第20話 敗北からのリベンジ
石臼の中で、スパイスが複雑に絡み合い、極彩色の香りを放っていた。
レモングラスの爽やかな柑橘香、ガランガルの土臭くも鋭い刺激、鮮やかなオレンジ色をした生ターメリック、赤エシャロットの甘み、そして水で戻した乾燥唐辛子。
俺は、額に汗を滲ませながら、重い石の乳棒をリズミカルに打ち下ろし、それらの香辛料を徹底的に叩き潰してペースト状にしていた。
「……サトル。今日のキッチン、いつにも増して異国の匂いがするわね」
カウンター越しに、顧問弁護士の由希さんがグラスを片手に興味深そうに覗き込んでくる。その後ろでは、くるみさんやアストリッド、冬美ちゃんも、珍しい調理風景に釘付けになっていた。
「今日は特別メニューです。……チームの『士気』を上げるために、パンチの効いたやつをと思いましてね」
俺は潰したスパイスペーストを、鍋で煮立たせているスープに投入した。
ベースは、新鮮なサバを丁寧に丸茹でし、骨と頭からじっくり取った濃厚な魚介出汁。そこにタマリンドのペーストをたっぷりと加え、強烈な酸味をプラスする。
さらに、炙ることで独特の香ばしさを引き出したブラチャンと、ほぐしたサバの身をスープに戻す。
仕上げに、トーチジンジャーの花とベトナミーズミントを投じると、むせ返るような酸味と辛味、そして魚介の旨味が混ざり合った、鮮烈なアロマがキッチンを支配した。
「完成です。マレーシア・ペナン島の名物、『ペナン・アッサム・ラクサ』」
どんぶりに茹でた太いモチモチのライスヌードルを盛り、熱々のスープをたっぷりとかける。
トッピングには、千切りのキュウリ、赤玉ねぎ、爽やかなパイナップル、ミントの葉、そして真っ赤なチリ。最後に、濃厚で甘黒いエビのソースをスプーンでひと回し垂らす。
「そして、この酸っぱ辛い料理に合わせるペアリングは、こちらです」
俺は氷をたっぷり入れたハイボールグラスに、ピリッと辛口のジンジャービアを八分目まで注いだ。そこに、バミューダ島産の濃厚なダークラム「ゴスリングス・ブラックシール」を、バースプーンを伝わせて静かにフロートさせる。
黄金色のジンジャービアの上に、暗黒のラム酒が層を作り、まるでグラスの中に嵐の空模様が閉じ込められたようなグラデーションを描く。最後にフレッシュなライムを搾って落とした。
「カクテル『ダーク・アンド・ストーミー』。……今の俺たちの状況に、ぴったりでしょう?」
俺の言葉に、由希さんが「ふふっ」と笑い、グラスを受け取った。
「洒落が効いてるわね。……いただくわ」
由希さんがアッサム・ラクサのスープを一口すする。その瞬間、彼女の目が驚きに見開かれた。
「美味しい……! ガツンと来る魚の旨味と唐辛子の辛さの後に、タマリンドとパイナップルの強烈な酸味が追いかけてくるわ。すごく複雑なのに、食べる手が止まらない……!」
「そして、このカクテルをどうぞ」
ダーク・アンド・ストーミーを口に含んだ由希さんが、小さく息を吐いた。
「……完璧ね。ジンジャービアのスパイシーさとダークラムの芳醇なコクが、ラクサの酸っぱ辛さを見事にリセットして、さらに食欲を増幅させる。プロのバーテンダーとシェフが組んだみたいなペアリングだわ」
「サトル先輩、これマジでヤバい! 汗めっちゃ出るけど最高!」
冬美ちゃんもアストリッドも、無言で麺を啜り、カクテルを煽っている。
だが、この熱狂の食卓に、本来一番乗りで食いつくはずのボスの姿はなかった。
俺はお盆に一人分のラクサとカクテルを乗せ、二階の奥にある裕里子の自室へと向かった。
「……裕里子さん、入りますよ」
ノックをして部屋に入ると、ベッドの上で裕里子が上半身を起こしていた。
彼女の腹部には分厚いコルセットが巻かれ、首元にも痛々しいテーピングが施されている。先日の『グロース・マンパワー』での戦闘で、鋼鉄の装甲を持つ巨漢の用心棒に負わされた傷だ。肋骨の亀裂骨折と、全身の打撲。グレタの処置のおかげで命に別状はないが、数日は絶対安静を言い渡されている。
「サトル……。いい匂いがするわね」
「特製のアッサム・ラクサです。これを食べて、元気を出してください」
俺がお盆をサイドテーブルに置くと、裕里子は力なく微笑んだ。
彼女の視線の先には、真っ二つに折れた「ダマスカス鋼の退職届」が置かれていた。
「……負けたわ。あんな力任せのゴリラに」
彼女はギリッと唇を噛み締めた。
「私のせいで、作戦は失敗。依頼人の青年は、今もあのタコ部屋で震えている。……くそっ、私が動ければ……!」
「裕里子さん」
俺は、ベッドの傍らに座った。
「一人で背負い込まないでください。俺たちは『チーム』でしょう?」
「チーム? ……サトル、あんたたちに戦闘力はないわ。あんな化け物、私以外にどうやって倒すのよ」
「正面からぶつかるだけが戦いじゃありませんよ。俺たちのチームには、天才ハッカーも、潜入のプロも、法律の鬼も、悪魔みたいなマッドサイエンティストもいるじゃないですか。……それに、俺みたいな小賢しい家事手伝いも」
俺は折れたダマスカス鋼を手に取り、彼女の手に握らせた。
「休んでいてください。今夜は、俺たちがボスの代わりに『退職届』を出してきます」
裕里子は目を見開き、そして、フッと自嘲気味に笑った。
「……生意気言うようになったじゃない。社畜のくせに」
深夜23時30分。
俺たちは、品川区にある『グロース・マンパワー』が所有する地下倉庫の前にいた。
アストリッドの調査により、社長とあの巨漢の用心棒が、警察の目を逃れてここに身を潜めていることが判明したのだ。
「作戦の最終確認をするわよ」
ハイエースの車内で、くるみさんが静かに指示を出す。
今回は裕里子という「最大火力」が使えない。だからこそ、ミリ単位の連携が求められる。
「敵の用心棒の最大の武器は、あの鋼鉄の『強化スーツ』。アストリッド、解析は?」
「任せて! あれ、油圧とモーターを電子制御してるパワードスーツの一種だよ。設計が古くて、ローカルネットワークで社長のタブレットと同期してる。……すでにバックドアは仕込んであるから、いつでもシステムをジャックできるよん!」
アストリッドがキーボードを叩きながらウインクする。
「冬美ちゃん、侵入ルートは?」
「倉庫の空調ダクト、ウチの体ならギリギリ通れるっす。すでに防犯センサーは切ってあるけん、上から『アレ』を落とす準備は万端やよ」
ダクト用の作業着に身を包んだ冬美ちゃんが、サムズアップする。
「グレタさん、『アレ』の調合は?」
「完璧よ。私が開発した『G-14型・経皮吸収式神経麻痺ガス』。……スーツの装甲の隙間からでも、皮膚に触れれば3秒で筋弛緩を引き起こすわ。もちろん、死なない程度にね」
グレタが、試験管に入った無色透明の液体を揺らす。
「そして私とくるみで、社長の退路を『法律』と『心理』で完全に塞ぐ」
由希さんが、分厚い告発状の束をポンポンと叩いた。
「遠藤くん。貴方の役割は分かっているわね?」
「はい。……あの巨漢を特定のポイントに誘導するための、囮兼トラップメイカーです」
俺は、足元に控えている魔改造された『ルンバ2号』の電源を入れた。
「よし。ミッション・スタートよ。……裕里子ちゃんの無念を晴らしてやりなさい」
深夜0時00分。
地下倉庫のシャッターが、俺の操作するリモコンによって派手な音を立てて開いた。
薄暗いコンクリートの空間。奥に設置されたプレハブの仮設オフィスから、社長と巨漢の用心棒が飛び出してきた。
「誰だ!? またお前らか!」
社長が喚く。巨漢は両腕のガントレットを鳴らし、戦闘態勢に入った。
俺は一人、彼らの前に立ち塞がった。
「こんばんは、社長さん。先日提出し損ねた退職届を、出し直しに来ました」
「ハッ! あの生意気な女はいないようだな! やれ! こいつをミンチにしろ!」
社長の命令と共に、巨漢が重戦車のように突進してくる。
俺は逃げずに、ポケットの起爆スイッチを押した。
「いけ! ルンバ2号!」
俺の足元から、黒い円盤が猛スピードで射出された。
ルンバ2号は巨漢の足元に到達した瞬間――搭載された閃光弾を炸裂させた。
カッ!! ピィィィィン!!
強烈な光と音が倉庫内を乱反射する。
「グォォッ!?」
巨漢が視界を奪われ、立ち止まった。
その瞬間、インカム越しにアストリッドが叫ぶ。
『システム・ジャック! 強化スーツの排熱ファン、強制停止! 関節ロック、オン!』
ガガガガッ!
巨漢の装備するスーツから異音が鳴り響き、彼の両腕が不自然な角度で固定された。
「な、なんだ!? 動かんぞ!」
『今や! 冬美、投下!』
頭上の空調ダクトから、冬美ちゃんがグレタ特製のガス弾を巨漢の頭上へと投下した。
パシュッ! という音と共に、無色透明のガスが巨漢の周囲に散布される。
「ゴフッ……! ガハッ!」
強化スーツの隙間から浸透した神経麻痺ガスが、巨漢の筋力を根こそぎ奪っていく。
あの絶対的な暴力の塊が、膝から崩れ落ちようとした。
だが、巨漢は雄叫びを上げ、関節ロックのモーターを無理やり引きちぎるほどの膂力で腕を上げ、俺に殴りかかろうとした。
麻痺ガスが回るまでの数秒のラグ。その一撃をもらえば、俺は死ぬ。
――その時だった。
「遅いわよ、サトル」
俺の背後から、黒い影が飛び出した。
コルセットと包帯を巻いたままの青木裕里子だった。
彼女はベッドを抜け出し、この作戦の最後の「ピース」として現れたのだ。
「裕里子さん!?」
「沈めぇぇっ!!」
裕里子は、巨漢の懐に飛び込むと、手にしたスタンガン――その先端にガムテープで固定された「折れたダマスカス鋼の切先」を、強化スーツの首元の隙間、装甲がパージされた一点に深く突き立てた。
金属の切先が肉に食い込み、そこから数万ボルトの電流が直接、巨漢の中枢神経に流し込まれる。
「ギィィィヤァァァァァッ!!」
巨漢の目が完全に白転し、口から泡を吹きながら、今度こそ大木が倒れるようにコンクリートの床に沈んだ。
ズドォォン! と地響きが鳴る。
「……チェックメイトよ」
荒い息を吐きながら、裕里子が巨漢を見下ろした。
「ひっ、ひぃぃぃっ!」
背後の仮設オフィスでは、由希さんとくるみさんが、逃げようとした社長を完全に包囲していた。
「社長様。貴方の裏帳簿も、謎のコンサルタント会社との通信記録も、すべて押さえました。……さあ、サインの時間ですよ」
くるみさんの聖母の微笑みと、由希さんが突きつける法的文書。
もはや抵抗する気力すら失った社長は、泣きながら退職の承諾書にサインをしたのだった。
「はぁ……終わった……」
アジトへの帰路、ハイエースの車内で俺は深くシートに沈み込んだ。
後部座席では、無理をした裕里子がグレタに怒られながらテーピングを巻き直されている。
「安静にしろと言ったでしょう、この戦闘狂」
「痛っ……! いいじゃない、勝ったんだから。……それに」
裕里子は、助手席に座る俺の背中越しに、ふっと息を吐いた。
「サトル。それに、あんたたち」
「はい?」
「……悪くないわね。あんたたちのチームワーク」
窓の外を見つめながら、裕里子が小さな声で呟いた。
それは、孤高の元スパイが、初めて「仲間」を認めた瞬間だったのかもしれない。
「ふふっ、ボスがデレたよん!」
「アストリッド、うるさい」
車内に笑い声が響く。
圧倒的な力を持つ敵も、俺たちが連携すれば倒せる。
「敗北」から立ち上がった俺たちは、確実に強くなっていた。
帰ったら、祝いの酒を飲もう。あの残ったダークラムで、もう一杯ダーク・アンド・ストーミーを作ろう。
深夜の東京を、ハイエースが誇らしげに駆け抜けていった。




