第22話 仁義なき退職代行
「にゃぁ……にゃぁっ」
朝の光が差し込むキッチンで、甘ったるい声が響いた。
俺の足元で、黒猫のチビがスリッパによじ登ろうと必死に短い手足を動かしている。
最近のチビは、ミルクだけでなく離乳食も食べるようになり、体力を持て余しているのか、とにかく俺の後をついて回るようになった。
「こらこら、危ないぞ。今は味噌汁を作ってるんだから」
俺がしゃがみ込んでチビの頭を撫でてやると、チビは「にゃぁん!」と嬉しそうに鳴き、俺の指を小さな前足でギュッとホールドして甘噛みしてきた。
ザラザラとした舌の感触。琥珀色になりつつある丸い瞳。
天使だ。完全に天使である。
だが、俺の心は天使の癒やしをもってしても、晴れることはなかった。
なぜなら、俺たちの現在のクライアントは、本職のヤクザ――『関東大江戸会』の竜崎組長だからだ。
引退したい組長と、それを阻む武闘派の若頭・京極。
下手をすれば、俺たちは東京湾の底に沈められるかもしれない。胃がキリキリと痛む。
「サトル、朝ご飯まだ? 腹が減っては戦はできないわよ」
ダイニングテーブルから、ボスの青木裕里子が不機嫌そうに声を上げた。
彼女の腹部にはまだコルセットが巻かれているはずだが、その顔つきは完全に「獲物を前にした猛獣」だった。先日のパワードスーツの巨漢に負けた鬱憤を、ヤクザ相手に晴らそうとしているのだ。
「今出しますよ。……裕里子さん、本当にやる気なんですか? 相手は拳銃を持ってるかもしれないんですよ?」
「だから何? 銃弾なんて、当たらなければどうということはないわ」
「名言っぽく言ってますけど、当たったら死にますからね!」
俺がツッコミを入れていると、玄関の方からドタドタと騒がしい足音が聞こえてきた。
「みんなー! 準備できたばい!」
リビングに現れた姿を見て、俺は持っていたお玉を落としそうになった。
潜入担当の藤原冬美だ。
彼女の服装は、どう見てもおかしい。
白いサラシを巻き、その上に龍の刺繍が入った長ラン。下はダボダボのズボン。金髪をリーゼント風にアップにし、手には木刀を握っている。
「どや! ウチの『極道の娘』コスプレ! 完璧やろ!」
「冬美ちゃん……それ、極道っていうか、昭和のヤンキー漫画だよ。コンプラ意識の高い現代のヤクザ事務所に、そんな格好で行ったら即つまみ出されるぞ」
「えー? Z世代から見たエモい裏社会って、こんな感じやん? まあ見とって! 気合いと愛嬌で乗り切るけん!」
冬美ちゃんは木刀を肩に担ぎ、ニシシと笑った。
「で、私の衣装はどうかしら?」
冬美ちゃんの後ろから、しっとりとした大人の色気を漂わせて現れたのは、三浦陽子さんだった。
紫を基調とした、牡丹の花が描かれた極上の着物。髪は艶やかに結い上げられ、うなじが色っぽい。まさに、銀座の高級クラブのママそのものだ。
「陽子さんは……完璧ですね。本職にしか見えません」
「ふふっ、ありがとうサトル。私の今回の役は、京極の行きつけの高級クラブ『夜桜』のヘルプで入る伝説のチーママよ。……あの狂犬を、私の色香で飼い慣らしてあげるわ」
陽子さんは妖艶に微笑み、扇子を広げた。
「さて、ミッションのおさらいよ」
くるみさんが紅茶のカップを置き、静かに告げた。
「ターゲットの京極は、竜崎組長の資産を狙って引退を妨害している。もし京極が、裏で組の資金を横領していたり、敵対組織と内通してクーデターを企てている証拠があれば……それを突きつけることで、彼を失脚させることができるわ」
「つまり、京極の『弱み』を握るためのダブル潜入ってわけね」
由希さんが頷く。
「冬美ちゃんは組事務所に潜入して、金庫や裏帳簿の物理的な位置を特定。陽子さんは京極に直接接触して、情報を引き出す。……サトルくんとアストリッドは、本部で情報のバックアップよ」
「アイアイサー! 通信回線、暗号化完了してるよん!」
アストリッドがヘッドフォンを装着し、親指を立てる。
こうして、前代未聞の「対ヤクザ情報戦」の幕が切って落とされた。
午後2時。関東大江戸会の組事務所前。
防犯カメラの死角に停めたハイエースの車内で、俺とアストリッドはモニターを凝視していた。
『あー、あー。マイクのテスト中。サトル先輩、聞こえる?』
「ああ、バッチリだ。冬美ちゃん、本当にその格好で行くのか?」
カメラの映像には、特攻服に木刀姿の冬美ちゃんが、堂々と組事務所の正面玄関に向かって歩いていく様子が映っていた。
『余裕余裕! 行ってきまーす!』
冬美ちゃんは玄関のインターホンを乱暴に押した。
しばらくして、いかつい顔をした若い組員が出てくる。
「あぁ? なんやワレ。ここでコスプレ撮影でもする気か? 怪我する前に帰れや」
「なんやとコラ! ウチの親父が昔、ここの組の人に助けてもらった恩がある言うてたから、挨拶と掃除に来たんや! 通さんかい!」
冬美ちゃんは木刀で地面を叩き、博多弁でまくし立てた。
組員はポカンとしている。
「お、親父の恩返し……? お前、いくつや?」
「22や! 気合いなら誰にも負けへんで! ほら、雑巾持ってきたから、便所でもどこでもピカピカにしたるわ!」
冬美ちゃんがポケットからピンク色の雑巾を取り出すと、奥から別の年配の組員が出てきた。
「おいおい、なんや騒がしい……。お嬢ちゃん、親父さんの恩返しで掃除しに来たって?」
「おう! 極道の娘の仁義ってもんやろ!」
「……最近の若いもんにしては、見上げた根性しとるやないか。ええやろ、中入って、そこの廊下拭いてくれや」
「っしゃあ! 任せとき!」
俺は車内で盛大にずっこけた。
入れたのかよ! ヤクザの危機管理能力はどうなってるんだ!
「すごいね、フユミの『バカを装った突破力』! ある意味、最高のソーシャルハッキングだよ!」
アストリッドが手を叩いて喜んでいる。
事務所の内部に侵入した冬美ちゃんは、元新体操部の身軽さを活かして、雑巾がけをしながら驚くべきスピードで内部を探索し始めた。
『サトル先輩、1階はただの待機室やね。2階に若頭の部屋があるみたい。……あ、階段の前にカメラあるわ』
「アストリッド、カメラのループ映像差し替え、いけるか?」
「任せて! 3秒で終わらせる!」
アストリッドのタイピングにより、監視カメラの映像がハッキングされる。
『オッケー、サンキュー! 2階に行くで!』
冬美ちゃんは音もなく階段を駆け上がり、京極の部屋へと忍び込んだ。
『……ビンゴ。立派な金庫があるわ。メーカーは〇〇の最新型、顔認証と静脈認証のダブルロックやね。これ、物理で開けるの無理ちゃう?』
「顔と静脈か……。となると、京極本人のデータが必要になるな」
俺が呟いた時、インカムの別回線から、艶やかな声が割り込んできた。
『ふふっ。なら、私が頂いてきてあげるわ』
陽子さんだ。
時はすでに夜の8時を回っていた。
高級クラブ『夜桜』のVIPルーム。
陽子さんの胸元に仕込まれたピンホールカメラの映像には、革張りのソファに深く腰掛ける一人の男が映っていた。
鋭い三白眼に、頬から顎にかけての大きな傷跡。関東大江戸会若頭、京極だ。
彼は不機嫌そうに葉巻を吹かしている。
「……見ない顔だな。新しい女か」
「ええ。銀座から流れてきた、しがない蝶々よ。京極さん、お噂はかねがね。とても『強い』お方だと聞いておりますわ」
陽子さんは優雅にお辞儀をし、京極の隣に座った。
距離が近い。香水の甘い匂いが、京極の鼻腔をくすぐるはずだ。
「フン。女の甘言には乗らんぞ。俺は忙しいんだ」
「まあ、冷たいのね。……でも、そんな警戒心の強いところも、素敵だわ」
陽子さんはドンペリのボトルを手に取り、グラスに注いだ。
「私、強い男が好きなの。……組長になられる日も、近いのではなくて?」
その一言に、京極の目がスッと細くなった。
「……お前、どこでその話を」
「あら、夜の街は情報の宝庫よ? 京極さんが、古い体制を壊して、新しい組織を作ろうとしている……なんて噂、あちこちで囁かれていますわ」
「……」
京極は無言でグラスを呷った。
図星だ。陽子さんはカマをかけただけだが、彼の反応が全てを物語っている。
「でも、大きな事をするには、お金が必要でしょう? ……もしよろしければ、私が少し、お力添えできましてよ」
「女が、極道に口を出すな」
「ただの女じゃありませんわ。私、裏の投資家たちとのパイプがありましてね。……貴方の『新しいシノギ』、魅力的なら投資してもいいわよ?」
陽子さんの「コンフィデンスウーマン」としての話術が冴え渡る。
彼女の虚実入り交じった言葉に、京極も少しずつ興味を示し始めた。
だが、百戦錬磨のヤクザの若頭は、そう簡単には尻尾を出さない。
そこから数時間。途切れることのない称賛と、高級酒の連打、そして絶妙なボディタッチ。陽子さんは息もつかせぬ接待を続け、じわじわと京極の懐に潜り込んでいった。
時刻が23時を回る頃には、大量の酒を煽った京極の強固な警戒心も、完全に解けきっていた。
「……投資、だと? お前、いくら動かせる?」
「そうね……億単位なら、すぐにでも」
京極がニヤリと笑った。
「面白い女だ。……いいだろう。俺の計画の片鱗を、少しだけ見せてやる」
京極は懐からスマートフォンを取り出し、ロックを解除した。
その瞬間。
『アストリッド! 今よ!』
『アイキャッチ! スマホの画面から顔認証データと、親指の静脈パターンをスキャンしたよ!』
陽子さんのカメラを通じて、アストリッドが京極の生体データを完璧に盗み取ったのだ。
「あら? 京極さん、そのスマホの画面……関西の『関西武闘会』の代紋じゃありません?」
「……目がいいな。そうだ、俺は親父を隠居させ、関西の組織と手を結んで、この関東を統一する。そのための軍資金は、親父の隠し金庫からいただく算段だ」
「まあ! なんて野心的で、痺れる計画!」
陽子さんは大げさに手を叩いて称賛しつつ、インカムで俺たちに合図を送った。
これで、京極が組長を裏切ってクーデターを企てている確固たる証言が取れた。
『サトル先輩! アストリッド! こっちも準備できたで!』
数時間、事務所の物陰で息を潜めていた冬美ちゃんの声が響く。
『京極の部屋の金庫に、アストリッドが作った生体データのエミュレーターをセットした!』
「よし! データ送信! ……開け、ゴマ!」
アストリッドがエンターキーを叩く。
『……ガチャッ。開いた! すっげー!』
カメラの映像で、重厚な金庫の扉が開くのが見えた。
中には、札束の山と、数冊のファイルが入っている。
『ファイルの中身……うわ、関西の組織との密約書と、竜崎組長の暗殺計画書まであるやん。これ、完全にアウトやね』
「よし、冬美ちゃん、それ全部写真に撮って、原本も回収してくれ!」
俺が指示を出す。
カオスな情報戦。だが、俺たちの連携は完璧だった。
冬美の物理的潜入、陽子の心理的籠絡、アストリッドのサイバー攻撃、そして俺の指示出し。
これなら、いける!
そう確信した時だった。
『……おい、お前。そこで何をしている』
冬美ちゃんのマイクから、低くドスの利いた男の声が聞こえた。
映像がブレる。
金庫を漁っていた冬美ちゃんの背後に、見回りの組員が立っていたのだ。
『あ、えっと……その、金庫のホコリが気になって!』
『ふざけるな! 誰か! 泥棒だ!!』
組員が怒鳴り声を上げ、懐から拳銃を抜くのが見えた。
「冬美ちゃん!!」
俺が叫ぶ。
『サトル先輩、ヤバい! 逃げるけん!』
ガタン! という音と共に、映像が激しく揺れ、そのまま通信が途絶えた。
「ザーッ」というノイズだけが響く。
「冬美! 冬美ちゃん! 応答しろ!」
「ダメだ、電波が遮断された! ジャマーを使われてる!」
アストリッドが青ざめた顔でキーボードを叩く。
最悪の事態だ。
冬美ちゃんが、ヤクザの事務所で孤立してしまった。
「……サトル。車のエンジンをかけなさい」
後部座席から、氷のように冷たい声が響いた。
振り返ると、コルセットを巻いたボスの青木裕里子が、二本の特殊警棒と、一枚の金属板を手に立ち上がっていた。
それは、先日の戦闘で真っ二つに折られ、無骨な溶接の跡が生々しく残るダマスカス鋼の退職届だった。
「裕里子さん……」
「証拠は揃った。あとは、うちの可愛い後輩を迎えに行くだけよ」
彼女の目には、かつてないほどの怒りと殺意が渦巻いていた。
「深夜0時。……極道だろうが何だろうが、まとめて退職にしてやるわ」
俺は無言で頷き、ハイエースのエンジンをかけた。
時計の針は、23時45分を指している。
いざ、カチコミの時間だ。




