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第六十話 境の線

◇


三日、考えなかった。


考える必要が、なかったからだ。


森の際で受けた視線を、ジンは、その晩から毎夜、確かめに行った。三度とも、あった。遠くならず、近くもならず、同じ場所から、同じ長さで、こちらを見ていた。


——来い。


そう言われている、と思った。思い違いかもしれなかった。


思い違いなら、それでいい。行って、何もなければ、帰ってくればいい。


四日目の朝、ジンは村長の家へ行った。


「三日、留守にします」


「東か」


「はい」


村長は、杖を持ったまま、しばらく黙っていた。


「止めても、行くな」


「行きます」


「じゃあ、止めん」


老人は、それだけ言った。


戸口で、エマが待っていた。


何も訊かなかった。水の革袋と、握り飯を三つ包んだ布を、押しつけるように渡した。


「行ってくる」


「……三日でしょ」


「三日だ」


エマは、それ以上、何も言わなかった。


言わずに、家の中へ入っていった。入る時に、一度だけ、こちらを見た。


◇


ソラは、柵の外で待っていた。


「おせぇよ」


「すみません」


「三日って言ったよな。三日ぴったり来やがった」


「言いましたので」


エルネスタとアリシアとリディアは、村に残った。エルネスタが「三人は連れて行くだけ荷物になるわ」と言い、アリシアが「怪我人の手当てが残っております」と言い、リディアが小さく頭を下げた。


歩き始めて、半日で、森の様子が変わった。


木が太くなった。下生えが減り、代わりに苔が増えた。倒木が、倒れたまま朽ちずに残っている。


音が、なかった。


鳥がいないのは、二年前からだ。だが、ここには虫の音もなかった。風で葉が擦れる音だけが、ずっと続いていた。


「なあ」


ソラが言った。


「魔物、出なくね?」


「出ません」


「なんで」


「たぶん、いないからです」


「いや、大魔境だろ、ここ」


「はい」


ジンは、周りを見た。


「ですが、村に来ていたものは、全部、外へ運ばれています。……ここは、空になった場所です」


◇


二日目に、境の線を越えた。


線は、目に見えなかった。


だが、ジンには分かった。


そこから先で、空気の重さが変わった。踏んだ土が、こちらを踏み返してくるような感じがした。三年、毎晩森の際を歩いてきた男の足の裏が、そこに何かがあると言っていた。


「止まってください」


「あ?」


「線があります」


「線?」


ソラは、地面を見た。


「なんもねぇじゃん」


「あります」


ジンは、しゃがんだ。


苔の上に、古い石が一つ、半分埋まっていた。人が置いた形をしていた。角が丸くなっていて、何百年か、そこにあったように見えた。


石の上に、線が彫ってあった。


一本の、まっすぐな線だった。


「……なんだこれ」


「境です」


「誰が置いたんだよ」


「分かりません」


ジンは、石に手を触れた。


冷たかった。


——ここから先は、こちらのものではない。


そう言われている気がした。


言われ方に、覚えがあった。自分が三年、森の際で毎晩やってきたことと、同じ形をしていた。


◇


線の向こうで、ジンは、刀を鞘ごと外した。


「おい」


ソラが、驚いた顔をした。


「何やってんだよ」


「置いていきます」


「魔王いんだぞ」


「はい」


「丸腰で行く気か」


「向こうが、線を引いています」


ジンは、鞘を石の手前に置いた。


「線の内側で待つ、というのが、俺のやり方です。……こちらが越える時は、越える側の作法があるはずです」


「意味わかんねぇ」


ソラは、そう言って、剣の柄に手をかけたままだった。


かけたまま、抜かなかった。


抜かなかったのが、彼なりに何かを考えた結果なのか、ただ気圧されたのかは、分からなかった。


◇


三日目の昼、木が途切れた。


窪地だった。


底に、水があった。池というほど大きくはない。湧いているのか、水面がゆっくり動いている。


その脇に、それはいた。


大きさを、ジンは、後になっても言葉にできなかった。木のようだったとも、獣のようだったとも言えた。苔と蔓に半分埋もれていて、どこまでが体で、どこからが森なのか、分からなかった。


動かなかった。


だが、見られていた。


森の際で三年、こちらを見ていたものと、同じ視線だった。


「……あれかよ」


ソラが、低い声で言った。


「あれが、魔王?」


ジンは、答えなかった。


窪地へ、一歩下りた。


刀は、持っていなかった。


◇


三歩下りたところで、体が、動かなくなった。


殺気ではなかった。押されているのでもなかった。


ただ、そこから先へ行くことを、許されていない、という感じだった。


ジンは、止まった。


止まって、その場に膝をついた。


そして、地面に、指で丸を一つ描いた。


三年、板きれに刻んできた丸と、同じものだ。一日一つ、百振ったら一つ。何のためでもなく、続けている印だった。


なぜそれを描いたのか、自分でも分からなかった。


言葉が通じないなら、言葉でないもので言うしかない。そう思った時、手が勝手に動いていた。


しばらく、何も起きなかった。


それから。


窪地の底の、苔と蔓の塊が、わずかに動いた。


太い枝のようなものが、伸びてきた。


ジンは、動かなかった。


枝の先が、ジンの描いた丸の、すぐ隣の土に触れた。


そして、丸を一つ、描いた。


◇


その土には、既に、窪みがあった。


古い窪みだった。同じ場所を、ずっと前に、何度も叩かれた跡だ。苔が生えかけていて、雨で崩れかけていて、それでも、丸い形が残っていた。


ジンは、その窪みを見ていた。


見て、息が止まった。


——誰かが、先に来ている。


ずっと前に。同じ場所に膝をついて、同じことをした者がいる。


ウルヴァルト、という名を思い出した。


オルグの工房で聞いた名だ。何百年か前に、東方から流れ着いた剣士。反りのある片刃を提げていた男。その名が、この森の古い呼び名でもあるのだと、シャルロッテの帳面のどこかで読んだ気がした。


「……あなたは」


ジンは、口を開いた。


「ここに、いたのですか」


答えは、なかった。


言葉が返ってこないことは、初めから分かっていた。


だが、伝わったかどうかは、別の話だった。


◇


ジンは、土の上に、線を引いた。


石に彫ってあったのと同じ、まっすぐな一本の線だ。


線の手前に、丸を一つ描いた。村のつもりだった。


線の向こうに、丸を一つ描いた。この窪地のつもりだった。


そして、村の丸から線へ向かって、指を止めた。


越えない、という意味で。


枝の先が、動いた。


窪地の丸から線へ向かって、同じところで、止まった。


それだけだった。


言葉は、一つもなかった。


だが、ジンには、話がついたと分かった。


◇


「なあ」


後ろで、ソラが言った。


声が、少し掠れていた。


「訊いていい?」


ジンは、答えなかった。


ソラは、窪地の底へ向かって、声を張った。


「還りの門って、どこにある」


風が、木を鳴らした。


「聞こえてんだろ。俺、勇者だぞ。……門だよ。元の世界に帰るやつ。あんたが守ってんだろ」


苔の塊は、動かなかった。


「おい」


ソラは、一歩、前に出た。


「返事しろよ」


返事は、なかった。


拒まれたのではなかった。無視でもなかった。


通じていなかった。


何を訊かれているのか、そもそも分かっていない。ジンには、それが分かった。分かってしまった。


門は、無い。


守ってもいない。隠してもいない。三百年、誰も、この窪地まで来なかった。だから誰も、この沈黙を聞かなかった。


◇


ソラは、しばらく、そこに立っていた。


それから、剣の柄から手を離した。


「……嘘じゃん」


そう言った。


「聖典に書いてあるっつったんだぞ、あのじいさん。三百年前から書いてあるって」


「……」


「読み間違えてんじゃねぇのかよ。あいつら、誰も来たことねぇんだろ、ここ」


「はい」


「はい、じゃねぇんだよ!」


ソラは、木を蹴った。


苔が、ばらばらと落ちた。


「三年だぞ。俺、三年これやってんだぞ。帰れるっつうから、やってたんだよ。……ふざけんな」


彼は、そこにしゃがみ込んだ。


しゃがみ込んで、両手で頭を掻きむしった。


ジンは、何も言わなかった。


言う言葉を、持っていなかった。


◇


帰り道で、ソラが言った。


「決めた」


「はい」


「俺、魔王はいなかったって報告する」


「……」


「倒せませんでしたじゃなくてさ。そもそもいなかった、って突き止めた、って言う。……そのほうが手柄だろ」


彼は、前を向いたまま歩いていた。


「倒せませんでしたは、負けた奴の言い方だ。いませんでしたは、調べた奴の言い方だ。俺、負けてねぇもん」


ジンは、その背中を見ていた。


その報告をすれば、帰る道は、彼の手で消える。


門を守る魔王がいる限り、望みは残る。いないと報告した瞬間に、探すべき先が無くなる。


ソラは、それを分かって言っていた。


分かった上で、自分の得になるほうを選んでいた。


「あのさ」


「はい」


「あんた、俺に何か言いたそうな顔してんな」


「……していません」


「してるって。……言えよ」


ジンは、少し考えた。


「お疲れさまでした」


ソラは、足を止めて、こちらを見た。


「は?」


「三年、歩かれたのでしょう。……それは、俺には、分かります」


ソラは、口を開けて、それから、閉じた。


「……意味わかんねぇ」


そう言って、また歩き出した。


◇


境の石のところで、ジンは刀を拾った。


腰に差した。


ソラが、それを見ていた。


「なあ」


「はい」


「最後にもう一回だけ言うけど」


彼は、指を突きつけた。


「決めた。お前、俺の仲間にしてやる」


三月前と、同じ言葉だった。


同じ順番で、同じ顔で、同じように言った。三月のあいだに、彼の中で、何一つ動いていなかった。


ジンは、頭を下げた。


「すまぬ。俺の戦場は、ここだ」


「なんでだよ」


「ここに、村があるからです」


「そんだけかよ」


「そんだけです」


ソラは、しばらく、こちらを睨んでいた。


それから、舌打ちをした。


「意味分かんねぇ。……なんでだよ」


三月前と、同じ言葉だった。


◇


村の柵が見えたところで、ソラは、街道のほうへ折れた。


エルネスタたちが、荷を積んで待っていた。話は、既についているようだった。


「じゃあな」


「はい」


「あ、そうだ」


ソラは、村のほうを見た。


粉屋が、焼け跡の柵を直していた。座り込んだまま、若い衆に指図をしていた。


「じゃあな、……粉屋のおっさん」


粉屋が、顔を上げた。


「おう」


それだけだった。


ソラは、馬に乗って、西へ行った。


一度も、振り返らなかった。


◇


「あの子」


エルネスタが、去り際に言った。


杖を突いて、面倒くさそうな顔をしたまま、こちらを見ていた。


「三年、あなたみたいな人に一度も会わなかったのよ。……会っても、たぶん、同じだったでしょうけど」


「……はい」


「言っておくけど、私たちは、あの子が嫌いなわけじゃないの」


彼女は、鞍に手をかけた。


「こいつがいなければ、私たちは三回死んでいるわ」


そう言って、馬を歩かせた。


「三回とも、こいつのせいで死にかけたんだけどね」


◇


三日目の夕方に、村へ戻った。


柵の門で、リゼが最初に見つけた。


「おにいちゃんだ!」


叫んで、走ってきた。ジンは、屈んで受け止めた。妹の体は、去年より重くなっていた。


「おかえり!」


「ただいま」

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