第19話 鋼鉄の退職届、折れる
半グレ集団によるアジト襲撃事件から数日後。
俺は、ボスの青木裕里子と共に、休日の表参道を歩いていた。
「サトル。私の服、変じゃないわよね?」
「ええ、とてもよく似合ってますよ。ただ……」
今日の裕里子は、淡いピンク色のシフォンブラウスに、フレアスカートという、およそ彼女らしくない「清楚系ゆるふわOL」のお手本のようなファッションに身を包んでいた。髪もわざわざゆるく巻いている。
客観的に見れば、誰もが振り返るほどの美女だ。
だが、問題はその「動き」だった。
「……背後から尾行されている気配はないわね。周囲の狙撃ポイントは……三ヶ所。クリアよ」
「裕里子さん。パンケーキ屋に行くのに、クリアリングは必要ありません」
彼女は周囲を鋭い目つきで睨みつけながら、軍人のような隙のない足取りで歩いている。清楚な服と、殺気立ったオーラが絶望的にミスマッチだった。
事の発端は、数日前にくるみさんが放った一言だった。
『裕里子ちゃん、少しは普通の女性らしい休日を過ごしてみたら? 遠藤くんにでもエスコートしてもらいなさいな』
その言葉に感化された裕里子は、ネットで「普通のOLの休日」をリサーチし、俺を連れ出して「パンケーキからの映画鑑賞」という王道デートコースを実践しているのだった。
話題のハワイアンパンケーキ店に入り、俺たちは山盛りの生クリームが乗ったパンケーキを前にした。
「これが……インスタ映えというやつね」
「はい。美味しいですよ」
裕里子はナイフとフォークを手に取った。
その持ち方が、完全に「ナイフによる逆手持ちの刺殺術」の構えだった。
「……サトル。このクリームの下に、毒物や爆発物が仕掛けられている可能性は?」
「ゼロです。安心してお食べください」
俺が宥めると、裕里子は警戒しながらパンケーキを口に運んだ。
そして、ふわりと目を丸くした。
「……美味しい。なにこれ、雲を食べてるみたい」
「でしょ? たまにはこういう普通の休日もいいもんですよ」
少しだけ、彼女が「年相応の女性」に見えた瞬間だった。
その後、俺たちは映画館でハリウッドのアクション映画を観た。
上映後、裕里子の感想はこうだった。
「主人公のCQC(近接格闘術)の型が古いわね。あの脇の甘さなら、私なら開始3分で頸動脈を刈り取ってるわ」
「……映画ですから」
やっぱり、この人が「普通」になるのは無理かもしれない。
俺は苦笑いしながら、夕暮れの街を歩く彼女の背中を見つめた。
だが、こんな穏やかな休日は、嵐の前の静けさに過ぎなかった。
その夜、緊急の依頼が入った。
依頼人は、悪徳人材派遣会社『グロース・マンパワー』に登録している派遣労働者の青年だった。
違法なピンハネ、タコ部屋のような劣悪な寮での共同生活、そして「辞めれば違約金を請求する」という脅迫。
さらに、先日の半グレ襲撃事件の黒幕である「謎のコンサルタント会社」が、この派遣会社にも資金と「知恵」を提供しているという情報が、アストリッドの調査で判明したのだ。
「敵の尻尾が見えたわね。……今夜0時、社長室に突入して、退職の承諾と裏の情報を全て吐かせるわ」
裕里子の目は、昼間の「清楚なOL」から、冷徹な「エージェント」へと戻っていた。
深夜0時00分。
港区にある『グロース・マンパワー』の入るオフィスビル。
裕里子は単身、ビルの外壁をワイヤーでよじ登り、社長室のある8階の窓から音もなく侵入した。
俺とアストリッドは、ビルの裏路地に停めたハイエースの車内で、モニター越しに作戦の推移を見守っていた。
『潜入成功。ターゲットは……社長室にいるわ』
インカムから裕里子の声が聞こえる。
アストリッドのPCモニターには、裕里子の胸元に仕込まれたカメラの映像が映し出されている。
社長室のデスクには、恰腹の良い社長が座っていた。
「こんばんは、社長さん。……深夜の退職代行のお時間よ」
裕里子がダマスカス鋼の退職届を片手に、冷たく言い放つ。
通常なら、ここで社長が腰を抜かして悲鳴を上げるはずだ。
だが、モニター越しの社長は、薄気味悪い笑みを浮かべていた。
「ほう。お前が例の『退職代行屋』か。コンサルタントの先生が言っていた通り、本当に現れやがったな」
「……何?」
裕里子が警戒の色を強めた、その瞬間だった。
『ボス! 背後から熱源反応!』
アストリッドが悲鳴を上げた。
社長室の奥、暗い影の中から、一人の巨漢が姿を現したのだ。
身長は2メートル近くあるだろうか。全身を黒い戦闘服で覆い、両腕には鈍く光る鋼鉄製の分厚いガントレットを装備している。
「紹介しよう。先生が派遣してくれた『処理班』だ。お前のようなネズミを駆除するためにな」
社長が狂ったように笑う。
巨漢は一言も発さず、無機質な歩みで裕里子へと迫った。
「……力自慢の用心棒ってわけね。いいわ、準備運動にはちょうどいい」
裕里子が低く構え、瞬時に巨漢の懐へと飛び込んだ。
最速のCQC。彼女の放つ掌底が、巨漢の鳩尾を正確に捉える。並の人間なら内臓が破裂する一撃だ。
だが。
ドスッ、という鈍い音が響いただけで、巨漢は微動だにしなかった。
『……っ!?』
裕里子の息を呑む音がインカムから聞こえた。
巨漢が、丸太のような腕を無造作に振り抜く。
ガァン! という衝撃音と共に、カメラの映像が激しく揺れた。裕里子が吹き飛ばされ、社長室の壁に激突したのだ。
「ボス!!」
「サトル、マズいよ! あの男、ただの人間じゃない! 骨格か筋肉を薬物で異常強化してるか、あるいは装甲の中にアシスト機構が入ってる!」
アストリッドが青ざめた顔でキーボードを叩く。
モニターの中では、裕里子が壁から滑り落ち、苦しげに咳き込んでいた。
口の端から、一筋の血が流れている。
『……ふざけ、ないでよ』
裕里子はよろめきながらも立ち上がり、右手にダマスカス鋼の退職届を握り直した。
金属板の鋭い角を武器にし、再び巨漢へと突進する。
狙うは、装甲の隙間である頸動脈だ。
「沈めぇっ!」
裕里子が渾身の力で金属板を振り下ろす。
だが、巨漢はそれを躱そうともしなかった。
彼は鋼鉄のガントレットで覆われた左腕を上げ、ダマスカス鋼の刃を正面から受け止めたのだ。
ギィィィィンッ!
金属と金属が激突する、耳を劈くような絶叫。
次の瞬間、俺は自分の目を疑った。
巨漢が、受け止めた金属板を右手のガントレットで掴み、万力のような力で握り込んだのだ。
メキ……バキィィィンッ!!
あろうことか、あの頑強なダマスカス鋼の退職届が、中央から真っ二つにへし折られた。
破片が床に散らばる。
『嘘、でしょ……』
裕里子の絶望に満ちた声。
俺たちの「無敵の象徴」が、へし折られた。
隙を突かれ、巨漢の強烈な前蹴りが裕里子の腹部に突き刺さる。
「ゴフッ!」という悲鳴と共に、裕里子はデスクをなぎ倒して部屋の隅へと吹き飛ばされた。
カメラの映像がノイズに塗れ、彼女の荒い呼吸音だけが聞こえてくる。
「ハハハ! やれ! その女の息の根を止めろ!」
社長の醜悪な笑い声。
巨漢が、トドメを刺すために倒れた裕里子へとゆっくり歩み寄る。
「ボス! 起きて! 逃げて!」
アストリッドが叫ぶが、裕里子は動かない。おそらく肋骨を数本持っていかれている。
終わる。
俺を地獄から救い出してくれた最強のボスが、殺される。
「……サトル・サン! どうするの!?」
俺は、震える自分の両手を見た。
俺はただの事務員だ。家事手伝いだ。
戦闘力なんてゼロだ。
――でも。
あの夜、俺の地獄のオフィスに窓を割って飛び込んできてくれたのは、彼女だったじゃないか。
「……アストリッド、どいてくれ」
俺の口から出た声は、自分でも驚くほど冷たく、そして静かだった。
俺はアストリッドを押しのけ、ハイエースの運転席に飛び乗った。
「えっ!? サトル・サン!?」
「シートベルト、締めろ!」
俺はキーを回し、エンジンを咆哮させた。
ギアをドライブに入れ、アクセルを床までベタ踏みする。
ハイエースが、猛烈なスキール音を上げて急発進した。
「ちょ、どこ行くの!? ビルの壁だよ!?」
「知ってる!」
ターゲットは8階。
だが、このビルの構造なら、1階の搬入口から地下の貨物用大型エレベーターに直結しているはずだ。社畜時代、似たようなオフィスビルの図面を何度も引かされた経験が、俺の脳内で3Dマップを構築していた。
俺はハンドルを切り、ビルの裏側にあるシャッターが下りた搬入口へ向かって一直線に突進した。
ブレーキは踏まない。
「死ぬ死ぬ死ぬぅぅぅ!」
アストリッドの悲鳴と共に、ハイエースは鋼鉄のシャッターに激突した。
ガシャァァァァンッ!!
凄まじい衝撃と火花。シャッターを紙屑のように引き裂き、車はビルの1階へと乱入する。
「そのままエレベーターホールだ!」
俺はロビーを爆走し、荷物運搬用の巨大なカーエレベーターの扉に車体をぶち当てた。
扉が歪み、こじ開けられる。
運良くエレベーターの箱は1階に停まっていた。俺は車ごと箱の中に突っ込み、アストリッドに叫んだ。
「8階へ! システムをハックして強制上昇させろ!」
「ム、ムチャクチャだよ! ……でも、アイアイサー!」
アストリッドが半泣きになりながらキーボードを叩く。
ガクン、と大きな揺れと共に、エレベーターが通常の3倍近い速度で上昇を始めた。
8階、社長室。
巨漢が、裕里子の首を太い腕で締め上げ、持ち上げていた。
裕里子の顔は苦痛に歪み、意識が飛びかけている。
「……これで、終わりだ」
巨漢が初めて口を開き、ガントレットの拳を振り上げた瞬間。
社長室の壁が、爆発したように吹き飛んだ。
ドゴォォォォンッ!!
「な、なんだ!?」
粉塵とコンクリート片を撒き散らしながら、壁を突き破って現れたのは、フロントがボロボロにひしゃげた真っ黒なハイエースだった。
車は、裕里子を掴んでいた巨漢に向かって、容赦なく突進する。
「グォォッ!?」
さすがの巨漢も、重量2トンを超える鉄の塊の直撃には耐えられなかった。
ハイエースのボンネットに撥ね飛ばされ、社長の高級デスクごと窓ガラスに激突する。
裕里子の体が宙に放り出された。
俺は急ブレーキを踏み、サイドドアをスライドさせて叫んだ。
「裕里子さん! 乗って!!」
「サ、サトル……?」
血まみれの裕里子が、信じられないものを見るような目で俺を見た。
俺は運転席から身を乗り出し、彼女の腕を掴んで強引に車内へと引きずり込んだ。
「アストリッド、バックだ! そのままエレベーターに!」
「りょ、了解!」
アストリッドがギアをリバースに入れる。
ハイエースは、砂埃を上げながらエレベーターの箱へと後退し、そのまま一気に1階へと急降下していった。
閉まりゆく扉の隙間から、立ち上がろうとする巨漢と、絶叫する社長の姿が見えた。
アジトへの帰路。
ボロボロになったハイエースの車内は、重い沈黙に包まれていた。
後部座席で、裕里子は痛々しい呼吸を繰り返し、俺が応急処置で巻いた包帯を押さえていた。
「……ごめんなさい。完全に、私の油断よ」
裕里子が、絞り出すように呟いた。
退職代行の失敗。そして、初めての敗北。
「謝らないでください。生きていれば、いくらでもやり直せます」
俺はハンドルを握りながら、前だけを見て答えた。
折れたダマスカス鋼の退職届。
得体の知れない「コンサルタント会社」の影。
そして、あの化け物のような用心棒。
俺たちの敵は、単なるブラック企業ではなく、もっと巨大で、底知れない闇を抱えた組織に進化しようとしている。
平和な休日の「パンケーキ」の記憶が、遠い昔のことのように思えた。




