第八話 誰も知らない夜
◇
畑を上がって、そのまま西へ歩いた。柵の切れ目を抜けて、森の際へ出る。日はもう、森の上に落ちかけていた。
薪拾いも薬草採りも、明るいうちなら、この辺りまでは子供の仕事だ。
獣道の入口に、三日前に仕掛けた括り罠がある。
空だった。輪がわずかに崩れて、細い毛が二筋、絡んでいる。兎が一度かかって、外れた跡だ。結び目が甘い。ジンは腰を落として、輪を組み直した。
三日で、獲れたものは何もない。
罠とは、そういうものだ。仕掛けて、待って、外されて、直す。芽の出ない土を毎日見に行くのと、同じだった。
道を東へ回った。二つ目の獣道の脇に、古い跡がある。
朽ちた縄が、木の根元に半分埋まっている。すぐ横の若木に、削がれた跡。斜めに落とした刃の角度が、まだ残っている。少し離れた木にも、同じ削ぎがあった。その先にも、また一つ。
同じ形が、同じ間隔で、この道に並んでいた。
何年もかけて、同じ場所に、同じ手が仕掛け続けたのだ。
ジンは縄を拾い上げた。指の間で、ぼろりと崩れた。持ってきた新しい縄を、同じ木の、同じ高さに結んだ。削ぎの角度に合わせて、杭を打った。
それだけを、黙ってやった。
日が落ちきる前に、道の奥を見た。
三日、同じ刻に、同じ筋を一匹が通っている。ゴブリンだ。群れの影は見えない。右の脚を引きずっていて、歩幅が左右で揃わない。追われて外れたか、追い出されたか。どちらでもいい。
弱っていて、独りだ。
選ぶなら、これだった。
記憶の中の男は、勝てない相手を選ばなかった。
◇
家の灯が消えて、それからしばらく、天井を見ていた。
父の鼾が深くなった。妹の寝息が、それより浅く速い。母が一度寝返りを打って、それきり、家は静かになった。
ジンは寝床を出た。戸は、下から持ち上げるようにして開ける。そうすれば鳴らないことを、この半月で覚えていた。
外は、雲の薄い夜だった。月は半分ほど。あの夜に奪った直剣を背に負う。なまくらだが、砥石は当ててある。
大菩提樹の下で、百回振った。
体を起こすための百回だ。息が上がる前に、手を止める。
数を増やすのは、ここまでだ。
あとは、森で覚える。
柵の切れ目まで歩いて、そこで一度、足が止まった。
夜に、ここから外へ出るのは、初めてだった。
出た。
土の匂いが、昼と違っていた。冷えて、重く、低いところに溜まっている。
魔力を、目と耳に流す。濃く張ればすぐに切れる。細く、長く、糸のように。夜ごと繰り返してきた通りにやると、暗さの中に濃さの差が出た。木の幹と、幹の間の空き。輪郭が、遅れて起き上がってくる。
風は北から吹いていた。ジンは風下へ回り、獣道の脇の窪みに膝をつき待った。
雲が月を横切って、また離れた。遠くで犬が一度吠えて、やめた。
——来た。
音が先だった。枝を踏む音。次の一歩までが、わずかに長い。右を引きずる歩幅だ。日のあるうちに見た、あれだった。
風が巻いて、匂いが届いた。獣とは違う、酸っぱい匂いだ。
ゴブリンは、道の真ん中を歩いてきた。手には木の棒。こちらには気づいていない。風下にいるからだ。
七歩。五歩。
三歩。
飛び出した。ゴブリンが振り向く。棒が上がる。振り下ろされるより早く、体はもう動いていた。受けて、流して、その先に喉がある。記憶が知っている形だった。
——踏み込みが、半歩足りなかった。
刃は届いた。届いただけだった。喉の手前の、肩の付け根を裂いただけで止まった。
血が噴いた。ゴブリンが甲高く鳴いた。
二撃目を、と体に命じた。
体は、動かなかった。
腕が上がらない。飛び出した一歩で、もう息が上がっている。膝が笑っている。記憶の中の男が次に何をするか、頭は残らず知っていて、手足だけが置き去りだった。
ゴブリンは棒を捨て、藪へ転がり込んだ。
追った。
二十歩で、足が止まった。
そこから先は森の中だ。木の影が濃く、道が消える。夜目が利いても、限りがある。深追いして戻らない物見は、何も見なかったのと同じだ。それどころか、村から目を一つ失わせる。
膝に手をついて、息を継いだ。
藪の音が遠ざかり、消えた。
手が震えていた。
怖いのではなかった。腕が、上がらないだけだった。
◇
村に戻った時、空の端が薄くなり始めていた。
井戸で手を洗った。爪の間の血は、なかなか落ちなかった。袖にも飛んでいたので、水に浸けて揉んだ。落ちたのは色だけで、匂いは残った。
持ち帰ったものは、何もない。
肉も、毛皮も、何ひとつない。あるのは、半端に傷つけた一匹を森に残してきた、という事実だけだった。
手負いの獣は、狩りが下手になる。下手になったものが次に狙うのは、逃げ足の遅いものだ。柵の内側には、鶏がいる。山羊がいる。子供がいる。
昨日より、村は危うくなった。自分の手で、そうした。
濡れた袖を絞り、戸を持ち上げて開けた。
枕元の板きれを引き寄せ、炭を持った。
数字を書く手が、止まった。
少し考えて、隅に、丸を一つ書いた。
目を閉じても、頭は勝手に動いていた。踏み込みが半歩。風は北。あれが通るのは、日が落ちてから四つ数えるほど後。傷は、左の肩の付け根——
数えているうちに、浅い眠りに落ちた。
◇
「ジン。ジン。……ジン、三度目よ」
体を揺すられて、目を開けた。母が呆れた顔で立っている。窓の外は、とっくに明るい。
「起きます」
「もう起きてなさいな」
飯の途中で、二度、瞼が落ちた。二度目は、汁の椀に額から突っ込みかけた。
「おにいちゃん、また寝ながら食べてる!」
リゼが手を叩いて笑った。母がため息をつき、父は何も言わずに漬物を噛んでいた。
畑では、鍬を持ったまま止まっていたらしい。気づいた時には、隣の畝からエマがこちらを見ていた。
「……ジン」
「ん」
「立ったまま寝るの、器用ね」
エマは声を上げて笑った。それ以上は、何も訊かなかった。
昼前、水路の泥を上げていると、年寄りが二人、通りかかった。
「若えのに、しゃんとせんかい。夜遊びでもしてんのか」
「相変わらずだなあ、この子は」
悪気は、なかった。畑仕事の合間の、天気の話と同じだ。二人は笑って、行ってしまった。
ジンは何も言わなかった。曖昧に頭を下げて、泥をすくった。
その日の夕方、父が明日の割り振りを言った。ジンに回ってきたのは、いちばん近い畑だった。父はそれきり、こちらを見なかった。
◇
変えたことは、五つあった。
一つ。得物を変えた。
納屋の隅に、古い穂先が転がっていた。猪を突くための、幅が広くて重いやつだ。父に断って樫の枝を選び、皮を剥いで、二晩かけて削った。挿げて、楔を打ち、水に浸けた。
剣より、間合いが遠い。踏み込まずに届く。半歩足りない体には、こちらのほうが正しかった。
二つ。待つ場所と、罠の位置を変えた。
道の細まったところへ罠を移した。倒木が残っていて、足を置ける場所が三つしかない。必ず真ん中を踏む。
三つ、風。四つ、月。月明かりが相手の目に入る側に、ジンは立つことにした。
五つ。刻だ。日が落ちて四つ数えるほど後。
四日、待った。三日目は雨で、何も出なかった。それでも行った。
五日目の夜、ジンは窪みに膝をついていた。
村の灯が、一つずつ消えていく。村長の家が最後まで起きていて、それも消えた。
待った。
足の指の感覚が薄れ、次に足首が痺れた。膝を崩し、また戻した。冷えが腰から背へ上がってくる。息は細く吐く。白くならない吐き方を、体が知っていた。
雲が動いた。梟が鳴いて、止んだ。
ジンは、槍の握りを直した。
音は、それからずいぶん経って届いた。枝を踏む音。次の一歩までが長い。左の肩をかばうように、体が傾いでいる。
あの夜の、あれだった。
倒木のところで、足が止まり輪が締まる。ゴブリンが鳴き、体をひねって、脚を引き抜こうとする。
ジンは立ち上がった。
歩いた。走らなかった。
間合いの外から、槍を出した。踏み込みは、しなかった。腕と、腰の回りだけで届いた。
一度で、終わった。
ジンは槍を引き、穂先を布で拭った。二度拭って、それでもまだ拭った。それから輪を外し、縄を回収して、木の根元を掘った。
土は硬く、根が邪魔をした。手のひらの豆が潰れた。埋め終わるまでに、罠を仕掛けるより長くかかった。
土を戻し、踏み固める。
手は、合わせなかった。
風向きを確かめ、道の先を見て、それから村へ歩き出した。
高ぶりは、なかった。あるのは腕の重さと、腰の張りと、掘り返した土の匂いだけだ。畑を一日耕した日と、疲れ方がよく似ていた。
一匹目だ。
柵が見えてきた。灯は、どこにもついていない。誰も、この夜のことを知らない。知らないまま、朝が来る。
それでいい。
明日も行く。




