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第三話 十三歳の古兵


震えは、来なかった。


来るはずだった。人を斬ったのだ。生まれて初めて、この手で。

膝が笑い、歯が鳴り、立っていられなくなるはずだった。なのに、来ない。


納屋の火は、まだくすぶっている。だが延焼は止まった。村人たちは水桶を提げたまま、あるいは得物を握りしめたまま、燃え残りの前に呆然と立ち尽くしていた。誰もが、何をすればいいのかわからずにいた。


その中で、ジンだけが動いていた。


「布を替えて。傷口はきつく縛って、心臓より高く上げてください」


肩を斬られた粉屋のおじさんの手当てを、若い衆に指示する。血は多く見えるが、傷は浅い。命に関わる出血と、そうでない出血の見分けが、なぜかついた。斬られてすぐの傷は、本人が思うより痛まない。痛みが来るのは夜明け前だ——そんなことまで、なぜか知っていた。


「火のそばの藁は全部どけて。風向きが変わったら、また燃えます」


「水は絶やさないで。燃え残りは、朝までくすぶります」


「それと、見張りを。夜明けまで、二人ひと組で村の四隅に。……戻ってくるかもしれない」


言葉は、考えるより先に出てきた。誰に教わったわけでもない段取りが、頭の中に初めから並んでいた。火事の後に何をするか。襲われた夜に何を備えるか。傷ついた者を、どの順で診るか。


大人たちは一瞬顔を見合わせ、それから、言われた通りに動き出した。十三歳の子供の指図に従っていることに、疑問を挟む余裕すら、誰にもなかった。ただ時折、作業の手を止めて、ちらりとジンを見る目があった。感謝とも、戸惑いともつかない目だった。ジンは、気づかないふりをした。


働きながら、ジンは自分の手を何度も見た。


震えていない。


さっき、人を斬った手だ。それが今、包帯を巻き、藁を運び、平然と動いている。心は妙に冴えて、静かだった。湖の底のように、静かだった。


——なぜだ。


なぜ俺は、こんなに静かなんだ。



「ダンの爺さんが……! 森の際で……!」


夜半、探しに出ていた若い衆の声で、村はもう一度凍りついた。


ジンも駆けつけた。爺さんは、森を正面に見る形で、剣を抜いたまま倒れていた。ジンは膝をつき、確かめた。鼻先に手をかざして息を探り、首筋に指を当てる。手順を、手が知っていた。——とうに、こと切れていた。


傷は、前からだった。逃げもせず、背も向けず、真っ向から立ち合って、斬られていた。大した腕じゃない、といつも笑っていた爺さんは、最後の夜、村と森の間に一人で立っていたのだ。


火事に真っ先に気づくのは、いつも夜明け前から森を歩くこの爺さんのはずだった。その爺さんが、真っ先に死んでいた。何かが引っかかった。だが今のジンには、それを言葉にする余裕がなかった。


そっと、爺さんの目を閉じさせた。指が、その動きを覚えていた。


斬った二人の盗賊は、道の脇に寝かされていた。村の誰も、近寄ろうとしなかった。この村では、人の死といえば老衰か、病か、山の事故だった。人が人を斬る夜のことなど、ほとんど誰も知らずに生きてきた。その夜が一度に、これだけのものを置いていった。


ジンは二人のそばにも膝をつき、同じように確かめた。


「……すまぬ」


口をついて出た言葉に、ジン自身が驚いた。


そんな言葉、十三年間で一度も使ったことがない。村の誰も使わない。なのに、死んだ者の前に膝をついた途端、その言葉だけが、いちばん自然に喉を通った。まるで、何百回もそうしてきたかのように。


立ち上がると、広場のほうで女たちが炊き出しをしていた。夜通し働く男たちのために、大鍋で汁を温めていた。母のミーナが、椀をひとつ、ジンに差し出す。


「ほら。少しでも、お腹に入れなさいな」


湯気が、立ちのぼった。


その白い湯気の向こうに——一瞬、別の顔がよぎった。


ミーナではない。もっと老いた、しわの深い、遠い顔。囲炉裏の火に照らされて、黙って椀をよそってくれた、誰かの顔。


瞬きひとつで、消えた。


目の前にいるのは母だった。ミーナだった。十三年間、ジンをこの手で育てた母だった。それは確かなことのはずなのに、椀を受け取る手が、ほんの少しだけ、迷った。


椀を持ったまま、ジンはふと空を見上げた。月の位置と、雲の流れ。夜明けまで、あとどれくらいか。風はどちらから吹いているか——見張りに立つ者の目の使い方を、していた。十三年間、星なんて寝る前に眺めるだけのものだったのに。


二つの人生の継ぎ目が、こんな小さなところで、いちいち軋む。


汁は、温かったが味は、よくわからなかった。



深夜。手当ても、見張りの割り振りも終わり、ジンはようやく一人になった。


家の裏手の、暗がりまで歩いた。


そこで——吐いた。


膝をつき、胃の中のものを全部戻した。汁も、夕飯の粥も、全部。堰を切ったように、体の震えが来た。歯の根が合わない。指先が、自分のものではないみたいに跳ねる。遅れて、遅れて、十三歳の少年の体が、今夜起きたことに追いついたのだった。


人を、殺した。


この手で、二人。刃が骨に当たる感触。崩れ落ちる重さ。開いたままの目。閉じさせる時の、まぶたの冷たさ。全部、覚えている。忘れられるはずがない。あの二人にも、名前があった。どこかに、帰る場所があったかもしれない。


震える背中で、荒い息を繰り返す。涙が出た。声は殺した。家の中の家族に、聞かせてはいけなかった。


——と、その息が、勝手に整い始めた。


鼻から深く吸い、長く、細く吐く。三つ数えて吸い、六つ数えて吐く。誰にも教わっていない呼吸の法を、体が勝手になぞっていく。初めて人を斬った夜にどうやって自分を保つか、その作法を、この体に流れ込んだ記憶は知っていた。何十度も戦場を踏んだ男の、夜の過ごし方を知っていた。吐くことも、震えることも、涙も——全部、通り過ぎるのを待てばいいということを、知っていた。


震えが、引いていく。


ありがたい、とは思えなかった。


むしろ、そちらのほうが恐ろしかった。


吐いて、震えて、泣きそうになっている今の自分は、まだわかる。十三歳なら、それが当たり前だ。わからないのは、さっきまでの自分だ。人を斬って、静かに指図をして、死んだ者の目を閉じさせていた、あの静かな自分。あれも間違いなく、俺だった。


怖いのは、斬ったことじゃない。


斬った自分が、静かなことだ。



その夜、ジンは眠れなかった。


寝床に入り、目を閉じる。すると、耳が勝手に働き出す。風の音。梁のきしみ。遠くの犬の声。そのひとつひとつに、体が起き上がろうとする。確かめずにはいられなかった。確かめないまま目を閉じることが、なぜだか、どうしても、できなかった。


一度目は、板戸を細く開けて、外を確かめた。何もなかった。


二度目は、家の周りをひと回りした。星は動き、風は凪いで、何もなかった。


寝床に戻る。目を閉じる。梁が鳴る。

——また、体が起きようとする。


ただ、目を閉じるのが怖かった。


三度目に寝床を抜け出そうとした時、小さな手が、ジンの袖を掴んだ。


リゼだった。


いつの間にか、隣に寝床を移していた。妹は何も言わなかった。何も訊かなかった。ただ、袖を掴んだ手を、そのまま兄の手のひらへ滑り込ませて、ぎゅっと握った。そうして、安心しきった顔で、目を閉じた。


小さな手だった。あたたかい手だった。


今夜、あの刃の下で震えていた手が、今は兄の手の中で眠っている。この手が明日も、あさっても、こうしてあたたかいこと。守るというのは、きっと、それだけのことなのだ。


ジンは、外を確かめに行くのをやめた。


妹の手をそっと握り返し、目を閉じる。眠りは浅く、何度も途切れた。それでも、その手のぬくもりのある側だけは、朝まで確かにあたたかかった。


——朝。


台所から、水音がした。かまどに火が入る、いつもの匂いがした。とん、とん、と菜を刻む音がした。


「あら、起きたの。おはよう」


母の声だった。


いつも通りの、おはようだった。昨日と同じで、明日も同じはずの、なんでもないおはようだった。あんな夜の明けた朝に、母は、いつも通りの声で、いつも通りに笑った。


——それに、泣きそうになった。

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