第六十二話 名乗り
◇
夏の初め、ジンは、両親を前に座った。
エマも呼んだ。リゼも起きていた。
囲炉裏の火が、静かに燃えていた。
「話があります」
父のガルドが、湯呑みを置いた。
母のミーナが、手を膝に置いた。
ジンは、火を見ていた。
——名乗れる自分になるまで。
四年前。エマに問われて、そう思った。捨てた名だと言った。名乗る資格の無い名だと。
あの時から、ずっと、その名は胸の底に沈めてあった。
守り抜いたから、名乗るのではない。
守り抜けたかどうかは、まだ分からない。来年も再来年も、森からは何かが出る。村は毎晩、誰かが守らねばならない。終わりは、ない。
ただ、一つだけ、変わったことがあった。
一人ではなくなった。
板きれの束を、村長が見つけた。粉屋が「言えよ、これからは」と言った。皆が夜を回すようになった。
七日の籠城の、五日目に、彼は眠った。眠っているあいだに、村は持った。
前世の彼は、一人で守ろうとして、一晩眠って、全部失った。
今の彼は、皆で守っていて、眠っても、朝が来る。
だから、話せると思った。
「俺には、前の生があります」
ジンは、言った。
「戦の多い国でした。俺は、そこで、下級の武士でした。……侍、といいます」
母が、口を押さえた。
父は、動かなかった。
「四十年、戦いました。人を斬りました。何人斬ったかは、覚えていません」
エマが、ジンの手を見ていた。
「最後の年、故郷が攻められました。俺は、物見をしていました。夜通し、櫓の上で見張る役です。十日続けて、代わる者がいませんでした」
火が、ぱち、と鳴った。
「十日目の夜に、目を閉じました。ほんの、一瞬のつもりでした」
誰も、何も言わなかった。
「気がついたら、村が燃えていました。母がいて、妹がいました。……間に合いませんでした」
ジンは、そこで一度、言葉を切った。
「俺は、その夜に死にました。そして、ここで、生まれました」
◇
長い沈黙のあと、母が言った。
「あんた、それで、眠れなかったのねえ」
ジンは、頷いた。
「四年、毎晩、森へ行っていたのも」
「……はい」
「馬鹿な子だねえ」
母は、そう言って、泣いた。
エマが、鼻をすすった。
「あたし、四年前に訊いたよね。あんた誰って」
「ああ」
「あの時、名前は捨てたって言った」
「言った」
「今は?」
ジンは、顔を上げた。
「守屋甚八」
そう、言った。
「もりや、じんぱち」
火が、揺れた。
「守屋が、家の名です。甚八が、俺の名でした」
リゼが、首をかしげた。
「じんぱち。……じん?」
「ああ」
「おにいちゃんと、同じ」
「……そうだな」
母が、涙を拭いながら、笑った。
「あたしがつけたのよ、その名前」
「……はい」
「生まれた日にね、静かな子だと思って。じっと、こっちを見てるの。……それで、ジンにしたの」
母は、鼻をすすった。
「なんでその名前にしたのか、自分でもよく分かんなかったんだけどね」
ジンは、母の顔を見た。
言葉が、出なかった。
四十年ぶんの名を、この人は、知らずに、もう一度つけてくれていた。
「……かたじけない」
そう言うのが、精一杯だった。
「なに、それ」
エマが、鼻声で笑った。
「侍の言葉だ」
「じゃあ、ちゃんと言いなさいよ」
ジンは、頭を下げた。
「ありがとうございます」
◇
エマを、井戸端まで送った。
日は落ちていた。月が、釣瓶の縄を白く照らしていた。
エマは、桶を持ったまま、しばらく何も言わなかった。
「聞いてもいい?」
「ああ」
「その名前、これから、みんなに名乗るの?」
「名乗らない」
「なんで」
「ここでは、ジンだ」
エマは、頷いた。
頷いてから、袖で目を擦った。
「……じゃあ、なんで言ったの」
ジンは、釣瓶に手をかけた。
かけたまま、動かなかった。
縄が、少し鳴った。
「約束をするには、名が要る」
「約束」
「ああ」
彼は、手を離した。
「行ってくる、と言う相手が、欲しい」
夜の虫が、鳴いていた。
エマは、桶を持ったままでいた。
それから、鼻から息を吐いた。
「……四年前から、おかえりって言ってるけど」
「そうか」
「そうか、じゃないでしょ」
エマは、桶を置いた。置いてから、また持ち上げようとして、やめた。
「馬鹿」
そう言った。
言ってから、両手で顔を覆った。覆ったまま、その場にしゃがみ込んだ。
肩が、揺れていた。
ジンは、その隣に立っていた。
虫が、鳴きやんで、また鳴き始めた。
◇
村長に言いに行くと、老人は杖を取り落とした。
「……いつだ」
「まだ、決めていません」
「秋だ」
村長は、杖を拾って、床を突いた。
「刈り入れの後にしろ。麦がある年にやれ」
母は、鍋を火から下ろすのを忘れて、焦がした。
父は、湯呑みを置いた。それから、こう言った。
「……食え」
リゼは、飛び上がって、そのまま外へ走っていって、村中に触れて回った。
半刻で、村の全員が知っていた。
◇
刈り入れは、豊作だった。
祝言は、その三日後に決まった。
支度は、村の女たちが取り仕切った。エマは何もするなと言われて、井戸端で桶を洗っているところを二度、引きずって連れ戻された。
粉屋が、グレンツから酒樽を運んできた。
「六つも要らんだろう」
「足りねぇよ」
「誰が飲む」
「俺だよ」
その樽は、結局、足りなかった。
◇
前の晩、ジンは、いつも通り草鞋の紐を締めた。
戸口を出たところで、当番の四人に止められた。
「行かせねぇぞ」
猟師が、腕を組んで立っていた。
「今夜は、俺らが回る」
「二人一組で足りますか」
「四人だ。数えろ」
「南の沢は、雨で足場が」
「知ってるよ。四年、あんたに聞かされてんだ」
猟師は、そう言って、顎で家のほうを指した。
「寝ろ。明日、寝坊したら、笑いもんだぞ」
ジンは、紐を解いた。
その夜、村は何事もなかった。
◇
当日は、晴れた。
大菩提樹の下に、筵を敷いた。村の全員が座って、それでも足りず、土手にまで人が座った。
伯爵が、朝いちばんに来た。兵は連れてこなかった。シャルロッテが後ろから現れて、「これは記録ではありませんわ。帳面は、置いてまいりました」と言って、両手を見せた。何も持っていなかった。
フィオナは、朝から泣いていた。泣きながら「あたし、絶対泣かないって決めてたのよ」と三度言い、三度とも泣いた。
ヴィオラが、杖を突いて来た。座って、飲み始めて、日が暮れるまで飲み、いちばん最後まで飲んでいた。
オルグは来ないと言っていた。
「わしは行かん。人が多いところは、うるさい」
そう言って断りの返事を寄越しておきながら、当日の朝いちばんに、いちばん前の席に座っていた。誰も、何も言わなかった。
猟師が、弓で的を射て見せた。肩は、もう痛まないらしかった。
婆さまたちが、順にエマの手を取った。
「よかったねえ」
「よかったよ」
「うちの村で、いちばん見どころのある子だと思ってたんだよ」
「あんた、去年もそう言ってたよ、別の子に」
村長が、立ち上がった。
杖を突いて、二人の前に立って、なかなか口を開かなかった。
四十年、村長をやってきた老人が、言葉を探していた。
「……忙しくなるぞ」
そう言った。
「柵も直さにゃならん。畑も起こし直しだ。溝さらいもある。当番も回る。……そのうえ、所帯だ」
老人は、杖で地面を突いた。
「ああ、忙しい」
笑いが、起きた。
◇
日が暮れて、火が焚かれた。
粉屋が歌った。下手だった。若い衆が手拍子を打ち、子供が転んで泣き、婆さまが叱り、犬が吠えた。
リゼが、エマの隣に座って、袖を握って離さなかった。
ヴィオラが、伯爵に酒を注いだ。伯爵は、断らずに飲んだ。
シャルロッテが、フィオナに何か言い、フィオナが「あんたも飲みなさいよ」と言い、シャルロッテが一口飲んで咳き込んだ。
火の粉が、大菩提樹の葉の下で、ゆっくり上がっていった。
ジンは、その全部を見ていた。
隣で、エマが笑っていた。
◇
翌朝、ジンは、いつもの刻に起きた。
外へ出ると、粉屋が、既に溝の縁に立っていた。
「よお」
「おはようございます」
「今日、溝さらいだぞ」
「知っています」
「新婚だからって、勘弁してやらねぇからな」
「はい」
粉屋は、鍬を放って寄越した。
ジンは、それを片手で受け取った。
「東の三本目からだ。去年の落ち葉が詰まってる」
「はい」
「終わったら、柵の南だ。杭が二本、緩んでる」
「見ておきます」
「あとな」
粉屋は、鍬を担ぎ直した。
「昼は、うちで食え。かみさんが、余ったのを煮直してる」
「いただきます」
村の朝の音が、いつも通りに始まっていた。桶の音。竈の煙。婆さまの声。子供が走る足音。
昨日と、何も変わらなかった。
◇
その夜も、ジンは森へ出た。
戸口で、エマが「行ってらっしゃい」と言った。母が「早く帰りなさいよ」と言った。リゼが眠そうな目で手を振った。父は、何も言わずに湯呑みを置いた。
柵の門で、当番の四人とすれ違った。
「よお、ジン」
「お疲れさまです」
「今夜は、南から回るぞ」
「お願いします」
門を出た。
森の際まで、いつもの道を歩く。秋の草の匂いがする。
大菩提樹の下で、百振ってきた。板きれに、丸を一つ、刻んできた。
——何日目かは、もう数えていない。
一日目から、ずっと続いている。それだけが、分かっていた。
森の際に立ち、耳を澄ませた。
風の音。梟が一度鳴いて、やんだ。獣の足音が、遠くで一つ。逃げていく方向を聞いて、追う必要のないものだと判断した。
線は、越えない。
こちら側で、待つ。
歩いて、何もなかった。
もう少し歩いて、やはり、何もなかった。
——今日も、静かだ。
ジンは、刀を鞘に納めたまま、また歩き出した。




