第24話 アストリッドの憂鬱
週末の夜。
神楽坂の石畳を抜けた先にある、看板のない隠れ家的なシガーバー。
薄暗い照明と、ジャズの低いベース音が心地よい大人の空間で、俺は緊張でカチコチになっていた。
「遠藤くん。そんなに肩に力入れないで。たまの息抜きなんだから」
カウンターの隣に座る福田由希さんが、氷の入ったグラスを揺らしながらクスクスと笑った。
今日の由希さんは、仕事中のカチッとしたスーツ姿ではなく、タイトな黒のニットワンピースに身を包んでいた。深くスリットが入った裾から覗く脚線美と、ほんのり赤らんだ頬が、息を呑むほど色っぽい。
三十路の男がドギマギするのも無理はないだろう。
「いや、息抜きって言われても……。由希さんと二人でこんなお洒落なバーに来るなんて、緊張しますよ」
「ふふ。いつも美味しいご飯を作ってくれてるお礼よ。それに、先のヤクザの案件、見事な立ち回りだったわ。……まあ、報酬の数億円はくるみが全部組織の裏金にしちゃったけどね」
由希さんがバーボンのロックを口に含む。
俺はマスターに作ってもらったノンアルコールのモクテルをストローで啜りながら、小さく溜め息をついた。
「結局、俺の借金680万は1円も減ってないんですよ。この組織、本当にどうなってるんですか」
「そこがいいんじゃない。……あんな破天荒な連中が集まってるのに、奇跡的にバランスが取れてる。遠藤くんっていう、常識の『接着剤』のおかげかもしれないわね」
由希さんの言葉に、俺は少しだけ救われた気がした。
「……由希さん。俺、最近よく思うんです」
「何を?」
「裕里子さんも、グレタさんも、陽子さんも……みんなどうして、こんな裏社会みたいな組織にいるんだろうって。みんな、すごい才能を持ってるのに」
「そうね」
由希さんはグラスの縁を指でなぞりながら、少しだけ遠い目をした。
「それぞれ、過去から逃げてきたのよ。……私を含めてね」
「由希さんも?」
「ええ。法で人を救えなかった、過去の自分から。……でもね、遠藤くん」
由希さんは真剣な眼差しで、俺を見た。
「一番逃げているのは、アストリッドかもしれないわ」
「え? アストリッドが?」
「あの子、いつも底抜けに明るいでしょう。でも、その明るさは『恐怖』を隠すための鎧よ。彼女がかつていた世界は、私たちが戦っているブラック企業なんかより、ずっと冷たくて……黒い世界。いつか、あの過去が彼女に追いついてこないか、私、少し心配なの」
由希さんの言葉は、静かなバーの空気の中に、不吉な影を落とした。
その時の俺は、彼女の危惧が、これほど早く現実のものになるとは思ってもみなかったのだ。
翌日の午後。
アジトの応接室には、新たな依頼人が訪れていた。
新進気鋭のITベンチャー企業『サイバー・フロンティア』に勤める、20代の若手プログラマーだ。
「……会社を辞めようとしたら、社長から『競業避止義務違反で訴える』と脅されたんです」
青白い顔をした青年が、震える声で語る。
競業避止義務。退職後、一定期間は同業他社に転職してはならないという契約だ。
本来は企業の機密を守るためのものだが、この社長はそれを悪用し、法外な違約金を盾にして社員を過労死ラインまで働かせているらしい。
「なるほどね。よくある手口よ」
由希さんが書類を見ながら鼻で笑う。
「競業避止義務は、職業選択の自由を不当に制限するものであれば無効になるわ。でも、相手が『機密情報を盗まれた』とでっち上げて損害賠償を吹っかけてくる可能性はある。……敵の手の内を先に押さえておきたいわね」
「オーケー! 任せて!」
リビングのソファでノートPCを開いていたアストリッドが、勢いよく手を挙げた。
「『サイバー・フロンティア』の社内ネットワークに侵入して、違法な労働実態のログと、社長の裏メールを全部引っこ抜いてあげる! ITベンチャーなんて言っても、セキュリティは私が5分で丸裸にしてやるよん!」
アストリッドはいつものようにガムを膨らませながら、キーボードを叩き始めた。
カカタ、カカタ、というリズミカルな打鍵音。
いつもなら、数分後には「ビンゴ!」という彼女の明るい声が響くはずだった。
しかし。
5分経っても、10分経っても、アストリッドの声は上がらなかった。
「……あれ?」
アストリッドのタイピングスピードが、異様に速くなっている。
彼女の額には脂汗が浮かび、碧い瞳がモニターに釘付けになっていた。
「アス? どうしたの? 手こずってるの?」
裕里子が訝しげに尋ねるが、アストリッドは返事すらしない。
俺が後ろからモニターを覗き込むと、黒い画面に、真っ赤なエラーメッセージが次々とポップアップしていた。
『ACCESS DENIED(アクセス拒否)』
『TRACE ROUTE DETECTED(逆探知開始)』
「弾かれた……? うそ、私のゴースト・スクリプトが、完全に読まれてる……!」
アストリッドの声が震えていた。
「ただのファイアウォールじゃない! これ、能動型のICE(侵入対策プログラム)だ! こっちの偽装IPを片っ端から潰して、逆にウチのサーバーに逆ハックを仕掛けてきてる!」
ビーッ! ビーッ!
アジトのメインサーバーから、けたたましい警告音が鳴り響いた。
「ヤバい! 抜かれる!」
アストリッドは血相を変え、PCのLANケーブルを物理的に引っこ抜いた。
さらに、メインサーバーの主電源を直接落とす。
プツン、とアジトの照明が一瞬暗くなり、重い静寂が訪れた。
「……な、何が起きたの?」
冬美ちゃんが怯えた声で尋ねる。
アストリッドは、肩で荒い息をしながら、真っ暗になったモニターを呆然と見つめていた。
その顔は、幽霊でも見たかのように蒼白だった。
「……嘘。どうして……」
彼女はガタガタと震える手で、自分の顔を覆った。
「この防壁の構築パターン……そして、この攻撃的なトラップのシグネチャ。……間違いない」
アストリッドの口から、絞り出すような声が漏れた。
「『フェンリル』だ……」
「フェンリル……? 北欧神話の狼のこと?」
ダイニングテーブルに温かい紅茶が配られ、少し落ち着きを取り戻したアストリッドを囲んで、緊急のミーティングが開かれていた。
裕里子の問いに、アストリッドは力なく頷いた。
「ウン。……私が昔、所属していたハッカー集団のリーダーの名前」
アストリッドが、初めて自身の「過去」を語り始めた。
「ノルウェーのアンダーグラウンドで活動していた、『ヴァルハラ』っていう非合法のハッカー集団。私はそこで……才能を搾取されてたの」
「搾取?」
「私はただ、パズルを解くようにセキュリティの穴を見つけるのが楽しかっただけ。でも、フェンリルは私の書いたコードを使って、企業の口座からお金を盗んだり、病院のシステムを人質に身代金を要求したりした。……完全に、サイバーテロリストだった」
アストリッドの碧い瞳に、暗い影が落ちる。
「耐えきれなくなった私は、組織の裏資金をハッキングして全部アフリカの孤児院に寄付して、日本に逃げてきたの。……フェンリルは、裏切り者を絶対に許さない。執念深く、残酷で、そして私よりずっと……ハッキングの腕が上」
彼女は自分の両腕を抱きしめるように身を縮めた。
「そのフェンリルが、日本の……あの『サイバー・フロンティア』のセキュリティを担当しているってこと?」
由希さんの確認に、アストリッドは頷く。
「おそらく、フリーの『セキュリティ・コンサルタント』として雇われたんだと思う。あの罠の仕掛け方は、絶対にアイツ。……私がこのアプローチでハッキングを仕掛けてくるのを、完全に読んで、待ち構えてたんだ」
その時。
物理的にネットワークから遮断されているはずのアストリッドのノートPCが、突然「ブォン」と音を立てて起動した。
「えっ!?」
全員が息を飲む。
LANケーブルは抜かれている。Wi-Fiも切っている。
それなのに、画面が勝手に立ち上がり、黒い背景の中に、白い文字が一文字ずつタイプされていく。
スリープ状態のPCのメモリに、あらかじめ潜伏させていたマルウェアが起動したのだ。
『I found you, little bird.(見つけたぞ、小鳥ちゃん)』
「ひっ……!」
アストリッドが悲鳴を上げ、椅子から転げ落ちた。
画面にはさらに、アストリッドが日本の街を歩いている隠し撮り写真や、このアジトの近辺の地図が次々と表示された。
『お前がどこで、誰とコソコソ遊んでいるか、全て分かっている。すぐに迎えに行くから、いい子で待っていろ』
最後にそのメッセージを残し、PCはプツンと音を立ててショートし、二度と起動しなくなった。
「あ、ああ……」
アストリッドは床にへたり込み、ボロボロと涙をこぼした。
いつもの陽気な「天才ハッカー」の姿はどこにもない。そこには、過去の恐怖に怯える、一人の無力な少女がいた。
「私のせいだ……。私のせいで、みんなの居場所がバレた。みんなまで狙われる。……ごめんなさい、私、出ていく……!」
アストリッドが立ち上がり、玄関へ向かおうとした。
だが、その腕を、ガシッと力強く掴む手があった。
「どこに行く気よ」
裕里子だった。
彼女はアストリッドの腕を掴んだまま、冷たく、だが確かな熱を帯びた声で言った。
「あんた、この組織の就業規則を忘れたの? 『退職は深夜0時に、ボスの許可を得てから』よ。……勝手に辞めるなんて、私が許さない」
「でも! フェンリルはヤバい奴なの! ボスの暴力も、由希サンの法律も、電脳空間じゃ通じない!」
アストリッドが泣き叫ぶ。
すると、俺は無意識のうちに一歩前に出ていた。
「……アストリッド。忘れたのか?」
俺は、彼女の頭にポンと手を置いた。
「君が言ったんだろ。『ここは私のファミリーだ』って。……家族がピンチの時に、見捨てるような奴はこのアジトにはいないよ」
俺の言葉に、アストリッドがハッと顔を上げた。
ダイニングを見ると、冬美ちゃんが特製の木刀を素振りし始め、グレタが危険な色の薬品を調合し、由希さんが冷たい笑顔で六法全書をめくっていた。
誰も、逃げる気など微塵もない。
「……電脳空間じゃ私の拳が届かない? なら、そいつの物理的な居場所を叩き潰せばいいだけの話よ」
裕里子がニヤリと笑い、首の骨をボキボキと鳴らす。
「その狼とやら、私が物理で殴り飛ばしてやるわ」
最強のボスの宣言に、アストリッドの目から、恐怖とは違う大粒の涙がこぼれ落ちた。
そうだ。俺たちの武器は、決して一人じゃないことだ。
「サトル・サン……ボス……」
「さあ、反撃の作戦会議だ。……泣いてる暇はないぞ、アストリッド」
俺は、昨日由希さんに言われた言葉を思い出していた。
『彼女が恐れているものが、いつか追いついてこないか心配だわ』
ああ、追いつかれたさ。
でも、今の彼女は一人じゃない。このイカれた退職代行屋の仲間たちがいる。
迫り来る見えない刺客。
電脳空間を支配する凄腕ハッカーとの、命を懸けた鬼ごっこが、今始まろうとしていた。




