第13話 限界集落の村八分(前編)
「ミャッ! ミャァ!」
アジトの広いリビングに、チビの元気な声が響いていた。
一昨日の「デート」でアストリッドが買ってきた、緑色の唐草模様の小さな首輪。それが今のチビのトレードマークだ。歩くたびに、首輪についた極小の鈴が「チリン」と可愛らしい音を立てる。
俺は、床に寝転がって「羽のついた猫じゃらし」をひらひらと動かしていた。
「ほーら、こっちだぞー」
チビは姿勢を低くし、お尻をフリフリと揺らして狙いを定める。そして、短い後脚で床を蹴って大ジャンプ――したつもりが、わずか数センチしか浮かず、見事に空振りしてコロンと床に転がった。
「ミャウゥ……」
悔しそうに前脚で顔を覆う仕草が、破壊的に愛くるしい。
俺は思わず吹き出し、チビの柔らかいお腹を指先でそっと撫でた。チビはすぐに機嫌を直し、「ゴロゴロゴロ……」と喉を鳴らしながら俺の指を甘噛みしてくる。
拾った当初は痩せっぽちだったが、最近はミルクをたっぷり飲んで、毛並みもビロードのようにツヤツヤになった。あの青みがかった大きな瞳で見つめられると、激務の疲労も、借金680万円の絶望も、一瞬だけ忘れさせてくれる。
「サトル。いつまで床に転がってる気?」
頭上から降ってきた氷のような声に、俺は弾かれたように起き上がった。
見上げると、黒いレザージャケットを羽織ったボス――青木裕里子が、腕を組んで俺を見下ろしていた。
「あ、おはようございます裕里子さん。チビの運動不足解消をですね……」
「言い訳はいいわ。すぐに出発の準備をしなさい。荷物は二泊三日分よ」
「えっ、出張ですか? まさか夜逃げ……?」
「馬鹿言わないで。……『慰安旅行』よ」
慰安旅行。
ブラック企業時代には縁のなかった言葉だ。いや、あったとしても、上司の酒の相手を強要されるだけの地獄の行事だった。
だが、この犯罪組織……もとい退職代行屋で慰安旅行?
「あの、費用は……まさか俺の借金に上乗せじゃ……」
「今回は『経費』で落ちるから安心して。交通費も宿泊費もタダよ」
リビングの奥から、聖母のような笑みを浮かべた藤井くるみが現れた。
彼女が「タダ」と言う時は、裏に何かある。俺の社畜センサーがビンビンと警鐘を鳴らしていた。
「……行き先はどこですか?」
「Y県の奥深くにある限界集落、『夜叉神村』よ」
「夜叉神村……名前からして物騒ですね」
「ええ。とっても物騒よ。だって、今回の『依頼人』がそこにいるんだもの」
くるみは手にしたバインダーを開き、一枚の写真を取り出した。
写っていたのは、田舎の風景を背景に、疲れ切った顔で立つ20代半ばの青年だった。
「木下誠さん。24歳。夜叉神村の村役場に勤める地方公務員よ」
そこへ、グラス片手に顧問弁護士の福田由希が合流してきた。
「地方公務員ってことは、民間企業じゃないんですね。なら辞めるのも簡単なんじゃ?」
「それが、そうもいかないのよ」
由希が溜め息をつきながら、書類をパラパラと捲る。
「彼、役場を辞めたいって村長に伝えたら、『辞めるなら村から出て行け。お前の実家の畑にも水を引かせないし、ゴミの収集もしない』って脅されたらしいわ」
「えっ? それって……」
「そう。現代の『村八分』よ」
俺は絶句した。
村八分なんて、昭和の時代やドラマの中だけの話だと思っていた。
「夜叉神村は、高齢化率が70%を超える完全な限界集落よ。村長の郷原という男が、村の土建屋から農協、さらには町内会まで全てを牛耳っているの」
くるみが淡々と説明を続ける。
「木下さんは役場職員だけど、休日は無給で村長の家の農作業を手伝わされ、夜は村の寄り合いで酒の買い出しから後片付けまで強制されているわ。残業代ゼロ、休日ゼロ。まさに『村の奴隷』ね」
「労働基準法も憲法も届かない、治外法権のムラ社会ってわけね。……反吐が出るわ」
由希がウイスキーを飲み干し、氷をガリッと噛んだ。
「で? 今回の作戦は?」
「簡単なことよ」
裕里子が不敵に笑い、拳を鳴らした。
「私たちが『東京から来た観光客』として村に入り込み、慰安旅行を満喫しながら、その腐った村の掟を内側からぶっ壊すの。……サトル、ハイエースのエンジンをかけなさい」
「ヒャッハー! 大自然の空気、最高ぉぉぉ!」
アストリッドがハイエースのハンドルを握りながら、奇声を上げて山道のカーブをドリフトで駆け抜ける。
タイヤが軋み、車体が大きく傾く。
「アス! 揺れる! 酔うから安全運転でお願い!」
「ノープロブレム! 私の北欧の風は山道でも最強だよん!」
後部座席で俺が悲鳴を上げる中、助手席の裕里子は涼しい顔で外の景色を眺めていた。
車内には、ミッドナイト・エグジットのメンバー全員が乗っている。
由希、くるみ、グレタ、そして潜入担当の冬美と、メディア工作担当の陽子だ。
「ねえサトルぅ、この村、電波入るの? 私のインスタのストーリー更新できないんだけどぉ」
真っ赤なリゾートドレスに巨大なつば広ハットを被った陽子が、スマホを振り回して文句を言う。
隣では、明るい茶髪にギャルメイクの冬美が「ウチも圏外やー。マジで限界集落やん」とポテトチップスをかじっていた。
この派手な女たちだけで、限界集落の平穏な空気など一瞬で破壊できそうだ。
「……電波塔のインフラ設備が老朽化してるのね。全く、日本の地方行政は終わってるわ」
白衣姿のグレタが、山林の植生を窓から観察しながら毒づく。
車が鬱蒼とした杉林を抜け、視界がパッと開けた。
そこには、すり鉢状の盆地に寄り添うように立ち並ぶ、古い木造家屋の群れがあった。
『歓迎・夜叉神村』と書かれた、錆びついた看板が見える。
「到着ね」
くるみの声と共に、ハイエースは村の入り口にある小さな広場に停車した。
俺たちが車を降りると、すぐに異様な空気に気がついた。
静かすぎる。
そして、視線だ。
広場の隅にあるベンチや、畑の脇、家の窓の隙間から、村の老人たちが一斉にこちらを見ていた。
敵意でも、歓迎でもない。まるで「異物」を見るような、ねっとりとした監視の目だ。
「うわ……なにこの空気。マジでホラー映画のオープニングやん」
冬美が腕をさすり、陽子の後ろに隠れる。
そんな村人たちの間を縫って、一人の小太りな初老の男が近づいてきた。
高そうなツイードのジャケットに、金時計。周囲の村人とは明らかに身なりが違う。その後ろには、荷物持ちのように大きなカバンを抱えた若い青年が、オドオドとついてきている。
「おや、これはこれは。東京からお越しのお客様かな?」
男は愛想笑いを浮かべながら、俺たちを値踏みするように見た。
特に、裕里子や陽子、由希といった美女たちを、ねっとりとした視線で舐め回す。
「私はこの夜叉神村の村長、郷原と申します。ようこそ、我らが誇る自然豊かな村へ」
この男が、ターゲットの郷原村長か。
そして、その後ろにいる青年こそが、依頼人の木下誠だった。木下の顔は写真で見るよりもさらにやつれ、目の下にはどす黒いクマができている。
「ええ、初めまして村長さん。私たち、東京のIT企業でして。今回は社員の慰安旅行で、こちらの自然を楽しみに来たんですの」
陽子が完璧な「セレブ社長」の演技で応対する。
「ほう、IT企業! それは素晴らしい。こんな寂れた村に、美しいお嬢さん方が来てくださるとは、村の男たちも喜びますよ。……おい、誠!」
郷原は突然振り返り、木下の足を軽く蹴り飛ばした。
「は、はいっ!」
「ボーッと突っ立ってないで、お客様の荷物を持たんか! 役場の給料分くらい、しっかり働け!」
「す、すみません……!」
木下は慌てて俺たちの元へ駆け寄り、ハイエースから荷物を取り出そうとする。
今日はおそらく日曜日のはずだ。役場は休みなのに、こうして村長の私兵としてこき使われているらしい。
「あ、いいですよ、俺が持ちますから」
俺が木下からカバンを受け取ろうとすると、彼はビクッと怯え、小声で囁いた。
「……ミッドナイト・エグジットの、方たちですか?」
「ええ。助けに来ましたよ」
俺も小声で返すと、木下の目にパッと希望の光が宿った。
だが、すぐに郷原の怒鳴り声が飛んできた。
「おい誠! お客様と何をコソコソ話しておる! 早く宿へご案内しろ! 終わったら俺の畑の草むしりがあるのを忘れとらんやろうな!」
「は、はいっ! すぐに行きます!」
木下はペコペコと頭を下げながら、俺たちを村の奥へと案内し始めた。
その光景を見て、裕里子が静かに舌打ちをした。
「……本当に、絵に描いたようなクズね。殴りがいがありそう」
裕里子の右手が、コートのポケットへと伸びる。
「待ちなさい、裕里子」
くるみがスッと裕里子の腕を掴み、その耳元で囁いた。
「いきなり暴力は三流の仕事よ。まずは、あの村長がどれだけ村の『法律』を私物化しているか、証拠を集めるの。彼が一番大切にしている『権力』を、根こそぎ奪い取ってやらなきゃ面白くないでしょう?」
くるみの笑顔は、郷原の愛想笑いよりも遥かに恐ろしかった。
「そうね……。まずは、この村の『掟』とやらを、たっぷり味わわせてもらおうじゃない」
裕里子は手を下ろし、不敵に笑った。
閉鎖された限界集落。
現代の法律が届かないこのムラ社会に、今、最凶の「退職代行屋」が足を踏み入れた。
村長がそれに気づき、後悔するまでのカウントダウンは、すでに始まっている。




