第六話 動かない体のまま
◇
納屋の棟が上がり、村が刈り入れの支度を始める頃には、ジンの夜は形が決まりつつあった。
はじめの数日は、夜明け前に振った。
だが、続かなかった。夜のうちに何度も目が覚める。起きて外を確かめ、戻って、また目を閉じる。二度、三度。そうして明け方になってようやく眠りが深くなるものだから、空が白む頃には、体が石のように重かった。
昼は畑がある。刈り入れ前のこの時期に、抜けられる時間はない。日が落ちてからは、飯と、水汲みと、薪割りだ。
どこにも、時間はなかった。
——一つだけ、あった。
眠れない時間だ。
あの夜からずっと、寝床で目を閉じては起き上がり、外を確かめては戻ってきた。捨てるように使ってきた数刻が、毎晩、そっくり空いている。
どうせ、眠れない。
ならば、振ればいい。
家の者が寝静まってから、剣を持って出るようになった。場所は、村の中央の大菩提樹の下と決めた。家々から離れていて、どの窓からも見えない。月が出ていれば、足元くらいは見える。
倒れる前にやめて、寝床に戻る。それだけの、単純な形だった。
◇
振った回数は、納屋の廃材でもらった板きれに、炭で書きつけた。
五十一。五十三。五十二。五十五。
情けない数字の列だった。十日やって、増えたのは数回。しかも五十を超えたあたりの太刀筋は、自分でわかるほど崩れている。記憶の中の男なら、こんな素振りは一回にも数えなかっただろう。
それでも、書いた。
体は、あきれるほど動かないままだった。振り始めて三日目に腕が上がらなくなり、五日目に握力が消えて箸を落とし、母に妙な顔をされた。手のひらの豆は潰れては固まり、固まっては潰れた。布団の中で、腕が勝手に震えていることがあった。
だが、夜は来る。
雨の夜も、来た。
七日目だったか、八日目だったか。日暮れから本降りで、大菩提樹の下は葉を伝った雫が絶えず落ち、土はぬかるみ、柄は濡れて滑った。今日はやめておくか、と考えた自分に、ジンは少し驚いた。たった数日で、もう休む理由を探している。あの決意は、その程度のものだったのか。
雨の中で、振った。
濡れた柄が滑るなら、滑らない握りを探せばいい。ぬかるみで踏み込めないなら、踏み込まずに振る形を試せばいい。そう思い直せたのは、記憶のおかげだった。戦は、晴れの日を選んでは来ない。雨の日に振れない剣は、雨の夜に村を守れない。
その夜の回数は、四十六。板きれに、初めて減った数字を書いた。
悔しくはなかった。雨の夜の四十六回は、晴れの夜の五十五回より、たぶん重い。
振った夜の数だけ、板きれの数字は増えていく。増えた数字は、減らない。昨日の五十三回がどれほど不格好でも、振ったという事実だけは、もう誰にも消せない。それがこの板きれの、たった一つの取り柄だった。
◇
畑の割り振りが、いつの間にか変わっていた。
ジンの受け持ちだった水路の泥上げが、父の名前になっている。代わりに回ってきたのは、西の外れの畑だった。村でいちばん遠いが、いちばん軽い。
父は、何も言わなかった。
だが、あの家の戸は、鳴る。持ち上げなければ、下がこすれて鳴る。夜中に一度鳴って、明け方にもう一度鳴るのを、父が知らないはずがなかった。
知っていて、訊かず、割り振りだけを変えた。
昼を、軽くしてくれたのだ。
母も、何も言わなかった。ただ、夕飯の膳の魚が、いつからかジンだけ一切れ大きくなった。手のひらの布は、汚れる前に新しいものが枕元に置かれるようになった。豆に効くという薬草の軟膏が、いつの間にか布に塗り込んであった。
誰も、鍛錬の話をしなかった。
一度だけ、雨の夜に戻ったところで、水を飲みに起きていた父と鉢合わせたことがある。手には剣、肩にはずぶ濡れの上着。ごまかしようのない格好だった。父は息子の頭のてっぺんから爪先まで一度だけ見て、言った。
「……拭いてから、寝ろ」
それだけだった。
「おにいちゃん、これなあに?」
板きれの数字を見つけたのは、リゼだけだった。
「……数えてるんだ」
「なにを?」
「振った数」
「ふうん」
リゼはわかったようなわからないような顔で板きれを眺め、それから、炭のかけらを拾って板の隅に何かを書いた。ぐにゃぐにゃの、丸のようなものだった。
「リゼも数えた。おにいちゃん、きょうも、えらい。の、丸」
意味はよくわからなかった。わからなかったが、その丸を消す気には、なれなかった。
◇
西の畑は、遠かった。
だがジンは、その遠さの使い道を見つけていた。行き帰りに、まっすぐ歩かない。村の柵に沿って、ぐるりと外周を回るのだ。歩くこと自体が、崩れた足腰の鍛錬になる。そして歩きながら、柵を見る。
見れば見るほど、ひどい柵だった。
杭が腐って傾いだ箇所。獣が押し広げたまま塞がれていない隙間。結わえた縄が切れて、押せば倒れる一角。魔物除けと呼ぶのもためらう代物だが、村の誰も気に留めていない。これまでは、それでも済んでいたのだ。
——これまでは。
ジンは足を止め、柵の向こうを見た。
森が、夕方の光の中で黒く沈んでいる。あの森を毎日歩いていた爺さんは、もういない。森の異変にいちばん早く気づく目は、失われたままだ。そして森は、静かに見えるだけで、静かである保証はどこにもない。
いつか、あの森を歩けるようにならなければいけない。
今は、まだ無理だ。五十回で崩れる足腰では、森の中で何かに出くわしたら、それまでだ。悔しいが、古い記憶の目は、その判断だけは間違えない。
だから今は、柵だ。歩ける場所を歩き、見える場所を見る。傾いだ杭の場所を、頭の中の村の絵図に書き込んでいく。直すのは、まだ先でいい。まず、知ることだ。守るべき場所の弱いところを、誰よりも知っていることだ。
「ジン! あんた、なにしてんの」
柵に張りついていたら、畑帰りのエマに見つかった。
「柵を見てた」
「柵ぅ?」
エマは眉を寄せて近づいてきて、それからジンの手を見て、もっと眉を寄せた。
「……手、ひどいことになってるじゃない」
「もう固まった」
「固まってるのが、ひどいって言ってんの」
エマはジンの手のひらを勝手につまんで検分し、はあ、と大きなため息をついた。何か言いたいことが山ほどある顔で、しかし結局、何も訊かなかった。あの夜のことも、この手のことも、この村では誰も、口にしない。
「……夕飯、冷めるわよ。帰るなら一緒に帰る」
それだけ言って、先に歩き出した。
その背中を追いながら、ジンは思った。訊かれない、ということに、この村の人たちがどれだけ言葉を使わずにいてくれているか。それが、どれだけありがたいか。
◇
その夜、振り終えてから、ジンは寝床に戻らなかった。
理由は、うまく言えなかった。剣を提げたまま大菩提樹の下に立っていると、村が静かすぎるように思えた。
家の周りをひと回り。それから足を伸ばして、村の道を大回りにひと回り。傾いだ杭の柵も見た。誰の家の灯りがもう消えて、誰の家がまだ起きているかも見た。犬はおとなしかった。風は西からで、火の匂いも、獣の匂いもなかった。
何も、なかった。
それを、この目で確かめた。
寝床に戻り、目を閉じる。耳は、今夜も働いている。風の音。梁のきしみ。——だが、そのたびに跳ね起きようとする体が、今夜は、少しだけ静かだった。さっき見てきた「何もない村」を、体が覚えているからだった。
耳が音を拾うたび、頭の中の絵図が答える。あの方角は柵の傾いだ一角だが、今夜は風が西だから鳴っているだけだ。あの物音は村長の家の戸で、あの家はいつも閉まりが悪い。確かめた事実が、ひとつひとつ、音の正体に名前をつけてくれる。名前のついた音は、もう、跳ね起きるほど怖くない。
眠りは、相変わらず浅かった。
それでも、起き上がって確かめに出た回数は、一度で済んだ。あの夜から数えて、いちばん少ない夜だった。
振って、回って、寝る。
特別なことは、何もない。ただ、毎日やると決めて、毎日やる。それだけのことが、たぶん、いちばん効く。
板きれの数字が、今日もひとつ増える。
夜が、一つの形になった日だった。




