第四話 英雄と化物のあいだ
◇
朝の光の下で見ると、村は思ったより、壊れていなかった。
焼け落ちたのは、共同の納屋が一軒。怪我人は、粉屋のおじさんを含めて五人。いちばん重い粉屋のおじさんも、肩の傷は骨まで届いておらず、ひと月もすれば鍬が持てるだろうと、薬草に詳しい婆さまが言った。
そして、死んだのは——ダン爺さん、一人だった。
「これで済んだのは、奇跡だ」と、誰かが言った。「山向こうのトレム村は、三年前の野盗で六人死んだ」と、別の誰かが言った。それから皆、少しだけ黙った。奇跡という言葉と、森の際の冷たい亡骸とが、胸の中でうまく折り合わなかったのだ。それでも生きている者たちは、生きていることを確かめるように、互いの肩を叩いた。
村長が声を張り、その日の内に手分けが決まった。焼けた納屋の片づけ。刈り入れまでに建て直す算段。怪我人の家の畑は、隣近所で回すこと。壊された垣根の修理。決めることが山ほどあって、そして山ほどあることが、かえって皆を落ち着かせているようだった。手を動かしている間は、恐ろしかった夜を思い出さずに済む。
ジンは、輪の少し外でそれを聞いていた。
奇跡ではない、と思った。そして、奇跡のようなものだった、とも思った。
あの夜、体が動いたのは過去の記憶のおかげだ。だが、あと十歩、駆けつけるのが遅かったら。あの男の剣が、壁ではなく最初から母を狙っていたら。盗賊どもが火を放つ場所を、納屋ではなく家々にしていたら——考えるほどに、背中が冷えた。守れたのではない。紙一枚の差で、失わずに済んだだけだ。
古い記憶の持ち主は、その差がどれほど薄いものか、嫌というほど知っていた。
そして、その紙一枚の外側で、一人が死んだ。あの夜、ジンの手が守れたのは目の前の——袖の届く場所だけだった。爺さんが立っていた森の際まで、あの手は届いていない。
◇
昼前、村は森のよく見える丘に、ダン爺さんを埋めた。棺には使い込んだ剣と、革の胴当てを入れた。子供たちが泣いた。あの爺さんの盛りに盛った武勇伝を聞かずに育った子供は、この村にいない。
その足で、ジンは一人、森の際に立って、土を掘り始めた。
穴は、二つ。
「……ジン、何をしてる」
村の大人たちが、遠巻きに集まってきた。斬られた二人の盗賊は、まだ道の脇に筵をかけられたまま横たわっている。野に捨てるか、燃やすか——朝から誰もが目を逸らし続けてきた問題だった。
「墓を、掘っています」
「盗賊なんぞに、か? 村を襲って、ダンさんを殺ったかもしれねえ連中だぞ」
責める声ではなかった。ただ、心の底からわからない、という声だった。当然だ、とジンは思う。あの男たちは母を、リゼを、殺そうとした。村の誰にも、弔う理由はない。
だから、これは村の仕事ではなかった。
「殺したのは、俺だからです」
それだけ言って、また土を掘った。
大人たちは、顔を見合わせた。何か言いかけて、やめて、一人、また一人と離れていった。それでいい、と思った。うまく説明できる言葉を、ジンは持っていなかった。ただ、知っているだけだった。人を斬った手には、その重さごと生きていく責任があるということを。斬った側がその重さを捨てた時、人はただの獣に堕ちるということを。遠い昔、数えきれない骸の間で、そうやって獣になっていった男たちを、この記憶は見てきた。
穴掘りは、思ったよりずっと骨が折れた。
記憶の中の男なら、この深さの穴くらい、わけもなく掘っただろう。だが今のジンの腕は細く、手のひらはすぐに赤くなり、鍬をひと振りするたびに息が上がった。頭が知っている働きに、体がまるでついてこない。それでも掘った。休み、掘り、また休んだ。
いつの間にか、掘り返した土のそばに、水の入った桶がひとつ置かれていた。誰が置いたのかは、わからなかった。
日が傾く前に、二つの土盛りができた。
ジンは短く手を合わせた。名前も知らない二人だった。
◇
その日から、村の空気は、二つに割れた。
「ジン、ほんとうに、ほんとうにありがとうねえ」
畑の隅で、腰の曲がった婆さまに深々と頭を下げられた。抱えきれないほどの菜っ葉を押しつけられた。井戸端では、助かった家の女たちが涙ぐんで礼を言った。
「ジンにいちゃん! 剣、ばゅんってやったんでしょ! おれにも教えて!」
子供たちは無邪気だった。棒きれを振り回して、何度もあの夜の真似をした。
その一方で。
道ですれ違う時、ふっと目を逸らす者がいた。挨拶の声が、以前より半歩ぶん遠くなった者がいた。子供の手を引いて、それとなく道の反対側へ寄る母親がいた。
誰も、悪くなかった。十三歳の子供が剣を握った男二人を斬り伏せるところを、この村の人々は見てしまったのだ。ありがたくて、そして、少しだけ怖い。それは人として、まっとうな反応だった。
英雄と化物のあいだの、どこか。
今の自分はそこにいるのだと、ジンは思った。
「ジン」
夕方、水汲みの帰りに、エマに呼び止められた。
「お母さんとリゼちゃんを守ってくれて、ありがと。あたしの父さんも、あんたがいなかったら村は終わってたって」
「……いや」
「うん」
会話は、それで終わるはずだった。なのにエマは、その場を動かなかった。じっと、ジンの顔を見ていた。責めるのでも、怖がるのでもない。もっと静かな目だった。何かを探す目だった。ずっと前からよく知っているはずの顔の中に、見慣れたはずの何か——たとえば、笑い方のようなものを、探す目だった。
ジンは、笑おうとした。
昔の自分がどんなふうに笑っていたのか、思い出そうとして——上手く、いかなかった。
「……なんでもない」
エマは先にそう言って、桶を抱え直し、歩いていった。その背中を、ジンは声もかけられずに見送った。
◇
夕飯の膳に、飯が山盛りになっていた。
ジンの椀だけ、明らかに盛りが違う。おかわりを訊かれる前から、二杯目のぶんまで積んであるような盛りだった。母のミーナは何も言わず、いつもの顔で、リゼの好き嫌いを叱っている。
父のガルドは、黙って食っていた。
その父が、食い終わる頃、椀を置いて、一度だけ口を開いた。
「……お前が何を思い出したのかは、訊かん」
ジンは、箸を止めた。
「だが、飯は食え」
それだけだった。父はもう、こちらを見てもいなかった。母は素知らぬ顔で、リゼの椀に菜を足していた。
「おにいちゃん、いっぱい食べるねえ」
リゼが、感心したように言った。母が「男の子だもの」と笑い、リゼが「リゼも男の子になる」と言い、父が黙って首を横に振った。いつも通りの、なんでもない食卓の音だった。数日前に人を斬った少年が座っていることを、この食卓だけが、まるで問題にしていなかった。
ジンは黙って、山盛りの飯を食った。全部、食った。妙なもので、食えば食うほど、喉の奥のほうが熱くなった。
その夜、寝床の中で、ジンは天井の梁を見ていた。
隣ではリゼが、今夜も勝手に寝床を寄せて、すうすうと眠っている。
村は静かだった。あの夜からまだ数日なのに、村はもう、いつも通りの夜の音を取り戻しつつあった。虫の声。風の音。誰かの家の、遠い咳。
——俺は、何者として生きればいい。
遠い昔に死んだ、あの侍としてか。十三年間ここで育った、ジンとしてか。それとも、そのどちらでもない、別の何かとしてか。
侍として生きるなら、この村に侍の居場所はない。ジンとして生きるなら、あの夜に人を斬った手を、どこへ置けばいい。
英雄と呼ぶ声と、目を逸らす背中と、いつも通りの飯と。今日一日が、ばらばらのまま胸の中に積もっていた。
答えは、出なかった。
出ないまま、ジンは目を閉じた。




