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社畜の俺、伝説の元スパイと「深夜0時の退職代行」始めます。~ブラック企業からヤクザの組まで、物理と法律で「円満退社」させます~  作者: 伊達ジン
【第2章】 多様化する「辞められない」理由

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第12話 白衣の悪魔と正義のメス

 深夜23時55分。

 帝都医科大学附属病院、最上階の院長室。

 昼間の喧騒が嘘のように静まり返った部屋で、毒島院長は脂汗を流しながらシュレッダーに紙の束を押し込んでいた。


「くそっ、あの生意気なドイツ女め……!」


 昼間、グレタに突きつけられた「診断」と、ボイスレコーダーによる脅し。

 毒島は自身の地位が危うくなっていることを悟り、焦っていた。彼が今処分しているのは、先週の医療ミスの「真のオペ記録」が記された手書きの裏ノートだ。

 電子カルテはすでに改ざん済みだが、自身の保身と備忘録のために残していたこのノートが見つかれば、一巻の終わりである。


「これを消し去れば、証拠は完全にゼロになる。あのオペナースの女は、明日付けで懲戒解雇にしてやる……!」


 最後のページをシュレッダーにかけようとした、その時。


 ジリリリリリリリッ!


 突如、院長室の火災報知器がけたたましく鳴り響いた。

 同時に、スプリンクラーが作動し、天井から猛烈な勢いで水が降り注ぐ。


「な、なんだ!? 火事か!?」


 毒島がパニックになりながら天井を見上げた瞬間。

 バァン! と重厚なドアが蹴り開けられた。


「深夜0時。……回診の時間よ、ヤブ医者」


 水浸しの院長室に悠然と足を踏み入れたのは、白衣の悪魔――グレタ・ヴァイスだった。

 その後ろには、びしょ濡れになりながらもアタッシュケースを抱えた俺、遠藤悟が控えている。


「き、貴様ら! こんな時間に何をしている!」

「火災報知器の誤作動、驚いた? うちの天才ハッカーが、この部屋のシステムだけをハックしてくれたのよ」


 グレタは冷たく笑うと、毒島の手から濡れたノートをひったくった。


「返せ! それは私の私物だ!」

「私物? ただの白紙のノートじゃない。……ああ、フリクションのインクを使っていたのね。ドライヤーで熱を加えて文字を消し、さらにシュレッダーにかけるつもりだったのかしら。悪知恵だけは回るみたいね」


 毒島の顔から血の気が引いた。

 その通りだったからだ。


「でも、甘いわ。熱で透明になったインクは、マイナス20度以下の冷却か、特定の化学薬品で簡単に復元できるのよ」


 グレタは白衣のポケットから、小型のスプレー缶を取り出した。


「私が特別に調合した『真実の顕影液』。……まあ、成分のほとんどはただの冷却スプレーと、紙の繊維にこびりついた微粒子を浮き上がらせる特殊な染料だけど」


 シューッ、とグレタが白紙のページにスプレーを吹きかける。

 数秒後。

 真っ白だった紙の上に、青黒い文字がじわじわと浮かび上がってきた。

 そこには、生々しい手書きの文字で『飲酒による手の震え』『縫合ミスにより動脈損傷』『石川に責任を転嫁するよう指示』という、隠蔽の事実が克明に記されていた。


「こ、これは……!」

「見事な自白調書ね。……サトル、撮影して」

「はいっ!」


 俺は即座にスマホを取り出し、復元されたノートのページを連写した。データはすぐにクラウド経由でアストリッドの元へ送られる。これで証拠保全は完璧だ。


「や、やめろォォォ!」


 全てを失う恐怖に駆られた毒島は、狂乱状態となってデスクの引き出しから医療用のメスを取り出した。


「お前らさえ……お前らさえいなければ! 私は神なのだ!」


 毒島はメスを振り回しながら、俺たちに向かって突進してきた……かに見えたが、彼はそのまま俺たちの脇をすり抜け、廊下へと逃亡した。


「……逃げたわね。サトル、追うわよ」

「はい!」


 俺たちは毒島の後を追い、深夜の病院を駆け抜けた。


 毒島が逃げ込んだのは、地下にある特別手術室だった。

 分厚いステンレスの自動ドアが閉まり、ロックがかかる。


「はぁ、はぁ……ここまで来れば……!」


 毒島が荒い息を吐きながら、手術台に手をついた。

 だが、無人のはずの手術室の奥から、ヒールの音が響いた。


「あら。ずいぶんと慌ててるわね、院長先生?」


 手術用の無影灯がパッと点灯する。

 眩い光の下、手術台の傍らに立っていたのは、黒いレザージャケットを着た女――青木裕里子だった。


「な、誰だ貴様は! ここは無菌室だぞ!」

「通りすがりの退職代行屋よ。無菌室ね……確かにそうかもしれないけど、あんたみたいな巨大なバイ菌が入り込んだら台無しだわ」


 裕里子はダマスカス鋼の金属板を片手に、ゆっくりと毒島に近づく。


「ひっ……く、来るな! 私を誰だと――」


 毒島がメスを構えるよりも早く。

 ヒュンッ!

 裕里子のハイキックが、毒島の顎を的確に捉えた。


「ガハッ……!?」


 巨体が宙を舞い、医療器具のワゴンに突っ込む。

 ガシャァァァン! と金属音を立てて器具が散乱した。


「あんたの病名は『傲慢』。そして『命への冒涜』よ。……荒療治が必要ね」


 裕里子は倒れた毒島の胸ぐらを掴み上げると、容赦なくその腹に拳を叩き込んだ。


「グェェェェッ!」

「物理的に『膿』を出してあげるわ」


 ドゴォ! バキィ!

 手術室に、鈍い打撃音と毒島の悲鳴が響き渡る。

 遅れて手術室に到着した俺とグレタは、ガラス越しにその惨状を眺めていた。


「……相変わらず、麻酔なしの乱暴なオペね」

「グレタさん、止めなくていいんですか?」

「死なない程度に急所は外してるわ。放置でいいわよ」


 数分後。

 完全に沈黙した毒島の顔の横に、裕里子が退職届を突き刺した。


「石川美咲の退職、確かに受理されたわ。……あと、これ」


 裕里子は、由希さんが作成した告発状の束を毒島の顔に叩きつけた。


「あんたの悪事は、明日の朝一番で厚生労働省と警察に届く手はずになってるわ。せいぜい、刑務所の中で自分の人生のカルテでも書き直すことね」


 毒島は白目を剥き、口から泡を吹いて気絶していた。

 こうして、白い巨塔に巣食う悪魔は、物理と化学の力によって完全に切除されたのだった。


 翌日。

 見事に晴れ渡った青空の下、俺はなぜか原宿の竹下通りにいた。


「ワオ! サトル・サン、あれ見て! 超カワイイ!」

「ちょ、待ってアストリッド! 引っ張るな!」


 俺の腕をぐいぐいと引っ張るのは、金髪をポニーテールに結んだアストリッドだ。

 今日の彼女は、ピンク色のオーバーサイズパーカーにショートパンツという、いかにも原宿にいそうなポップなファッションに身を包んでいる。

 対する俺は、いつものイタリア製スーツではなく、休日のためのシンプルなシャツとジーンズ姿だ。


 事の発端は今朝のこと。

 激務を終えて泥のように眠っていた俺の部屋に、アストリッドが突撃してきたのだ。


『サトル・サン! 今日は私とデートだよん!』

『デート!? いや、俺はまだ寝て……』

『ノープロブレム! ボスからは許可もらってるし、くるみサンからは「お小遣い」ももらったから!』


 有無を言わさずベッドから引きずり出され、気づけばここにいるというわけだ。


「はい、サトル・サン! クレープ! イチゴと生クリームたっぷりのやつ!」

「ありがとう。……でも、なんで俺とデートなんだ? 冬美ちゃんとか陽子さんを誘えばよかったのに」


 俺がクレープを受け取りながら尋ねると、アストリッドは目を丸くした。


「何言ってるの? フユミは今日バイトの面接だし、ヨウコは美容室。それに、サトル・サン、最近ずっとお疲れの顔してたから」

「俺が?」

「ウン。毎日おいしいご飯作ってくれて、ボスの無茶振りに応えて、チビの面倒も見て……。日本のシャチクは休むのが下手だから、私が強制的に休ませてあげようと思ったの!」


 彼女はクレープを頬張りながら、満面の笑みで言った。

 その真っ直ぐな優しさに、俺は少しだけ胸が熱くなった。


「……そっか。ありがとう、アストリッド」

「ユア・ウェルカム! さあ、次はあそこのネコ・ショップに行くよ!」


 アストリッドに連れられて入ったのは、猫用品を専門に扱う可愛らしい雑貨店だった。


「ニャオ! これ、チビに絶対似合う!」


 アストリッドが手に取ったのは、唐草模様の小さな首輪と、羽のついた猫じゃらしだった。


「確かに、最近チビも動き回るようになってきたから、おもちゃが必要だな。でも、これ俺の借金に上乗せされるんじゃ……」

「大丈夫! 今日は私が奢ってあげる! ハッカーの特別ボーナスが出たからね!」


 彼女は得意げに胸を張ると、大量の猫用おやつやおもちゃをレジカゴに放り込んでいった。

 破天荒で、常識知らずで、日本語も少しおかしい。

 でも、彼女の明るさは、この殺伐とした組織の中で確かな救いになっている。


「サトル・サン」


 買い物を終え、両手に紙袋を抱えた俺に、アストリッドが並んで歩きながら声をかけた。


「ん?」

「最初はね、ボスの気まぐれで拾ってきた『迷子のワンちゃん』だと思ってたの」

「俺のこと?」

「ウン。でも、サトル・サンはもう、ワンちゃんじゃない。私たちの立派な『ファミリー』だよ」


 アストリッドは立ち止まり、俺を見上げて最高の笑顔を見せた。


「だから、これからもよろしくね! お兄ちゃん!」


 お兄ちゃん。

 その響きに、俺は思わず照れくさくなって視線を逸らした。


「……ああ。よろしくな、アストリッド」


 俺たちは夕暮れの原宿を、並んで歩いた。

 手の中の紙袋には、チビのためのおもちゃと、アストリッドが買った大量のスイーツが入っている。

 帰ったら、また騒がしい夕食の時間が始まるだろう。

 裕里子の無茶な要求、くるみの鋭いツッコミ、グレタの毒舌。

 借金はまだまだ減らないし、明日の命も保証されていない。

 それでも、俺はこの「ファミリー」のことが、少しずつ好きになり始めていた。


 アジトの扉を開けると、「ミャ〜ゥ」とチビが走って出迎えてくれた。


「ただいま、チビ。お土産があるぞ」


 俺の小さな居場所。

 深夜0時の退職代行の裏側には、こんな温かい日常も、確かに存在しているのだった。

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