第17話 スパイVSスパイ?
週末の渋谷は、人、人、人で溢れかえっていた。
スクランブル交差点を渡る波のような群衆の中で、俺は、両手にカラフルなショッピングバッグをいくつも抱えて立ち尽くしていた。
「サトル先輩! 早く早く! 次のポップアップストア、限定アクスタが売り切れちゃう!」
人混みをかき分けてズンズン進んでいくのは、このチームの最年少・潜入担当の藤原冬美だ。
今日の彼女は、鮮やかな水色のオーバーサイズシャツに、白いプリーツスカート、厚底スニーカーという「天使界隈」と呼ばれるファッションらしい。ツインテールの髪が、歩くたびにぴょこぴょこと跳ねている。
「待って、冬美ちゃん! 俺、もう腕の感覚がないんだけど……!」
「男がそんなことでどうするん! ほら、タピオカ飲む? 糖分補給して!」
彼女は振り返り、飲みかけのタピオカミルクティーを俺の口に強引に押し込んできた。
甘い。そしてタピオカが喉に詰まりそうになる。
なぜ俺が休日に、一回り近く年の離れたギャルと渋谷で「デート」をしているのか。
事の発端は今朝、アジトのリビングでのことだった。
『サトル先輩、今日暇っしょ? ウチの買い物付き合って!』
『え? いや、今日はチビの爪切りと、帳簿の整理が……』
『くるみサーン! サトル先輩が経費の計算をごまかそうとしてまーす!』
『ちょっ、嘘つくな! 行く、行くから!』
というわけで、金庫番のくるみさんに目をつけられる恐怖から、俺は冬美ちゃんの荷物持ちとして渋谷に駆り出されたわけである。
「はぁ……。それにしても冬美ちゃん、体力あるなぁ」
「そりゃそうよ。ウチ、これでも元新体操部やし。それに、潜入捜査って立ちっぱなしのことが多いけん、体力勝負なんよ」
冬美ちゃんはクレープ屋の列に並びながら、ケロッとした顔で言った。
彼女の潜入スキルは本物だ。どんな職場にも「新人」として溶け込み、空気を読みながら情報を引き出す。その才能は、単なるコミュ力だけではない。
「……ねえ先輩。あそこのベンチに座っとるカップル、見てん」
突然、冬美ちゃんが声を潜めた。
彼女の視線の先には、オシャレなカフェのテラス席で談笑する男女がいた。
男性はスーツ姿、女性はきれいめなワンピース。ごく普通の、仲睦まじいカップルに見える。
「どうしたの? 普通のカップルじゃない?」
「ウチから見たら、あれは『パパ活』か、それに近いもんやね」
「えっ、なんで分かるの?」
「まず、男の方。スーツのシワの入り方と靴のくたびれ具合からして、そんなに金持ちやない。でも、腕につけとる時計は高級ブランド。たぶん、見栄っ張りの営業マン。で、女の方」
冬美ちゃんは、チュパッとタピオカを吸い込みながら続けた。
「女のバッグは限定モデルのハイブランドやけど、靴は安い量販店のやつ。目線は男の顔やなくて、男の財布が入っとる内ポケットをチラチラ見とる。……あの笑顔は、完全に『営業用』の作り笑いやね。潜入中のウチと全く同じ顔や」
俺は息を呑んだ。
ただのギャルだと思っていた彼女の観察眼は、恐ろしいほど鋭かった。服装のわずかな矛盾、視線の動きから、一瞬で相手の背景をプロファイリングしている。
「人間って、嘘をつく時はどこかに必ずボロが出るんよ。それをいかに早く見抜くかが、潜入のプロの仕事やけんね」
冬美ちゃんは俺を見上げて、ニシシと悪戯っぽく笑った。
「だから、先輩がウチに『唐揚げの残り、全部食べた?』って聞いた時、『チビが食べたみたい』って嘘ついたのも、ウチにはお見通しやったよ」
「……それ、嘘ついたの冬美ちゃんの方だよね?」
彼女の才能は素晴らしいが、使うベクトルが時々おかしい。
俺はため息をつきながら、彼女のクレープ代を支払った。
夕方。
荷物の山と共にアジトに帰還すると、応接室にはすでに「お客様」が来ていた。
裕里子と由希さんが対応している。
「おかえりなさい、遠藤くん、冬美ちゃん。……ちょうど今、依頼人のお話を聞いていたところよ」
由希さんがグラスを片手に振り返る。
ソファに座っていたのは、30代半ばの男性だった。名前は高橋さん。中堅の化学素材メーカー『サンライズ・マテリアル』の開発部で働いているという。
高橋さんの顔は青白く、まるで幽霊のように覇気がなかった。
「……もう、どうすればいいか分かりません」
高橋さんは、テーブルに置かれた一枚の書類を見つめて震えていた。
それは、『懲戒解雇通知書』および『損害賠償請求の予告』だった。
「会社を、辞めようと思ったんです」
高橋さんはポツリポツリと語り始めた。
「毎月100時間を超えるサービス残業。上司である佐々木部長からの、日常的なモラハラと手柄の横取り。心療内科でうつ病の診断も出て……退職願を出しました」
ここまでは、よくあるブラック企業からの退職トラブルだ。
だが、問題はその先だった。
「退職願を出した翌日……佐々木部長に呼び出されて、言われたんです。『お前、うちの新素材のデータを競合他社に横流ししてるだろ』って」
「データの横流し?」
「はい。社内のサーバーから、私のIDで機密データが外部に送信されたログがある、と。……もちろん、私は何もしていません! でも、部長は『辞めるなら警察に突き出す。懲戒解雇にして、会社が被った損害を全額お前に請求する』って……」
濡れ衣だ。
辞めさせないために、あるいは辞めた後の口封じのために、産業スパイの汚名を着せて脅迫しているのだ。
「……卑劣な手ね。でも、ログが残っているなら、会社側はそれを証拠として訴えてくる可能性があるわ」
由希さんが眉をひそめる。
「高橋さん。本当に、データを送った覚えはないのですね?」
「絶対にありません! そのデータが送信されたという昨日の夜8時……私は、部長の命令で得意先まで書類を届けに外回りをしていました! 会社にはいなかったんです!」
「なるほど。アリバイはある、と」
裕里子が腕を組み、不敵な笑みを浮かべた。
「面白いじゃない。ただのパワハラ上司かと思ったら、随分と手の込んだ嫌がらせをするのね。……アス、出番よ」
「アイアイサー! お仕事のお時間だよん!」
部屋の隅でゲームをしていたアストリッドが、ノートPCを開いた。
彼女の指がキーボードを凄まじい速度で叩き始める。
「『サンライズ・マテリアル』のサーバーに侵入……ファイアウォール突破。うわ、セキュリティ古っ。……ビンゴ。高橋サンの言う通り、昨日の夜8時に彼のIDからデータが外部サーバーに転送されてるね」
「送信先は分かる?」
「ダミーサーバーを経由してるから一発じゃ無理だけど……少し追跡してみる。……あ、見つけた。送信先の最終IPアドレスは、海外の素材メーカー『オメガ・ケミカル』のフロント企業だ」
本物の産業スパイ事案だ。
高橋さんのIDを使ってデータを盗み出し、海外企業に売り飛ばしている真犯人が社内にいる。
「……サトル先輩」
俺の隣で、冬美ちゃんが小声で囁いた。
「これ、真犯人って絶対あの『佐々木部長』やない?」
「え?」
「だって、高橋さんを外回りに生かせたのは部長でしょ? その間に高橋さんのPCを操作できるのも、部下のパスワードを知っとるのも、部長クラスなら簡単やん。自分がデータ売って儲けといて、辞めようとした高橋さんに罪を被せてトカゲの尻尾切りにしようとしとるんよ」
冬美ちゃんの推理に、俺は鳥肌が立った。
昼間の人間観察力といい、彼女の「悪意の嗅覚」は異常だ。
「……私も冬美の意見に賛成よ」
裕里子が立ち上がった。
その目には、獲物を狩るプレデターの光が宿っていた。
「相手がスパイごっこをしているなら、こちらは『本物のプロ』を出してあげるわ。……陽子、準備して」
「オーケー、ボス! 最高の舞台を用意するわ!」
ソファの奥から、真っ赤なドレスを着た陽子さんが立ち上がり、ウインクをした。
コンフィデンスウーマンの出番だ。
翌日。
『サンライズ・マテリアル』の佐々木部長の元に、一本の電話が入った。
『ハロー、ミスター・ササキ。私はキャサリン・ミウラ。……貴方が「オメガ・ケミカル」に流している新素材のデータ、とても興味深いわ』
「な、何者だお前は!?」
『落ち着いて。私はヨーロッパのバイヤーよ。オメガが提示した金額の……そうね、三倍の価格で、そのデータの完全版を買い取りたいの。今夜、直接取引をしましょう』
アストリッドのハッキングで佐々木の裏の連絡先を入手し、陽子さんが仕掛けた罠だ。
欲深い佐々木は、この「三倍の価格」という言葉にまんまと食いついた。
深夜23時。
取引場所に指定されたのは、東京湾岸にある使われていない古い地下駐車場だった。
薄暗い蛍光灯の下、佐々木がアタッシュケースを抱えて立っている。その周囲には、護衛として雇ったらしい柄の悪い男たちが数人、周囲を警戒していた。
カツン、カツン……。
闇の中から、ピンヒールの音が響く。
現れたのは、漆黒のトレンチコートを纏い、大きなサングラスをかけた陽子さんだ。
その背後には、ボディーガードを装った俺が、ジュラルミンケース(中身は空だ)を持って控えている。
「あなたがキャサリンか? 金は持ってきたんだろうな」
佐々木が警戒しながら問いかける。
「ええ、もちろん。そのアタッシュケースの中身が『本物』ならね」
陽子さんは妖艶に微笑み、佐々木に近づいた。
佐々木はアタッシュケースを開け、中にノートPCとUSBメモリが入っているのを見せた。
「これが高橋のPCから抜き出した最終データだ。パスワードも解除してある」
「……ふふっ。高橋さんのIDを使って盗み出したってわけね。ご苦労なこと」
「フン、あいつは都合のいい生贄だ。おとなしく俺の手駒として働いていればよかったものを、辞めるなんて言い出すから罪を被ってもらうことになった。自業自得さ」
佐々木が醜悪な笑みを浮かべた、その瞬間。
『……言質、取れましたね。録音バッチリです』
誰もいないはずの駐車場の柱の陰から、ひょっこりと顔を出したのは、清掃員の服を着た冬美ちゃんだった。
彼女の手には、おなじみのボイスレコーダーが握られている。
「なっ!? なんだお前は!?」
「ただの通りすがりの清掃員ですー。あ、これ、警察と会社の監査部にもうデータ送っちゃいました」
冬美ちゃんがスマホを振って見せる。
佐々木の顔色が一気に青ざめた。
「罠か……! おい、そいつらを捕まえろ! 殺しても構わん!」
佐々木が叫び、護衛の男たちがナイフや鉄パイプを抜いて、俺たちに飛びかかってこようとした。
だが、彼らの足は、一歩も前に進まなかった。
「……動くな。動けば、眉間をぶち抜くわよ」
いつの間にか、男たちの背後の暗闇に、黒いレザージャケットの女――青木裕里子が立っていた。
その手には、黒光りする重厚な拳銃……ではなく、スタンガンが握られている。
「な、誰だテメェ!」
「本物のスパイの動きを、教えてあげるわ」
裕里子の姿がブレた。
バチバチッ! という青白い放電の音と共に、男たちの悲鳴が響く。
打撃、関節技、そして電撃。裕里子の流れるようなCQC(近接格闘術)の前に、護衛の男たちはわずか十数秒で床に転がり、白目を剥いて痙攣していた。
「ひっ……ひぃぃぃっ!」
佐々木は腰を抜かし、その場にへたり込んだ。
「さて、取引の続きをしましょうか」
裕里子はスタンガンのスイッチを切り、佐々木を見下ろした。
その後ろから、顧問弁護士の由希さんが、書類の束を持って現れた。
「佐々木部長。当職は高橋氏の代理人弁護士です。貴方の行った行為は、業務上横領、不正競争防止法違反、そして高橋氏に対する脅迫罪および名誉毀損に該当します」
「あ、あわわわ……」
「すべてを自白する念書にサインし、高橋氏の退職を無条件で認めるなら、警察への告発は『明日の朝』まで待ってあげてもいいわよ。……逃げる準備をする時間は必要でしょう?」
由希さんの冷徹な宣告に、佐々木は泣き叫びながら念書にサインをした。
そして、裕里子が佐々木の目の前に、ダマスカス鋼の退職届を突き刺した。
ガァン! という金属音が、地下駐車場に反響する。
「高橋の退職、確かに受理されたわ」
翌日の夜。
アジトのダイニングには、平和な空気が戻っていた。
佐々木は翌朝、警察に自首したらしい。海外への逃亡を図ろうとしたが、アストリッドが彼のパスポート情報をハッキングして航空券の予約をブロックしていたため、観念したのだ。
高橋さんの疑いは晴れ、無事に退職が成立した。
「サトル先輩! 唐揚げのおかわり!」
「はいはい、今揚がったところだよ」
俺はキッチンから、山盛りの唐揚げを運んだ。
冬美ちゃんは満面の笑みで唐揚げを頬張っている。
「ん〜! サトル先輩の唐揚げ、やっぱ世界一やね!」
「お世辞はいいよ。……でも、今回は冬美ちゃんの観察力に助けられたな。ありがとう」
「ふふん。ウチの才能に惚れた? また休みの日は、ウチの買い物デートに付き合っていいよ!」
ウインクする冬美ちゃんに、俺は苦笑した。
「買い物はいいけど、俺の財布をアテにするのはやめてくれよ」
「えー、ケチー!」
騒がしい食卓。
足元では、チビが「俺にもよこせ」と鳴いている。
スパイVSスパイの危険な戦いも、終わってしまえばただの日常のスパイスだ。
俺たちの退職代行は、まだまだ終わらない。




