第15話 遠藤悟の休日
限界集落での大立ち回りから数日が経ち、アジトである洋館には束の間の平和が訪れていた。
この日は、俺の「休日」だ。
もっとも、休日といっても、一週間分の食材や日用品の買い出しという立派な業務がある。前回の休日は買い出し中に由希さんに遭遇し、銀座の赤提灯で昼飲みにつき合わされるというハプニングがあった。あれはあれで楽しかったが、今日は誰にも邪魔されず、スーパーの特売日を存分に攻略したいところだ。
「サトルー、いってらっしゃーい! 私のおやつのグミ、忘れないでねー!」
「はいはい。裕里子さん、何か買ってきてほしいものは?」
「そうね……弾切れの閃光手榴弾かしら」
「スーパーには売ってません」
俺はリビングでくつろぐ面々に手を振り、エコバッグを片手にアジトを出た。
足元では、緑色の唐草模様の首輪をつけた黒猫のチビが「ミャウ」と鳴いて見送ってくれた。癒やされる。
初夏の日差しが心地よい。
俺は最寄りの大型スーパーではなく、少し足を伸ばして上野のアメ横方面へと向かっていた。今日の目的は、特売の野菜と、アジトのスパイス類の補充だ。この組織のメンバーは多国籍かつ変人揃いなので、香辛料の消費量が異常なのだ。
雑多な人々が行き交うアメ横の高架下。
香ばしい焼き鳥の匂いや、乾物屋の独特な香りが漂う中を歩いていると、ふと、視界の端に見覚えのあるプラチナブロンドの髪が飛び込んできた。
「……ん?」
思わず足を止める。
エスニックな食材やスパイスを扱う、少し薄暗い専門店の店頭。
そこに立っていたのは、パンクロックのバンドTシャツに、タイトな黒のレザーパンツという、まるで海外のロックスターのような出で立ちの女性だった。
その鋭く冷ややかなブルーアイズ。間違いない。
「グレタさん?」
声をかけると、彼女は品定めの手を止め、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「あら。サトルじゃない」
いつもの白衣姿ではない、完全な私服モードのグレタ・ヴァイスだった。
彼女の周りだけ、まるでベルリンの裏路地のようなアンダーグラウンドな空気が漂っている。すれ違う通行人が、彼女の放つ冷たいオーラに気圧されて避けていくほどだ。
「奇遇ですね。グレタさんも買い出しですか?」
「ええ。ちょうどよかったわ、サトル。……荷物持ち、お願いするわね」
「やっぱりそうなるんですか」
俺が抗議する間もなく、グレタはレジにドンとカゴを置いた。
カゴの中身を見て、俺はギョッとした。
『キャロライナ・リーパーの粉末ボトル』が五本、『ブート・ジョロキアの乾燥ペースト』が三袋、その他にも見たことのない毒々しい色のスパイスが山のように積まれている。
「こ、これ、全部食べるんですか!?」
「食べるのもあるけど、半分は『業務用の試薬』の材料よ」
先日の居酒屋チェーンの社長に打った「自白剤」の主成分だ。俺は背筋が寒くなるのを感じた。
「お会計、一万二千円になります」
「払っておいて、サトル」
「俺のポケットマネーから!? これ経費で落ちますよね!?」
「くるみには『サトルのおやつ代』として申請しなさい。……さあ、次はハーブ専門店よ。行くわよ」
結局、俺はエコバッグとは別の巨大な紙袋を両手に抱え、グレタの後をゾロゾロとついていく羽目になった。
由希さんの時は昼飲みだったが、今回は完全なるパシリである。
その後も、グレタの買い出しは続いた。
上野から御徒町へと抜け、怪しげな薬草問屋で「マンドラゴラの根」に似た謎の植物を購入し、理化学用品店でビーカーとスポイトのセットを物色する。
傍から見れば、エキセントリックな外国人美女と、荷物を抱えて振り回される哀れな男の「デート」に見えなくもない。
「ふぅ……重い。グレタさん、そろそろ休憩しませんか?」
「そうね。私のカフェイン血中濃度も低下してきたわ」
俺たちは、路地裏にある静かな純喫茶に入った。
アンティーク調のランプが灯る、昭和レトロな雰囲気の店だ。
グレタはブラックコーヒーを、俺はアイスティーを注文した。
「ふう、生き返る……」
俺が冷たいアイスティーを喉に流し込んでいると、目の前のグレタは、運ばれてきた熱いブラックコーヒーに、先ほど買ったばかりの「キャロライナ・リーパーの粉末」を躊躇なく振りかけていた。
ドサッ、ドサッ。
コーヒーの表面が赤黒く染まり、湯気と共に催涙ガスのような刺激臭が漂い始める。
「ゴホッ! グ、グレタさん、それ罰ゲームですか!?」
「失礼ね。これは私の味覚中枢にカツを入れるためのスパイスよ。……いただくわ」
彼女は涼しい顔で、その毒物のような赤いコーヒーを啜った。
唇一つ震わせない。どうやら彼女の痛覚と味覚は完全にどうかしているらしい。
「……グレタさんって、本当に合理的というか、ブレないですよね」
俺が呆れ半分、感心半分で言うと、グレタはカップを置き、ブルーアイズで俺をじっと見つめた。
「そう? 私としては、ただ『正解』を選択しているだけよ。人間の身体は有機化合物の集合体。化学式と数値で全て証明できる。……それが私の生き方よ」
「でも、退職代行の仕事って、結構『感情』で動く部分が多くないですか? 裕里子さんも由希さんも、結局は依頼人の『心』を救うために無茶をしてる気がします」
俺の言葉に、グレタは窓の外へ視線を外した。
行き交う人々を、冷めた目で観察している。
「……私がなぜ、ドイツの医局を出て、こんな日本の裏社会で闇医者みたいな真似をしているか、知ってる?」
唐突な問いかけだった。
俺は首を振る。彼女の過去は、チームの中でもアストリッドくらいしか知らないはずだ。
「私、ドイツではそこそこのエリート外科医だったのよ。どんな難しいオペでも、データと確率に基づいて完璧に成功させたわ。……でも、ある時、医局長と衝突したの」
「衝突?」
「助かる見込みが3%しかない末期ガンの患者がいたの。データから見れば、手術は無駄。緩和ケアに移行して、残りのベッドを生存率の高い患者に回すべきだった」
グレタは淡々と語る。その声に感情の揺れはない。
「でも、その患者の家族は泣いて手術を懇願した。医局長は『家族の情』にほだされて、無意味なオペを強行しようとしたわ。……だから私、言ってやったの。『そんな非合理的な判断をするなら、あなたがメスを握る資格はない。患者をただの実験台にする気か』ってね」
グレタらしい、冷酷なまでの正論だ。
しかし、医療の現場では、正論だけが正解とは限らない。
「結果として、私は『患者の心に寄り添えない冷徹な機械』という烙印を押されて、医局を追放されたわ」
グレタは自嘲気味に口角を上げた。
「馬鹿らしいと思わない? 医学は科学よ。心なんていう、数値化できない不確定要素を治療に持ち込むなんて、三流のやることだわ」
「……だから、全てを合理的に解決する裕里子さんの組織に入ったんですか?」
「ええ。裕里子とくるみがドイツまで私をスカウトしに来たの。彼女たちは、私の技術だけを評価してくれた。余計な『情』は抜きでね。……ここは、私の化学式を邪魔する者がいない、最高の実験場よ」
グレタは赤いコーヒーを飲み干した。
彼女の横顔は、とても美しく、そしてどこまでも孤独に見えた。
「……でも」
俺は、アイスティーのグラスについた水滴を指でなぞりながら、ポツリと言った。
「たまには、バグが起きるのも悪くないんじゃないですか?」
「バグ?」
「ええ。俺みたいな、何の取り柄もない社畜が、爆発に巻き込まれて、グレタさんたちの仲間になったこととか」
俺は苦笑しながら、グレタを見た。
「あの夜、俺の退職は確率で言えばゼロでした。でも、裕里子さんたちが助けてくれた。……人間は有機化合物の集合体かもしれないけど、たまに計算式に合わない奇跡みたいなバグを起こすんですよ」
「……」
グレタは少しだけ目を見開き、俺の顔をまじまじと見つめた。
そして、ふっと小さく吹き出した。
「フッ……あははっ」
それは、いつも彼女が他人を小馬鹿にする時の冷たい笑いではなく、心底おかしそうに笑う、人間らしい笑い声だった。
「あんた、時々面白いことを言うのね。……ええ、確かにそうかも。あんたっていう最大の『バグ』がこの組織に入ってきてから、私の計算は狂いっぱなしよ」
「それ、褒めてます?」
「ええ。あんたの作るご飯だけは、私の味覚中枢の化学式を乱すから、合格点をあげてもいいわ」
グレタはそう言うと、バッグから小さなプラスチックのピルケースを取り出し、テーブルの上に置いた。
中には、怪しげな青いカプセルが数粒入っている。
「これ、今日の『荷物持ち』の報酬よ」
「えっ、何ですかこれ。怖いんですけど」
「私が特別に調合した、疲労回復サプリの試作品。市販の栄養ドリンクの百倍は効くわ。……ただし、副作用で三日くらい夜眠れなくなるかもしれないけど」
「絶対飲みませんよそんな危険物!」
俺が全力で拒否すると、グレタは意地悪そうに微笑んだ。
「冗談よ。ただのビタミン剤。……でも、飲まないと後悔するわよ。明日はまた、ボスの思いつきで激務になるかもしれないんだから」
確かに、裕里子のことだ。明日にはまた「カルト教団に殴り込むわよ」などと言い出しかねない。
俺は観念して、その青いカプセルをポケットにしまった。
「……ありがとうございます。グレタさん」
「どういたしまして。さあ、買い出しの続きよ。次は秋葉原のジャンク通りで、劇薬を入れる耐酸性のケースを探すわ」
「まだあるんですか!?」
グレタは軽やかな足取りで立ち上がり、喫茶店を後にした。
その後ろ姿は、いつもの気怠げなマッドサイエンティストではなく、休日を楽しむ一人の女性のように見えた。
両手に大荷物を抱え、急いで彼女の後を追う。
由希さんとの大人の昼飲みも良かったが、グレタさんに振り回される「激辛な休日」も、悪くない。
俺たちの絆は、こうして少しずつ、確かなものになっていくのだ。
……とはいえ、帰ったらチビを撫で回して、ボロボロになった自分の心を癒やさなければならない。
社畜の休日は、今日も休まる暇がない。




