタから受け取った言葉をそのまま返してやった。
「俺は、お前のアルゴリズムを壊す『バグ』だ」
俺はメインサーバーの裏側に回り込み、極太の主電源ケーブルを両手で掴んだ。
「電源、落とすぞ!」
『やれ! サトル・サン!』
ブチィィィンッ!!
火花を散らして、電源ケーブルを引き抜く。
瞬間、アジト中の明滅していた照明が消え、耳障りなノイズがピタリと止んだ。
完全なる静寂。
「アストリッド! 今だ!」
『クリーンOS、ブート開始! ローカルネットワーク再構築! ……フェンリルのバックドア、完全に遮断!』
サーバーのファンが再び静かに回り始め、アジトの通常の照明がパッと点灯した。
『ミッション・コンプリート! やったよ、サトル・サン!』
インカム越しに、アストリッドの歓喜の声が爆発した。
リビングに戻ると、メンバー全員が俺を拍手で迎えてくれた。
「お疲れ様、サトル先輩! マジで忍者みたいやったよ!」
「遠藤くん、見直したわ。後でご褒美に高級なお酒を開けましょう」
冬美ちゃんと由希さんが口々に褒めてくれる。
俺は汗だくのシャツをパタパタと仰ぎながら、ソファーにへたり込んだ。
「死ぬかと思いましたよ……」
「フッ、よくやったわ」
裕里子が、俺の頭に冷えたペットボトルの水を押し当ててきた。
痛いけど、冷たくて気持ちいい。
そして、アストリッドが俺の前に立ち、深く頭を下げた。
「サトル・サン。本当に、ありがとう。……サトル・サンがいなかったら、私、また逃げてたかもしれない」
彼女は顔を上げ、その碧い瞳にはもう迷いはなかった。
「私、もう逃げない。フェンリルは、私の『過去』。私が自分で決着をつけなきゃいけない相手だから」
アストリッドはキーボードに手を置き、不敵な笑みを浮かべた。
「今度はこっちから狩ってやる。……あいつの尻尾を掴んで、この現実世界に引きずり出して、ボスの鉄拳を食らわせてやるんだから!」
「ええ。その時は、私が跡形もなくスクラップにしてあげるわ」
裕里子が拳を鳴らして応える。
電脳空間の鬼ごっこは、俺たちの辛勝で幕を閉じた。
しかし、フェンリルという巨大な敵、そしてその背後にある「クロノス」という謎の組織との戦いは、まだ始まったばかりだ。
「……サトル」
ふと、グレタが俺の耳元で囁いた。
「あんたの『バグ』、最高の働きだったわよ。……私が組んだ回路に、あんたというイレギュラーが加わって、完璧な化学反応が起きたわ」
「どうも。でも、もう二度とあんな死にゲーはやりたくないですけどね」
俺が苦笑すると、グレタは微かに、本当に微かにだけ微笑んだ。
「ミャ〜ゥ」
チビがカーテンレールから降りてきて、俺の膝に乗った。
日常が戻ってきた。
だが、この平穏がいつまで続くかは分からない。俺たちは、見えない巨大な敵の影を、確かに感じ取っていたのだった。




