第五話 一日目
◇
夜明け前の空気は、冷たくて、静かだった。
家の裏手の空き地で、ジンはあの夜の剣を構えた。盗賊から奪った、安物の直剣。刃こぼれだらけで、手入れも悪い。それでも、今この村でジンが握れる唯一の剣だった。
頭の中には、完璧な太刀筋がある。
上段から、まっすぐに。力ではなく、骨で振る。肩を落とし、肘をたたみ、剣の重さそのものに仕事をさせる——遠い昔、何万回と繰り返した振り方を、記憶は寸分違わず覚えていた。目を閉じれば、見えるほどに。息の合わせ方も、足の裏のどこで地面を掴むかも、振り終わりに刃がぴたりと止まる、あの静かな感触も。
全部、分かっている。
分かっているのだから、出来るはずだった。
振った。
剣先が、ぶれた。
思い描いた線と、実際に刃が通った線が、指三本ぶんずれていた。もう一度。今度は手首が負けて、切っ先が地面すれすれまで流れた。もう一度。肩に力が入りすぎて、振り終わりが止まらない。もう一度。もう一度。
十回で、息が上がった。
二十回で、肩が悲鳴を上げ始めた。剣がこんなに重いものだったことを、腕が初めて知った。
三十回で、手のひらの皮が破れた。柄が、ぬるりと滑った。
四十回。太刀筋なんてもう、どこにもなかった。ただ棒を振り回している子供だった。
五十回目——踏み込んだ足が、もつれた。
世界が回って、気づけば、朝焼けの空を見上げていた。背中に土の冷たさ。喉の奥に血の味。破れた手のひらが、心臓と一緒に脈打って痛んだ。
たった、五十回だった。
記憶の中の男は、これを朝の目覚ましがわりに三百、日課として千、振っていた。それを何十年。その果てに、ようやくあの太刀筋があった。
頭の中には、完璧な設計図がある。
それを形にする材料が——この体の、どこにもなかった。
◇
倒れたまま、ジンは冷静だった。冷静さだけは、腐るほどあった。
あの夜のことを、古い記憶の目が、容赦なく検分していく。
勝てたのは、敵が舐めていたからだ。十三の子供だと思って、雑に振った。だから軌道が読めた。読めたところに、覚醒したての体がたまたま間に合った。二人目は、仲間が斬られて頭に血が上っていた。それだけのことだ。
もしあの男が、本気で構えていたら。
もし相手が、戦場を知る兵だったら。
もし敵が三人いて、二人目と三人目が同時に来ていたら。今の体では、二人目の途中で腕が上がらなくなる。それを、今朝の五十回が証明してしまった。
それに——ダン爺さんが、死んだ。
四十年、剣で食ってきた本職ですら、あの夜を越えられなかった。並の腕だと本人は笑っていたが、それでも今の十三歳の体より、はるかに戦えたはずの男だ。その男が、真っ向から立ち合って、死んだ。
——次が来たら、守れない。
結論は、それだけだった。言い訳の余地なく、それだけだった。
そして「次」は、来る。あの盗賊たちの引き上げ方を、記憶の目は見ていた。あれは食い詰め者の逃げ方ではなかった。この村が、これから先ずっと安全である保証など、どこにもない。
記憶は、教えてくれる。どう動けばいいか。どこを見ればいいか。何が正しいか。全部、教えてくれる。だが体は、その通りに動かない。教わった正解に、手が届かない。
これほど残酷なことがあるだろうか。何も知らなければ、五十回振れただけで喜べた。知ってしまっているから、五十回の全部が、失敗だとわかってしまう。頂きの高さを正確に知る者にだけ、麓の低さは正確に見える。
記憶は、財産ではなかった。
はるか遠くに立ちはだかる、届かない目標だった。
◇
昼、ジンは大菩提樹の木陰にいた。
破れた手のひらには、母が黙って布を巻いてくれた。何をしたのかは、訊かれなかった。
村は、動いていた。焼けた納屋の跡地で、男たちが木材を組んでいる。掛け声。木槌の音。「そこ曲がってるぞ」「曲がってねえ!」と言い合う声。女たちが昼飯を運び、誰かが下手な歌をうたい、笑い声が起きた。
木陰の隣では、リゼが昼寝をしていた。兄の袖を軽くつまんだまま、口を半分開けて、気持ちよさそうに眠っていた。
「……ん、おにいちゃん」
寝言だった。何の夢かは知らないが、リゼは眠ったまま少し笑って、つまんだ袖を握り直した。あの夜からずっとこうだ。夜も、昼も、気がつけば袖の届く場所にいる。怖かった記憶を、兄の袖で上書きしようとしているのかもしれなかった。
ジンは、袖を引かれたまま、村を眺めていた。
遠い記憶の中の故郷にも、同じ音があった。普請の木槌の音。誰かの下手な歌。妹の寝息。あの頃は、当たり前すぎて、音がしていることにも気づかなかった。
全部、一晩で燃えた。
音のなくなった故郷を、ジンは知っている。灰と煙のほかに何もない朝を、知っている。当たり前だったものは、当たり前ではなかった。守られていたから、そこにあっただけだった。そして守りが破れた夜、誰よりもそれを知っていたはずの男は、間に合わなかった。
視線を上げれば、村の柵の向こうに、森が黒々と横たわっている。今日も静かに見える森だ。だが、あの森を毎朝歩いて、小さな芽を摘んでいた爺さんは、もういない。「近頃、森が騒がしい」——そう言っていた当の本人がいなくなったことに、村はまだ、気づいてすらいない。
木槌の音がする。リゼの寝息がする。
守りたいものの形は、もう、はっきりと見えていた。
英雄でも、化物でもない。何者として生きるかの答えは、まだ言葉にならない。それでも、何のために生きるかなら、もう決まっていた。
この音を、絶やさないことだ。
◇
夕方、納屋の棟が上がるのを見届けてから、ジンは一人、森の際まで歩いた。
二つの土盛りの前を通り、村を振り返る。夕飯の支度の煙が、家々から細く立ちのぼっていた。
もう二度と、大切なものを失わない。
声に出して、言った。誰に誓うでもない。強いて言うなら、遠い昔に全部を失った、自分自身に。
そのために、何が要るか。
才能は無い。魔力は人並み以下だと、村の寄り合いの適性判定でとうに言われている。神様が特別な力をくれる気配も、ない。前世の記憶という卑怯な種はあるが、それは種のままでは芽も出ない、ただの重たい設計図だ。
才能で埋まらないものを埋める方法を、ジンは一つだけ知っていた。
毎日だ。
一日で届かないなら、二日。二日で届かないなら、十日。十日でだめなら、百日、千日。あの記憶の中の男の腕前も、生まれつきではなかった。何十年、一日も欠かさず振り続けた果てに、あの太刀筋はあった。近道を、ジンは知らない。知らないが、道そのものなら知っている。
思えば、ダンの爺さんも、そうだった。大した腕じゃないと笑いながら、四十年、夜明けの森歩きだけは欠かさなかった。この村の十三年ののどかさは、あの「毎日」が黙って支えていたのだ。誰も、気づいてすらいなかったけれど。
歩き続ければいい。毎日、休まずに。
一日は、誰にでも等しく配られる。才能のある者にも、ない者にも、同じだけ。ならば、その一日を一度も捨てなかった者が、いちばん遠くまで行く。派手さのかけらもない理屈だった。誰も褒めてくれない理屈だった。だが、この理屈だけは、決して裏切らないことを、遠い昔の何十年が証明している。
それだけのことを、それだけのこととして、やり抜けばいい。
体の底の、震えに似た何かが、静かに定まった。
◇
翌朝。まだ星の残る、夜明け前。
ジンは空き地に立った。手のひらの布を巻き直し、潰れた豆の上から柄を握る。痛みで、涙が滲んだ。滲んだまま、構えた。
振る。ぶれる。振る。ぶれる。
昨日と同じ、届かない太刀筋。昨日と同じ、遠い頂き。今日の五十回も、きっと全部が失敗だ。明日の五十回も、たぶんそうだ。それが十日続くのか、百日続くのかも、わからない。
分からないまま、振る。
それでも、五十一回目を振った。
昨日より、一回だけ多く。
一回。笑ってしまうほど、小さな一回だった。だが昨日までの自分と今日の自分の間には、確かにその一回がある。才能は今日も降ってこなかったが、この一回は、誰にも取り上げられない。積んだものだけが、明日も残る。
東の空が、白み始める。村が目を覚ます前の、誰も見ていない空き地で、少年は剣を振り続ける。明日も振る。明後日も振る。雨の日も、雪の日も、祭りの日も。ここから先、彼の生きるすべての日に、この素振りはある。
だがそれは、まだ誰も知らない先の話だ。
今はただ——
「一日目だ。」




