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社畜の俺、伝説の元スパイと「深夜0時の退職代行」始めます。~ブラック企業からヤクザの組まで、物理と法律で「円満退社」させます~  作者: 伊達ジン
【第2章】 多様化する「辞められない」理由

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第16話 先生、学校を辞めさせて

 休日の午後。

 俺は、都内の高級ホテルにある展望ラウンジで、最高級のダージリンティーを前に冷や汗を流していた。


「……遠藤くん。そんなに緊張しなくてもいいのよ? 取って食ったりしないから」


 対面に座る女性――藤井くるみが、ふんわりとした聖母のような微笑みを浮かべた。

 今日の彼女は、淡いラベンダー色のワンピースに身を包み、大人の女性の魅力と上品さを完璧に体現している。周囲の男性客が、チラチラとこちらに羨望の眼差しを向けているのが分かった。


 だが、俺の心境は「蛇に睨まれたカエル」だ。

 この組織「ミッドナイト・エグジット」の金庫番にして、相手を精神的に追い詰めるプロファイラーである彼女に、「休日は空いているかしら? 少しエスコートしてちょうだい」と誘われた時は、何か重大なミスをして処刑されるのかと思った。


「あ、いや……くるみさんと二人で出かけるなんて初めてなので。俺、何か経理上のミスでもしましたか?」

「ふふ、仕事の話じゃないわ。たまには息抜きも必要でしょう?」


 くるみは優雅にティーカップを傾け、窓の外の景色に視線を移した。


「私、人間観察が好きなの。……ほら、あそこの窓際のカップル。男性の方はやたらと腕時計を気にしているし、女性の方はブランド物のバッグをわざとらしくテーブルに置いている。あれは不倫のデートね。男性には家庭があって、早く帰りたいと思っているわ」


 彼女の視線は、瞬時に他人の隠し事を暴き出す。

 恐ろしい。この人と付き合う男は、絶対に嘘がつけないだろう。


「……あの、なんで俺を誘ったんですか?」

「そうね」


 くるみは俺の方に向き直り、悪戯っぽく瞳を細めた。


「遠藤くんは、嘘がつけないから。……何を考えているか顔に全部出ているし、裏表がない。私みたいに他人の裏側ばかり見て生きてきた人間にとっては、貴方と一緒にいると、すごく心が休まるのよ」

「それって……」

「そうね、理想の『旦那様候補』かしら。家事も完璧だし」


 俺の心臓がドキンと跳ねる。

 からかわれているのか、本気なのか。くるみの底知れない笑顔からは、真意を読み取ることができない。

 俺が返答に窮していると、不意に俺のスマートフォンが震えた。


「……すみません、アストリッドからです」

「いいわよ。出なさい」


 電話に出ると、アストリッドの弾んだ声が響いた。


『サトル・サン! デート中ごめんね! 急患だよん! すぐアジトに戻ってきて!』


 俺はほっとしたような、少し残念なような複雑な気持ちで、くるみを見た。


「仕事、入ったみたいです」

「ふふ。残念ね。……でも、仕方ないわ。帰りましょうか、遠藤くん」


 アジトの応接室。

 そこに座っていたのは、ひどく痩せ細った20代前半の女性だった。

 名前は小林春奈。都内の公立小学校で働く、新任の教員だという。

 彼女の目には生気がなく、手首には自傷行為を隠すようなリストバンドが巻かれていた。


「……もう、限界なんです」


 小林先生は、絞り出すような声で語り始めた。


「朝は7時に出勤して、夜は21時まで事務作業や翌日の授業準備。土日は地域の行事や部活の引率で休みなし。残業代なんて、教員には出ませんから……」

「典型的な『やりがい搾取』ね。公立学校の教員は給特法で残業代が支払われない。完全なブラック労働の温床よ」


 由希が書類を見ながら冷ややかに指摘する。

 だが、小林先生をここまで追い詰めている原因は、労働時間だけではなかった。


「一番つらいのは……保護者からのクレームです。特に、PTA役員をやっている相沢さんという方の……」

「モンスターペアレント、というやつですか」


 俺が相槌を打つと、彼女は震える手でスマートフォンを取り出し、画面を見せた。

 そこには、深夜や早朝を問わず送られてくる長文のメッセージ履歴があった。


『うちの子がリレーの選手に選ばれないのはエコヒイキではないか』

『給食の味が薄くて子供が可哀想。あなたが味見して調整しろ』

『昨日の授業でうちの子を叱ったそうだが、精神的苦痛で訴える』


 狂っている。

 こんな理不尽な要求を毎日突きつけられたら、誰だって心が壊れてしまう。


「校長先生に相談して、退職願を出しました。でも……『途中で担任を投げ出すなんて無責任だ』『子供たちの気持ちを考えろ』と突き返されて……。相沢さんからは『辞めるなら教育委員会に訴えて、慰謝料を請求する』と脅されています」


 小林先生は顔を覆い、嗚咽を漏らした。

 子供たちのために教師になった若者が、大人の悪意によって潰されていく。

 俺の中の怒りが沸点に達しようとした時。


「……許せませんね」


 隣に座っていたくるみが、スッと立ち上がった。

 その顔にはいつもの「聖母の微笑み」が浮かんでいるが、瞳の奥には絶対零度の怒りが渦巻いている。


「教育という大義名分を盾にして、弱い立場の人間に全てを押し付ける。そして、自分の家庭のストレスを他人にぶつけるだけの哀れな母親。……私が、少し『教育』して差し上げましょうか」


 くるみは由希と裕里子を振り返った。


「明日の夕方、小林先生のクラスで緊急保護者会が開かれるそうね。……私が乗り込むわ」


 翌日、午後5時。

 放課後の静まり返った小学校の教室には、異様な熱気がこもっていた。

 集まったのは十数人の保護者たち。その中心で腕を組み、ふんぞり返っているのが、問題のボスママ・相沢だ。ブランド物のバッグを机に置き、派手なメイクで威圧感を放っている。

 教室の前に立たされている小林先生は、今にも倒れそうだった。


「だーかーらー! 小林先生の指導力不足が問題だって言ってるのよ! うちのタカシが学校に行きたくないって泣いてるのよ!? どう責任とってくれるわけ!?」


 相沢のヒステリックな声が響く。周囲の親たちは、相沢に同調するか、あるいは目を伏せて関わり合いになるのを避けていた。


 ガラッ。

 教室の後ろのドアが開き、ピンヒールの音が響いた。


「……失礼いたします。少し遅れてしまいましたわ」


 現れたのは、グレーのシックなスーツを着こなし、知的な眼鏡をかけた藤井くるみだった。

 俺は「助手」として、ノートパソコンと資料を抱えてその後ろに続く。


「な、なんだアンタたちは! ここは保護者会よ!」

「申し訳ありません。私、教育委員会の要請で参りました、外部メンタルケア・コンサルタントの藤井と申します」


 もちろん嘘だ。アストリッドが偽造した完璧な身分証を、くるみは優雅に提示した。


「小林先生のクラスで、保護者の方々が『大変なご苦労』をされていると伺いまして。問題解決のお手伝いをしに参りましたの」


 くるみの言葉に、相沢は得意げに鼻を鳴らした。


「教育委員会? ちょうどいいわ! このポンコツ教師の実態を報告してちょうだい! 私たち親の正当な意見をクレーマー扱いするのよ!」

「ええ、ええ。よく分かりますわ。子供を思う親の愛情は、時として激しくなってしまうものですものね」


 くるみは微笑みながら相沢に近づき、教卓の前に立った。


「ところで、相沢様。貴女のご子息、タカシくんが学校に行きたくないとおっしゃっているとのことですが……本当に、先生の指導力が原因でしょうか?」

「はぁ!? 当たり前でしょ!」

「……そうですか。私の手元には、少し違うデータがあるのですが」


 くるみは俺に目配せをした。

 俺はプロジェクターを操作し、黒板のスクリーンに画像を映し出した。


 それは、匿名のアカウントで投稿されたSNSの画面だった。


 『今日も旦那は朝帰り。マジで使えないATM』

 『息子のタカシ、テストの点が悪すぎてイライラする。もっと優秀な遺伝子が欲しかった』

 『担任の小林、若くてチヤホヤされててムカつくから、明日もクレーム入れてやるw』


 教室が、水を打ったように静まり返った。

 相沢の顔面から、一気に血の気が引く。


「な……な、ななな……」

「私どもの専門の調査チームにかかれば、貴女の裏アカウントの特定など、造作もないことでしたわ」


 くるみは、冷たい、氷のような声で宣告した。


「相沢様。貴女は、子供の教育を心配しているわけではない。ご自身の家庭内の不和、ご主人への不満、そして満たされない承認欲求。……それらのストレスを、反撃してこない『若い女性教師』にぶつけて、憂さ晴らしをしていただけでしょう?」


「ち、違う! それは……!」

「タカシくんが学校に行きたくないのは、先生のせいではありません。毎日ヒステリックに怒鳴り散らし、自分を『優秀な遺伝子じゃない』と蔑むお母様から、逃げ出したいだけなのではありませんか?」


 くるみの言葉は、鋭いメスのように相沢の精神を解体していく。

 反論の余地を与えない。論理的で、残酷なまでの「真実のプロファイリング」。


「子供は、親の鏡です。貴女のその歪んだ承認欲求と八つ当たりが、子供の心をどれほど傷つけているか……教育を語る前に、ご自身の足元を見つめ直すべきではありませんこと?」


 周囲の保護者たちから、相沢へ向けられる視線が「同調」から「軽蔑」へと変わっていくのが分かった。

 完全に、相沢の居場所はなくなった。


「う……うぁぁぁっ……!」


 相沢は顔を真っ赤にし、バッグを掴むと、泣き叫びながら教室から逃げ出した。

 残された保護者たちも、気まずそうに目を伏せ、一人、また一人と無言で帰っていく。

 あっという間に、教室には俺たちと小林先生だけになった。


「……あの」


 小林先生が、呆然とした顔でくるみを見た。


「ふふ。これで、外堀は埋まりましたわ」


 くるみは眼鏡を外し、いつもの聖母の微笑みに戻った。


「あとは、腐った頭を切り落とすだけね。……深夜0時をお楽しみに」


 深夜0時00分。

 小学校の校長室。

 保身の塊である初老の校長は、机の上の書類を見ながらため息をついていた。

 夕方の保護者会での騒動は、すでに彼の耳にも入っていた。


「まったく……小林の奴、余計なトラブルを起こしおって。教育委員会にバレる前に、なんとか揉み消さねば……」


 その時。

 ガシャァァァン!!

 校長室の窓ガラスが派手に砕け散り、黒いレザージャケットの影が飛び込んできた。


「ヒッ!?」


 ガラス片を踏み躙りながら現れたのは、ミッドナイト・エグジットの実行部隊長・青木裕里子だった。


「深夜0時。……放課後の補習のお時間よ、校長先生」


 裕里子は校長の胸ぐらを掴み上げると、ダマスカス鋼の退職届を、校長室の立派なマホガニーのデスクに全力で突き刺した。

 ズガンッ!


「小林春奈の退職届。今すぐ受理しなさい」

「な、なんだ貴様は! 警察を――」

「呼べばいいわ。ついでに、これも警察に見てもらいましょうか」


 続いてドアから入ってきた由希が、分厚いファイルを見せつけた。


「当職は小林氏の代理人弁護士です。貴校における『教員の時間外労働に関するタイムカード改ざん』および『安全配慮義務違反』の証拠一式です。……教員の代わりはいくらでもいるとお考えでしょうが、壊された彼女の人生の代わりはないんですよ」


 由希の冷徹な言葉と、裕里子の物理的威圧。

 校長は完全に腰を抜かし、ガタガタと震えながら「じゅ、受理します……!」と叫んだ。


 数日後。

 アジトのリビングで、俺はチビを膝に乗せながら、平和なティータイムを迎えていた。

 小林先生は無事に退職し、実家でゆっくりと心と体を休めているという。

 相沢というモンペのボスは、あの日の録音データとSNSの裏垢が保護者間に広まり、完全に村八分状態になって大人しくなったらしい。


「お疲れ様、遠藤くん」


 良い香りのする紅茶が、俺の前に置かれた。

 くるみさんだった。


「あ、ありがとうございます」

「今回は、貴方が隣にいてくれたから、私も少し強気に出られたわ。……助手としての働き、完璧だったわよ」


 彼女はふわりと微笑み、俺の隣に座った。

 ふわりと、ラベンダーの香りが鼻をくすぐる。


「……あの、くるみさん」

「なぁに?」

「あの日のホテルのラウンジでの話……『理想の旦那様候補』って、あれ、やっぱり冗談ですよね?」


 俺が恐る恐る尋ねると、くるみはティーカップを置き、じっと俺の目を見た。

 その瞳の奥には、すべてを見透かすプロファイラーの光ではなく、一人の女性としての柔らかな熱が宿っていた……ような気がした。


「さあ、どうかしら。……嘘がつけない貴方には、一生分からないかもしれないわね」


 彼女は悪戯っぽくウィンクすると、「さて、経費の計算をしましょうか」と立ち上がった。


 底知れない人だ。

 でも、彼女のその強さと賢さが、理不尽に虐げられている人たちを救う最強の盾になっていることは間違いない。


「……はい、やりますよ。総務部長ですから」


 俺は苦笑しながら、山積みの領収書に手を伸ばした。

 俺たちの退職代行は、まだまだ終わらない。

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