第五十九話 割に合わん
◇
朝、ジンは焼け跡を歩いた。
雪が、灰の上に薄く積もっていた。踏むと、下から黒い水が滲んだ。
畑の畝は、もう分からなかった。水路を引き直したのは去年の秋だ。その線も、どこにあったか分からない。
灰の中に、それがあった。
鉄だった。
太い鉄の枠が、ねじれて、炎で歪んでいる。太さから見て、檻だ。人が二人ほど入るくらいの。
引きずった跡が、東へ続いていた。
ジンは、しゃがんで、鉄の表面を撫でた。
刻印があった。
「……シャルロッテさん」
呼ぶと、帳面を抱えた娘が来た。刻印を見て、顔色が変わった。
「これは」
「ご存じですか」
「ヴェルガの、軍需の印ですわ」
シャルロッテは、震える指で、その紋をなぞった。
「間違いありません。父の書庫に、押収品の記録があります。……なぜ、こんなものが」
ジンは、東の森を見た。
「運んできたんです」
「運ぶ?」
「大魔境から、これに入れて。……夏に、俺たちが沢の上流で見た、引きずった跡と同じです」
シャルロッテの手から、帳面が落ちた。
「では、あの群れは」
「湧いたのではありません」
ジンは言った。
「投げられたんです」
◇
伯爵は、その鉄を、自分の手で持ち上げようとした。
持ち上がらなかった。兵を四人呼んで、ようやく村まで運ばせた。
村長の家の前に置かれた鉄の枠を、伯爵は長いこと見ていた。
「シャルロッテ」
「はい、お父様」
「写せ。刻印を、正確に。寸法も」
「もう写しましたわ」
伯爵は、娘を見た。
それから、少しだけ、笑った。
「二十年、私は帳面をつけてきた」
彼は言った。
「辺境の魔物被害は、天災の欄に書いてきた。天災だから、王都は兵をよこさん。……天災でないなら、話が変わる」
「王都は、信じますかしら」
「信じん」
伯爵は、あっさり言った。
「だから、三通出す。王都と、教国と、隣の伯爵領だ。……一つが握り潰されても、二つ残る」
シャルロッテは、頷いた。
「では、教国宛はわたくしが書きますわ。あちらは、数字より聖典を読みますの。書き方を変えませんと」
「……いつ覚えた、そんなことを」
「三年、辺境におりましたので」
◇
ソラは、村に残った。
三日、いた。
焼け跡を蹴って回り、伯爵の兵に絡み、粉屋に酒を出させて、婆さまに叱られていた。エルネスタが「早く発ちましょう」と言うたびに、「まだ」と答えていた。
四日目の朝、ジンのところへ来た。
「なあ」
「はい」
「あれ、誰が投げてんの」
「帝国です」
「じゃなくてさ」
ソラは、東を指した。
「魔物、どっから持ってきてんのって話。あんな数、その辺にいねぇだろ」
「大魔境の、奥からです」
「じゃあ奥だな」
彼は、あっさり言った。
「元を潰せば終わる。ここで待ってても、また投げられるだけだろ。……何回やんだよ、あの籠城」
ジンは、答えなかった。
答えられなかった、というほうが近い。
ソラの言っていることは、正しかった。三月前も正しかった。今も正しい。
「だからさ」
ソラは、続けた。
「俺、奥行くわ。……で、あんたも来い」
「……」
「道、知ってんだろ。沢の上流まで一緒に行ったし。あんたがいたほうが早いんだよ」
「三日、考えさせてください」
「考えんなよ。決めろよ」
ソラは、そう言って、坂を下りていった。
◇
同じ日の朝、東の尾根で、ギュンター・ファルケンラート将軍は、双眼の筒を下ろした。
「終わったな」
隣で、レナートが頷いた。
「はい」
「四百投じて、村は落ちん。逆に、王国の兵二百と、勇者を呼び寄せた」
将軍は、筒を鞍に戻した。
「グラム殿の技術は、大したものだ。四百を一つの方向へ動かした。三年前には誰にもできんかった」
「はい」
「だが、勘定が合わん」
将軍は、雪の上に地図を広げさせた。
「東から回る道は三本。北の二本は補給が延びる。使えるのは、この南の一本だけだった」
指が、リンデ村を指した。
「その戸口に、あの村がある。あの村を落とさねば、道は開かん」
「はい」
「四百の魔物で落ちんかった。では、兵ならどうだ」
レナートは、少し考えて、答えた。
「二千は要ります」
「なぜだ」
「柵と、鳴子と、逃げ道と、訓練された住民。それだけなら、三百でも落ちます」
レナートは言った。
「ですが、勇者が来る前の六日、あの村は、農夫だけで持ちました」
「六日」
「はい。六日目には、立てる者が十二だったはずです。……それでも、持ち場が空きませんでした」
将軍は、地図を見ていた。
「あの男か」
「あの男が、いちばん効いています。ですが、あの男だけではありません」
レナートは、続けた。
「あの男を潰すには、夜襲が使えません。夜は、あれの領分です。昼に攻めれば、住民は逃げます。逃げた住民は、山へ入る。山狩りをすれば、また日数がかかる。……日数がかかれば、王国軍が北から回ってきます」
将軍は、しばらく黙っていた。
「二千を、辺境の村一つに割けるか」
「割けません」
「割いたとして、我々が得るものは何だ」
「道が一本」
「道一本のために、二千と、日数と、勇者の注意を引く危険」
将軍は、地図を巻いた。
「割に合わんな」
その一言だった。
四年、レナートが書き続けた報告の全部が、その一言に集約された。
「東は諦める」
将軍は言った。
「正面で睨み合う。……そのほうが安い」
◇
天幕を畳む段になって、グラムが抗議した。
「お待ちください。次は八百投じます。八百なら——」
「八百投じても、同じだ」
将軍は、遮った。
「貴殿の魔物は、揃って歩く。揃って歩くものは、揃って止められる。……あの村の男は、それを六日かけて証明した」
「一人の農民の話ですぞ」
「そうだ」
将軍は、あっさり認めた。
「一人の農民が、四年、毎晩森を歩いた。それだけの話だ」
そして、こう続けた。
「その『それだけ』を、我が国は、四百の魔物と、貴殿の三年の研究と、二千の兵で崩さねばならん。……釣り合っておらんだろう」
グラムは、口を開き、閉じた。
将軍は、馬に乗った。
「レナート」
「はい」
「長かったな。……お前の報告は、正しかった」
レナートは、頭を下げた。
頭を下げたまま、しばらく上げられなかった。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「言え」
「将軍は、あの村を、惜しいとお思いですか」
ギュンターは、西の空を見た。
村の煙が、細く上がっている。焼けた畑の煙ではない。竈の煙だった。
朝飯を炊いている煙だ。
「惜しいな」
将軍は言った。
「ああいう村が、我が国の東にもあれば、私は今頃、家で孫の顔を見ておる」
◇
昼過ぎ、ジンは、東の森の際に立っていた。
背後で、村が動いていた。焼けた畑の灰を掻き、崩れた柵の杭を数え、怪我人に湯を運ぶ音がする。
伯爵の兵が、村人と一緒に土を掘っていた。
——終わった。
そう思おうとして、思えなかった。
森が、静かすぎた。
秋までの静けさとは、質が違う。溜めている静けさは、何かが向こうに詰まっている静けさだ。
今日の静けさは、違った。
何かが、いる。
いて、動かずにいる静けさだった。
首の後ろが、粟立った。
——見られている。
夏に感じたものと、同じ視線だった。だが、遠くなかった。あの時は五百歩の向こうにあった気配が、今は、森の際のすぐそこにあるように感じられた。
ジンは、動かなかった。
視線は、長く続いた。
百を数えるほど。
それから、退いていった。ゆっくりと、東へ。
退きながら、何かを言い残していったような気がした。言葉ではない。もっと単純なものだ。
——来い。
そう言われた気がした。




