第七話 呼吸の魔法
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刈り入れが始まると、村は朝から晩まで畑に出ずっぱりになった。
麦の束を担ぐ男たちが、掛け声とともに、ふっと息を詰める。その瞬間だけ、担ぎ手の足取りが変わる。大人二人分はありそうな束が、軽々と荷車に載る。
身体強化だ。
魔力を体に通して、力を底上げする。この世界では、誰でも使える一番簡単な魔法だった。畑仕事に、力仕事に、村の大人は当たり前に使う。使い方も、皆同じだった。力む瞬間に、一気に流す。
ジンも十三年間、そういうものだと思って使ってきた。重い水桶を持ち上げる時。ぬかるみで荷車を押す時。ここ一番で一気に。それが身体強化というものだった。
だが、古い記憶の目で改めて眺めると、妙なことに気づく。
束を三つも運べば、男たちは肩で息をしている。「魔力が切れちまう」と笑って、あとは素の力で担ぐ。強化は、ここ一番の切り札。長くは持たない。村の誰もが、そう信じて疑っていない。
——本当に、そうか?
記憶の中の男は、魔法を知らない。だが、力の使い方なら知っていた。
行軍は、走らない。歩き通す。全力は出さない。出さないから、十日歩ける。戦場で三日眠れなくても立っていられるのは、力んでいないからだ。息と同じだ。深く吸って止めれば、すぐ苦しくなる。浅く、長く、絶やさずに——それなら、いつまでも続く。
力は、瞬間に注ぐものではない。
なら、この魔法も、同じにできないか。
一気に流すのではなく。薄く、長く、常に。
◇
思いつきは上等だったが、やってみると地獄だった。
その夜の素振りから試した。
魔力を、糸のように細く、全身へ。
魔力は、へその奥のあたりに、ぬるい灯りのように溜まっている。力む時は、これを一気に手足へ流す。誰でもできる。体が勝手にやってくれる。だが「細く流し続ける」となると、体は何も手伝ってくれなかった。指先でこよりを縒るような、そんな細かい仕事を、体の内側で、ずっとやり続けることになる。
三振りで、消えた。
意識が素振りに向いた途端、流していたはずの魔力が、ふっと途切れる。蝋燭の火を手のひらで囲いながら歩くようなものだった。足元を見れば火が消え、火を見れば足がもつれる。
今度は水汲みの間、試した。桶に気を取られて、消えた。飯の間に試した。リゼに話しかけられて、消えた。リゼは悪くない。悪くないが、「おにいちゃん、お口がへんなかたち」と言われた時には、さすがに糸どころではなかった。
しかも、細くしたつもりの糸が、気を抜くと勝手に太くなる。太くなれば、ジンの人並み以下の魔力は、みるみる減る。減った魔力は、鉛を飲んだような重さになって体に残る。
誰かに習おうにも、教えられる者がいない。村の大人に「強化を一日中薄く張るには」と聞けば、何を言っているんだこいつは、という顔をされるだけだろう。誰もやらないことには、教科書がない。手探りで、失敗して、失敗の中から拾うしかない。
村の常識は、正しかったのだ。だから誰も、こんな使い方をしない。瞬間に使うほうが、百倍楽で、百倍役に立つ。
それでも、とジンは思う。
人並み以下の魔力しかない自分が、ここ一番の「一気」で村の大人に勝てるはずがない。持たざる者の使い道は、一つしかない。少ないものを、細く、長く、無駄なく使うことだ。銭のない家の、銭の使い方と同じだ。
それに——これは、鍛錬に似ていた。
一回では、何も変わらない。だが、糸が切れるたびに繋ぎ直せば、切れるまでの時間は、ほんの少しずつ延びていく。三振りが、五振りになった。五振りが、十振りになった。板きれの数字と、同じ理屈で延びていく。
この魔法は、才能の魔法ではない。回数の魔法だ。
そう気づいた日から、ジンは一日中、糸を張るようになった。
◇
それが、いけなかった。
刈り入れも終わりに近づいた昼下がり、西の畑で、ジンは動けなくなった。
前の夜、大菩提樹の下で張りすぎた。そのまま寝床に入り、起きて、また張り直して——気づいた時には、足が鉛だった。目の前がちかちかして、腰を下ろしたら最後、立ち上がる力がどこにもなかった。
魔力切れ。村の大人が「ああなったら寝るしかねえ」と笑う、あれだった。
畑の端に座ったまま、ジンは目だけ動かして空を見ていた。体は動かないのに、頭は妙に澄んでいて、高いところを鳶が回っているのが見えた。情けなさが、じわじわと染みてきた。何十度も戦場を生き延びた記憶を持つ男が、真昼の畑で、行き倒れている。
「……ジン?」
いちばん見つかりたくない相手に、見つかった。
籠を抱えたエマが、ジンを上から下まで眺めた。
「あんた、こんなとこで何してんの」
「……座ってる」
「見れば分かるわよ。なんで立たないの」
「……今は、立たない主義だ」
「立てないんでしょ」
一目で見抜かれた。エマは籠を置き、ため息をつき、ジンの腕を取って自分の肩に回した。細い肩なのに、力は強かった。
「ほら。歩く。足だけ動かしなさい」
「……面目ない」
「まったくよ。あんた最近、変よ。柵にへばりついて、畑でぼうっとして、今度は干からびて。……次はなに、屋根から落ちる?」
「落ちない」
「どうだか」
日の高い道を、二人分の影が、のろのろと村へ戻っていく。エマは終始あきれ顔で、しかし歩調は、ジンの鉛の足に合わせて、ずっとゆっくりだった。
家の前まで来ると、エマは荷物を降ろすようにジンを戸口に立てかけ、ぱんぱん、と手を払った。
「はい、配達完了。……ちゃんと飯食って寝なさいよね」
言い残して帰っていく背中に、ジンは頭を下げた。魔力切れの頭の片隅で、古い記憶が妙な感心をしていた。あの肩の貸し方は、負傷兵の運び方として、ほとんど正しかった。
◇
失敗から学んだのは、糸の「上限」だった。
張る強さを、もっと下げる。切れない細さではなく、一日持つ細さまで。あるかないか分からないほど薄く。効いているのかどうかも怪しいほど薄く。それでいい。行軍の歩幅は、稽古の全力より、ずっと小さいのだから。
秋の気配が濃くなった、ある夜だった。
大菩提樹の下で振り、村を一回りして、寝床に入り、目を閉じて——ジンは、気づいた。
糸が、まだ張ってある。
起き抜けに張った糸が、水汲みの間も、畑の間も、夕飯の間も、大菩提樹の下でも、村を回る間も、一度も切れずに、今も体の中で細く続いている。切れなかったのではない。張っていることを、忘れていたのだ。息をしていることを忘れているのと、同じように。
丸一日。初めてだった。
体を起こして、手のひらを開いたり閉じたりしてみる。何も、劇的なことは起きていない。力が湧くわけでもない。ただ、今日一日の疲れが、いつもより薄い。それだけだった。
それだけのことに、ジンは寝床の中で、少しだけ笑った。
もう一つ、気づいたことがあった。
薄く張ると、力よりも先に、目と耳が変わる。
暗がりの中で、輪郭が早く起き上がってくる。背中の側で葉が鳴れば、鳴った場所が分かる。強く張っていた頃には、気づきもしなかったことだった。
理由は、考えなかった。ただその日から、目と耳へ回す分を、ほんの少し厚くした。
派手さは、どこにもない。村の誰に見せても、何が起きているのか分からないだろう。だが、これは息だ。今日から先、この糸は素振りと同じ場所に置かれる。毎日張って、毎日延ばす。一年後、十年後、この糸がどれほどのものに育つのか——それは、誰も知らない。
それに、とジンは思った。
火を出す才も、風を操る才もない自分に、魔法の道は閉じていると思っていた。だが、違ったのかもしれない。誰もが素通りする場所に、誰も歩いていない道が残っている。才能のある者は、こんな地味な道を選ばない。選ばないから、この道だけは、才能と競わずに済む。歩いた日数だけが、ものを言う。
——それなら、自分の道だ。
張りっぱなしの糸を確かめて、ジンは目を閉じた。
呼吸のように、魔法が続いていた。




