第六十一話 見立て
◇
母が、竈の前から顔を出した。父が、畑から手を上げた。エマが井戸端から「遅い」と怒鳴った。フィオナが「あんた、ほんとに勝手なのよ!」と走ってきた。
村長が、杖を突いて出てきた。
「三日だったな」
「はい」
「ちょうど、三日だ」
老人は、それだけ言って、家へ戻っていった。
◇
その夜、村長の家で、報告をした。
境の線のこと。石に彫られた一本の線のこと。刀を置いて越えたこと。土に描いた丸のこと。そして、こちら側にいる限り、投げ返さないという話がついたこと。
シャルロッテが、帳面に書き取っていた。書きながら、何度も手が止まった。
「……これを、父に報告しろと」
「はい」
「信じられるとお思いですの」
「思いません」
ジンは言った。
「ですが、伯爵様は、二十年、読まれない数字を書き続けた方です。……信じてもらえなくても、書いておいてください」
シャルロッテは、ペンを握りしめた。
「わたくしを、そういう役だと思っておられますのね」
「はい」
「……結構ですわ」
彼女は、書き続けた。
「読ませるのが、わたくしの仕事ですもの」
村長が、囲炉裏の灰をならした。
「で、ジン。結局、これからどうなる」
「魔物は、減ります」
ジンは、答えた。
「三年ぶんの、余計な分が。……ですが、元の分は残ります」
「元の分ってのは」
「森があって、村がある限り、出るものです」
「毎晩か」
「毎晩です」
村長は、ふ、と息を吐いた。
「変わらんな」
「変わりません」
「じゃあ、当番も続きだ」
「はい」
「柵も直さにゃならん。畑も起こし直しだ。……ああ、忙しい」
老人は、そう言って、少し嬉しそうな顔をした。
◇
伯爵は、その報告を、三日かけて読んだ。
読み終えて、最初に言ったのは、こうだった。
「信じん」
「はい」
「私は信じん。だが、書く」
伯爵は、机の上の紙を揃えた。
「二十年、私は天災の欄に辺境を書いてきた。天災だから、誰も動かん。……去年から、書く欄を変えた。変えたら、返事が来るようになった」
三通のうち、隣の伯爵領からの返事がいちばん早かった。柵の立て方を教えに来てほしい、という文だった。
王都からは、何も来なかった。
教国からは、一年経ってから、神官を一人寄越すという知らせが来た。
◇
冬が来て、明けた。
土間に寝ていた三人は、順に起きた。骨をやられた男がいちばん遅く、雪解けの頃にようやく畑へ出た。猟師の肩は、冬のあいだじゅう痛んだが、春には弓を引けるようになった。
粉屋は、いちばん早く立って、いちばん怒られた。
「まだ寝てなさいって言っただろうが!」
「寝てると腹が引きつるんだよ!」
婆さまと粉屋のその言い合いが、冬の村の朝の音になった。
畑は、思ったより早く戻った。焼けた土は、かえって肥えるのだと粉屋が言い、その通りになった。東の柵は、春までに建て直した。前より少し高く、杭の間隔を詰めた。
グレンツへ避難させるはずだった三十三人は、結局、一人も村を出なかった。
「出なくてよかったねえ」
婆さまの一人が、井戸端でそう言った。
「出てたら、うちらのいないとこで、あの七日があったんだよ」
伯爵の兵が、五十人、東の縁に置かれた。十年かかると言われた計画の、最初の一歩だった。
◇
ジンは、月に一度、近隣の村を回るようになった。
柵の立て方。鳴子の吊り方。逃げ道の作り方。囲みの手順。教えることは、決まっていた。強くなる必要はない、手順を守ればいい、と毎回同じことを言った。
三つ目の村で、若い男に言われた。
「めんどくせえよ、そんなの」
男は、鍬を地面に突き立てた。
「あんたが月に一度来てくれりゃ、それで済む話だろ。あんた、強いんだろ」
「強くありません」
「聞いてるぞ。四百から村を守ったって」
「守ったのは、村です」
ジンは、柵の杭を一本、持ち上げた。
「俺は、死にます。病気でも、怪我でも、年でも死にます。……そうしたら、この村はどうなりますか」
「……」
「杭は、俺が死んでも立っています。手順は、覚えた人が覚えている限り残ります。……残るものだけを、置いていきます」
男は、しばらく黙っていた。
それから、鍬を抜いて、言った。
「……どこに打つんだ、それ」
シャルロッテが同行し、数字を記録した。その数字は、王都へ送られた。
一年後、初めて、返書の文面が変わった。
魔物は、減った。
減ったが、なくならなかった。
ジンは、毎晩、森の際を歩いた。
線は、越えなかった。
◇
雪解けの前に、教国から手紙が届いた。
リディアからだった。
短い文だった。挨拶と、村の皆の無事を尋ねる言葉と、それから、三行。
『春に、神官が参ります。わたくしではありません。わたくしが行くと言えば、行かせてもらえませんでした』
『あの子のことは、何も申し上げておりません。これからも、申し上げません』
『どうか、あの子に、選ばせてあげてください』
ジンは、その手紙を、二度読んだ。
それから、リゼには見せずに、しまった。
◇
雪解けの頃、リゼが十になった。
神官が村を回ってくる年だ。
見立ての前の晩、ジンはリゼを外へ連れ出した。大菩提樹の下に座らせて、隣に座った。
「リゼ」
「なに」
「明日、何が出ても、お前はお前だ」
リゼは、膝を抱えて、しばらく黙っていた。
「……あたし、聖属性なんでしょ」
ジンは、驚かなかった。
籠城の四日目に、この子は三人に手を当てて、二人で止めた。止めさせたのは自分だ。あれから、村の誰も騒がなくなっていたが、誰も忘れてもいなかった。
「たぶんな」
「そしたら、あたし、教会に行くの?」
「行かない」
ジンは言った。
「行きたければ、行けばいい。行きたくなければ、行かなくていい。……それは、お前が決めることだ」
「決めていいの?」
「いい」
リゼは、自分の手のひらを見た。
「あたし、みんなを治せるのは、いいと思う。粉屋のおじさんも治ったし。……でも、そのために村を出るのは、やだ」
「なら、出なくていい」
「ほんとに?」
「ああ」
ジンは、妹の頭に手を置いた。
「誰かが来て、連れて行こうとしたら、俺が断る」
リゼは、少し笑った。
「おにいちゃん、断るの得意だもんね」
「……そうか」
「伯爵様のも断ったし、勇者様のも断ったって、エマちゃんが言ってた」
ジンは、返す言葉を持たなかった。
◇
翌日、神官がリゼを見た。
聖属性だった。
村中が、驚かなかった。驚く準備が、一年ぶんできていた。
神官が「これは教会に報告せねば」と言いかけた時、村長が「まあ、麦茶でも」と割って入り、粉屋が「うちの村の宝だ」と大声を出し、婆さまが「連れて行くなら村ごと連れて行け」と言った。
神官は、困った顔をして、帰っていった。
その晩、リゼは、いつもより早く寝た。
寝る前に、一度だけ、土間から顔を出した。
「おにいちゃん」
「なんだ」
「あたし、ここにいていいんだね」
「いい」
「じゃあ、いる」
戸が、閉まった。
ジンは、囲炉裏の火を見ていた。
明日は、溝さらいの当番だった。




