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第二話 その手は覚えていた


「父さん!」


ジンが叫ぶより早く、父のガルドは跳ね起きていた。板戸の隙間から差し込む赤い光を一目見て、父は何も訊かなかった。土間に降り、壁の斧を掴む。


「母さんとリゼを頼む」


それだけ言って、夜の中へ駆け出していった。


村は、もう起きていた。あちこちの家から人が飛び出し、水桶を持って走っている。燃えているのは、村外れの共同の納屋だった。刈り入れ前の、まだ半分も埋まっていない納屋。炎は屋根を突き破り、火の粉が夜空へ舞い上がっていた。


「桶を回せ! 川から汲め!」


「隣に燃え移るぞ、藁をどかせ!」


怒鳴り声が飛び交い、水をかぶった男たちが炎に挑んでいく。村じゅうの目が、村じゅうの手が、燃える納屋ただ一点に吸い寄せられていた。


「ジン、リゼの手を離さないでね」


母のミーナの声は、こんな時でも落ち着いていた。だが、ジンの手を掴むリゼの小さな手は、震えていた。


「おにいちゃん、おうち、燃えちゃうの……?」


「燃えない。納屋だけだ。みんなで消すから」


言いながら、ジンは胸の奥のざわつきが消えないことに気づいていた。


おかしい。


納屋には、火の気なんてない。かまども、灯りもない。あんな場所が、夜中にひとりでに燃えるはずがない。それに、さっきから犬たちが吠えているのは——燃える納屋とは、反対の方角だ。


悲鳴が、聞こえた。


火事とは、別の方向から。



男たちが、村の中にいた。


十人はいた。手に手に剣や斧を提げ、逃げまどう村人の間を、当たり前のような顔で歩いてくる。火事に群がる村の目を、火のない側から突く——それが最初から狙いだったのだと、後になればわかる。だがその時のジンには、ただ、悪い夢のようにしか見えなかった。


盗賊。


その言葉が浮かぶより先に、村の男たちが得物を手に立ちはだかった。鍬。鎌。薪割りの斧。昼間は畑を耕す道具が、震える手の中で武器の形をしていた。


「女子供を下がらせろ!」


村長の声が飛ぶ。ジンは母とリゼを連れて、家々の間を広場のほうへ走った。背後で、金属のぶつかる音がした。誰かの怒鳴り声と、誰かの悲鳴が続いた。


だめだ、とジンにもわかった。音だけで、わかってしまった。


村の男たちは強い。腕相撲なら、盗賊にだって負けないだろう。だが、これは腕相撲ではなかった。鍬は剣より重く、遅い。振りかぶった隙を突かれ、粉屋のおじさんが肩を斬られて転がるのが、家の隙間から見えた。鎌を構えた若い衆が、二人がかりで一人を止めるのがやっとだった。押されている。じりじりと、確実に。


「ダンの爺さんは!? 爺さんを呼べ!」


「いねえ! 小屋にも、どこにもいねえんだ!」


村でただ一人、剣で食ってきた男の姿が、こんな夜に限って、どこにもなかった。


父の姿が、一瞬だけ見えた。斧を構え、倒れた粉屋のおじさんを背に庇って、一歩も引かずに立っていた。だが、その父の周りにも、じわじわと人影が増えていく。


振り返ってはいけない。わかっているのに、足が止まった。


道の先に、男が立っていた。


逃げる方向を、読まれていた。羊を柵に追い込むように、初めからそこで待っていたのだ。男は剣を提げたまま、値踏みするようにこちらを見ていた。急ぐ様子もなかった。それが何より恐ろしかった。


母がジンとリゼを背に庇い、後ずさる。一歩。また一歩。背中が、家の壁に当たった。


もう、下がれない。


「……子供だけは。お願いします、子供だけは」


母の声が、初めて震えた。


リゼが、ジンの袖を握りしめている。泣き声すら、出ていなかった。恐怖が、幼い喉を塞いでいた。


男は答えなかった。ただ面倒くさそうに、剣を持ち上げた。交渉する気も、脅す気もない。道端の枝を払うのと同じ手つきだった。


ジンの頭は真っ白だった。足は根が生えたように動かない。喉は貼りついて、声も出ない。誰か。誰か来てくれ。父さん。誰か——十三年間の人生のどこにも、この瞬間に使えるものは何ひとつなかった。


刃が、振り上げられる。


母とリゼに向かって、落ちてくる。


——その時だった。



世界が、ゆっくりになった。


振り下ろされる刃の軌道が、なぜか、見えた。線を引いたように、はっきりと。刃そのものではない。男の肩の落ち方、腰の回り方、爪先の向き——そういうものの全部が、これから刃の通る道を先に教えていた。あの太刀筋なら、右足を半歩。


そう「わかった」時には、ジンの体はもう動いていた。


考えたのではない。体が、勝手に動いた。


半歩、右へ。風が頬をかすめ、刃が壁を打つ。火花。男の目が見開かれる。遅い、と思った。誰の考えなのか、わからないまま思った。振り下ろした剣は、次の動きに移るまでが遅い。その遅さの中は、どんな鎧より無防備だ——知らないはずのことを、体の芯が知っていた。


がら空きになった手元へ、ジンの手が吸い込まれるように伸びる。手首の急所を打ち、指の力が緩んだ剣の柄を、捻り、奪い取る。流れる水のような一連の動きだった。十三歳の、剣なんて祭りの飾り物でしか見たことのない少年の動きでは、なかった。


重い。


安物の、手入れの悪い、刃こぼれだらけの剣だった。なのに、手に馴染む。初めて握るはずの剣の重さを、この手はなぜか、知っていた。指が、柄のどこを握ればいいのかを知っていた。


男が体勢を立て直し、腰の短刀を抜いて突っ込んでくる。


来る。左の脇腹。突きは浅く、本命は組みつき——なぜそこまで「読める」のか、ジン自身にもわからなかった。ただ体は、慌てもせず、退きもせず、待っていた。敵が踏み込む、その一瞬を。呼吸ひとつ分の、その隙を。


男の爪先が、地を蹴った。


一閃。


自分のものとは思えない太刀筋が、闇に走った。受けて、いなして、返す——それだけの動きが、ひとつの音もなく繋がった。男が、崩れ落ちる。


背後で足音。仲間の異変に気づいた、もう一人。振り向く間もなく、体が勝手に反転し、返す刀が横に薙いだ。斬りかかってきた男が、自分の勢いのまま、声もなく倒れる。


静かになった。


遠くの火事の音が、急に戻ってきた。


ジンは、剣を握ったまま立っていた。息は、乱れてすらいなかった。心臓だけが、遅れて激しく打ち始める。


手のひらに、斬った感触が残っていた。硬くて、重くて、それでいて呆気ない、初めてのはずの感触。人を斬った。その言葉が頭の上を素通りしていく。恐ろしいと感じるべき場所に、なぜか、湖のような静けさがあった。


今のは、なんだ。


俺は、何をした。誰が——誰が、俺の体を動かした。


半歩の躱し方を。柄の奪い方を。踏み込みの隙を。誰が、この体に教えた。


答えを探して視線が落ちた先、手元の刃に、炎が映っていた。


揺れる、赤い炎が。



——炎。


その赤を見た瞬間、頭の中で何かが決壊した。


泥の冷たさ。頬に貼りつく、冷たい泥。薄れていく視界の端で、火の粉を噴いて崩れる梁。届かなかった手。伸ばして、伸ばして、泥しか掴めなかった手。


燃える柿の木。妹が好きだった、軒先の柿の木。母の名を、妹の名を呼びながら駆けた夜の道。返事の代わりに聞こえた、火のはぜる音。


尾根から見下ろした、燃える村。


裂けそうな肺。夜通し駆けた山道。燃える裏門。


黒い水のように流れ込んでくる敵兵。赤く染まった夜。


時が、逆さに流れていく。


いくつもの戦場。雨の日の泥、夏の日の血の匂い。隣で飯を食っていた男が流れ矢で死んだ日。笑いながら死んだように見えた、あの顔。数えるのをやめた、死んだ者たちの名前。名前。名前。


出立の朝。握り飯を持たせて笑った妹。深く頭を下げた、老いた母。


そして——静かな夜の、物見やぐら。川のように連なるかがり火。石のように重い瞼。腿を打つ拳。痛みで繋いだ夜。


いつも通りの、虫の音。


いつも通り——。


一瞬だけ、目を閉じた。


あれは。


あれは、俺だ。


夢で見た誰かの話ではない。遠い国の物語でもない。あの瞼の重さも、あの泥の冷たさも、あの届かなかった指先も、全部——俺のものだ。


炎の中で死んだあの男は、俺だ。守るために生き、守るために剣を振り続け、たった一夜、たった一瞬の眠りで、何もかも守れずに死んだ、あの侍は——俺だったのだ。


二つの炎が、重なる。


前世の故郷を呑んだ炎と、今、目の前で納屋を焼く炎が。あの夜、届かなかった手と、今、剣を握っているこの手が。二つの人生が、たった今、一本に繋がった。


俺は、死んだのだ。


あの炎の中で、一度死んだ。死んで——ここに、生まれた。ガルドとミーナの子として。リゼの兄として。ジンとして。十三年間、何も知らずに、この村の土の上で笑って生きてきた。


そして今夜、また炎が来た。


あの夜と、同じ炎が。



「退けッ! 引き上げろ!」


鋭い声が、夜を裂いた。


盗賊たちが、潮が引くように闇へ下がっていく。負傷した仲間を担ぎ、殿を残し、統率の取れた無駄のない退き方だった。ただの野盗の逃げ方ではない——そう感じたことの意味を、この時のジンはまだ知らない。


その最後尾。森の際で、ひとつの影が足を止めた。


指図する側の、影だった。顔は闇に沈んで見えない。ただその影が、ほんの一呼吸のあいだ、まっすぐにジンを見た——見られている、と肌でわかった。値踏みとも、恐れとも違う。もっと冷たい、帳面に書きつけるような視線だった。


次の瞬きの間に、影は消えていた。


「……おにいちゃん」


小さな声に、ジンは我に返った。


リゼが、母の腕の中から、こちらを見ていた。頬は涙でぐしゃぐしゃで、しゃくり上げながら、それでも兄の名を呼んでいた。母は、リゼを抱きしめたまま、壁ぎわにへたり込んでいる。二人とも、生きている。傷ひとつ、ない。


その事実が、ゆっくりと胸に染みてきた。


ジンは、自分の手を見下ろした。


奪った剣を握ったままの手。血に濡れた、十三歳の手。まだ豆ひとつない、畑仕事と水汲みしか知らないはずの手。


思い出したばかりの遠い記憶の中で、この手は泥を掴んだだけだった。呼んでも呼んでも届かず、燃える故郷の前で、ただ伸ばされただけの手だった。何十度も戦場で剣を振り、最後の最後で、いちばん大切なものに届かなかった手だった。


その手が、今。


母を、妹を、届く場所で守った。


「……今度は」


声が、掠れた。


今度は、間に合った。

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