第一話 侍は炎の中で死んだ
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夜の空気は、鉄と土の匂いをしていた。
男は物見櫓の上にいた。眼下の闇に、敵のかがり火が川のように連なっている。数えるのは、とうにやめていた。囲まれた最初の夜に数えて、ただ絶望しただけだったからだ。
籠城して、十日になる。
初めに尽きるのは矢だと思っていた。尽きたのは、矢より先に人だった。三日目に東の柵が破られ、押し返した。五日目、隣で飯を食っていた古株の足軽が、流れ矢一本で死んだ。笑いながら死んだように見えたのは、たぶん、笑う途中だったからだ。
七日目から、男は死んだ者を数えるのをやめた。名前を胸の中でたどるだけで、夜が明けてしまう。
握り飯が最後に回ってきたのは、いつだったか。腰の袋に、まだ一つ残っている。食う気力がなかった。顎を動かすことすら、億劫だった。腹が減っているのかどうかも、もう分からない。体はとうに、飢えよりも深いところで悲鳴を上げていた。
まともに眠ったのは、いつが最後だったか。思い出そうとして、やめた。思い出したところで、眠れる場所も、眠れる暇も、この城のどこにもない。
それでも、男は物見に立っていた。
城のはるか後ろ、山をひとつ越えた先に、男の生まれた村がある。老いた母と、妹がいる。出立の朝、妹は握り飯を持たせながら「次は祭りの頃に帰ってきて」と笑った。母は何も言わず、ただ深く頭を下げた。頭を下げる母を見るのは、あれが初めてだった。
城が落ちれば、敵は道なりに村々を焼く。それが戦というものだ。だからここで、一日でも長く敵を止める。難しい理屈ではなかった。男は生まれてこのかた、難しい理屈で動いたことがない。名のある武功も、褒美の加増も、縁のない話だ。ただ、守るものが後ろにあるから、前に立つ。それだけで、何十度も戦場に立ってきた。
瞼が、石のように重かった。
連日の斬り合いで腕は上がらぬほど張り、目の奥は焼けるように熱い。立ったまま、意識が二度、三度、途切れかけた。そのたびに男は自らの腿を拳で打った。痛みで、夜を繋いだ。
交代はいない。物見に回せる者が、もう残っていない。
風が、変わった。
男は目を細めた。闇は静かだった。かがり火の列も動かない。虫の音さえ、いつも通りに続いている。
いつも通り——。
その言葉に、ふ、と全身の力が抜けた。
一瞬だけ、目を閉じた。
叫び声で、目が開いた。
世界が、赤かった。
櫓の下が、すでに炎だった。夜襲。柵は破られ、敵兵が黒い水のように城内へ流れ込んでいる。虫の音と思っていたものの正体を、男は遅れて理解した。あれは、草を分ける音だった。闇に紛れて這い寄る、兵の音だった。
——俺は、眠ったのか。
どれほどの間かは、分からない。一呼吸か、十か。だが、夜襲の兆しを報せられる者は、この城に男しかいなかった。
男は櫓を駆け下り、走った。持ち場ではなく、裏手へ。山へ。村へ。
もう、城は落ちる。ならば、間に合ううちに。
燃える裏門を抜け、夜道を駆けた。肺が裂けそうだった。何度も転び、そのたびに立った。山を越え、空が白み始める頃、男は村を見下ろす尾根に立った。
村は、燃えていた。
敵の別の部隊が、とうに回り込んでいたのだ。あの城は、初めから囮に過ぎなかったのかもしれない。
男は坂を転げるように下った。燃える家々の間を、名を呼びながら駆けた。母の名を。妹の名を。返事の代わりに、火のはぜる音だけがした。
井戸の前で、敵兵と行き合った。三人。男は斬った。技ではなかった。ただ、止まれなかっただけだ。さらに二人。それから先は、数えられなくなった。
肩に熱が走り、次いで脇腹に走った。膝が、泥についた。
立とうとした。手は、泥を掴んだだけだった。
視界の端で、家の梁が火の粉を噴いて崩れる。妹が好きだった、軒先の柿の木が燃えている。
届かない。この手は、何にも届かなかった。
守るために振るい続けた腕だった。何十度、戦場に立ったか。そのすべてが——たった一夜の、一瞬の瞼の重さに、負けた。
薄れる視界の中で、男は炎に向かって手を伸ばした。
「……すまぬ」
誰に向けた言葉かは、自分でも分からなかった。母か、妹か、それとも、眠ってしまった己自身か。
闇が、落ちた。
◇
朝の光は、緑の匂いがした。
「ジーン! いつまで寝てるの!」
戸板が震えるほどの声に、ジンは寝床から跳ね起きた。窓の外、朝焼けのあぜ道で、幼馴染のエマが腰に手を当てて仁王立ちしている。
「水路の見回り、今日はあんたの家の番でしょ。あたし、もう畑に出てるんだけど?」
「……今、起きた」
「見れば分かるわよ、その頭」
リンデ村の朝は早い。ジンは今年で十三になる。物心ついた時から、この村の土と一緒に育ってきた。
顔を洗って外に出ると、妹のリゼが鶏を追いかけて庭を三周していた。
「あ、おにいちゃん! 見て、コッコが逃げるの!」
「追うから逃げるんだ」
「じゃあ追いかけっこにならないもん!」
それはそうだ、とジンは思った。三つ下の妹の理屈は、いつも妙に正しい。
水路は、村を出て森の際まで続いている。落ち葉をすくい、詰まりを取り除き、水を仕切る板を確かめて回る。地味な仕事だが、これを怠ると畑の水が偏り、誰かの家の麦が枯れる。だから村では、当番を欠かした者が一番叱られる。ジンは水面に映る空を眺めながら、仕切りの板を一枚ずつ叩いて確かめた。
戻る頃には、村はもうすっかり起きていた。かまどの煙がいくつも立ち、鍛冶の音が遠くで鳴り、井戸端では女たちの笑い声がしている。
午前は、父のガルドと畑に出た。父は口数が少ない。鍬の入れ方が浅いと、何も言わずに自分の鍬で正しい深さを示す。それだけで伝わるのだから、言葉は要らないのだろう。
昼は、村の真ん中の大菩提樹の木陰で、エマと並んで母の握り飯を食った。樹齢数百年と言われる大樹は、村の誰よりも年上で、集会も、子供の遊びも、昼寝も、村の何もかもをその木陰に入れてしまう。
「ジン、あんた昨日も川べりで寝てたでしょ」
「寝てない。目を閉じてただけだ」
「それを世間では寝てるって言うのよ」
エマは呆れ顔で笑って、握り飯を頬張った。村長の娘のくせに、食いっぷりは村の誰より豪快だ。
「あんたさ、大きくなったら何になるの」
「……考えたことない」
「でしょうね。あんた、見立ての日だって、何にも出なかったもんね」
三年前、村を回ってきた神官が、子供らを一人ずつ見た日のことだ。エマは水、粉屋のところの倅は火。誰にでも、何かしらは宿っている。ジンの番になって、神官はしばらく黙ってから、次の子を呼んだ。
それだけのことだった。母は少し困った顔をして、父は何も言わなかった。
「そうだな」
「そうだな、じゃないでしょ。もうちょっと悔しがりなさいよ」
エマは呆れたように言って、握り飯の最後の一口を放り込んだ。
「あたしは決めてるわよ。この村で一番口のうまい行商人と結婚して、街の菓子を毎日食べるの」
「相手が気の毒だ」
「なんですって?」
風が枝を揺らし、木漏れ日がまだらに動く。どこかで山鳩が鳴いている。言い合う二人の頭上で、大菩提樹はただ黙って葉を鳴らしていた。
午後は森の際まで薪を拾いに出て、帰りにリゼを肩車した。重くなったな、と言うと、リゼは「おにいちゃんが細いの!」と怒った。どちらも、たぶん正しい。
村へ戻る道で、森から出てくる年寄りと行き合った。
冒険者のダン爺さんだ。背中に狼の毛皮をひと巻き、腰にはゴブリンの討伐証をぶら下げている。四十年前からこの村に住み着く、万年Eランクの古株だ。腕は大したことがない、と本人がいつも笑う。それでも夜明けの森歩きだけは、雨の日も欠かしたことがない。森のゴブリンや狼を、群れになる前にちびちび狩る。爺さんに言わせれば「小遣い稼ぎ」だ。
「おう、ジン坊。リゼの嬢ちゃんも。ほれ、今日の獲物だ」
肩車の上のリゼが「おおかみ!」と歓声を上げ、爺さんは得意げに毛皮を叩いた。武勇伝が始まる前に、とジンは頭を下げて通り過ぎようとしたが、爺さんはふと森を振り返り、独り言のように付け足した。
「……近頃、森が騒がしくてなあ。ま、悪い年ってのは、たまにあるもんさ」
夕飯は麦の粥と、母のミーナが漬けた菜だった。
「おかわりはたくさんあるからね。慌てないで食べなさいな」
母はおっとりと言って、リゼの口の周りを拭いてやる。父は無言で椀を差し出した。それが父の「うまい」であることを、この家の全員が知っている。
食い終わる頃、リゼは母の膝で舟を漕ぎ始めていた。父がそれを軽々と抱え上げ、寝床へ運んでいく。母が器を下げながら、明日は晴れそうねえ、と誰にともなく言った。
戸口から見上げた空には、星が出ていた。村の真ん中で、大菩提樹の影が夜空より濃い黒さでどっしりと立っている。あの木は、ジンが生まれるずっと前からああして立っていて、ジンがじいさんになってもきっとああして立っている。村の大人は皆そう言うし、ジンもそう思っている。
なんでもない一日だった。
昨日と同じで、明日も同じはずの、一日だった。
◇
その夜。
ジンは、ふと目を覚ました。
理由は分からなかった。ただ、胸の奥が妙にざわついた。体のどこか深いところで、自分ではない誰かが「起きろ」と言った——そんな、覚えのない感覚だった。
耳を澄ます。
犬が、吠えている。一匹ではない。村のあちこちで、途切れずに。
夜に犬が鳴くことはある。狐か、鹿か、風の悪戯か。だが今夜の声は、いつもと違った。甲高く、忙しなく、怯えている。
隣の寝床では、リゼが健やかな寝息を立てている。両親の部屋からも、物音はしない。起こすほどのことか、と一度は思った。思ったのに、体は勝手に動いていた。
ジンは寝床を抜け出し、窓の板戸を細く開けた。
夜風が流れ込む。土の匂い。草の匂い。夜露の匂い。その奥に、ほんのかすかに、混じるものがあった。
焦げたような、乾いた匂い。
嗅いだ覚えのない匂いのはずだった。かまどの煙とも、野焼きの煙とも違う。なのに、うなじの毛が逆立った。心臓が勝手に速くなり、指の先が冷えていく。喉の奥が、乾いた。
なんだ、これは。
怖い、のとは違う。もっと古い、もっと深いところから込み上げてくる何かだった。理屈よりも先に、体が知っている。この匂いの先に何があるのかを、ジンの知らない誰かが、知っている。
板戸を大きく開けた。犬の声が、いっそう激しくなった。
——火の匂いだ。
遠くの空が、赤い。




