第五十八話 呼んだのはそっちだからな
◇
伯爵は、馬から下りると、まず、柵を見た。
村の門ではなく、柵を見た。抜けた場所、板を継いだ場所、内側へ引いた線。それを、端から順に目でたどった。
「六日か」
「はい」
「東を捨てたな」
「五日目に」
「誰が決めた」
「村長です」
伯爵は、頷いた。
それから、初めて村のほうを見た。焼けた納屋。空の畑。土間から這い出してきて、地面に座り込んでいる粉屋。井戸の縁を拭いている婆さま。
「兵は二百三十だ」
伯爵は言った。
「私が出せる全部だ。北の街道の守りを空にしてきた。……これで落ちれば、私の帳面は二十年ぶんが無駄になる」
「割に合いませんね」
「合わん」
伯爵は、少し笑った。
「合わんが、来た」
◇
四人が着いたのは、それから半刻ほど後だった。
先頭の一人が、走ってきた。馬を降りて、村までの最後の坂を走ってきた。
「ジンさん!」
ソラだった。
外套の裾が泥まみれで、髪が汗で額に張りついている。息が上がっていた。柵の前で膝に手をついて、しばらく肩で息をした。
「……クソ、遠ぇんだよ、ここ」
「よく来てくださいました」
「勘違いすんなよ」
ソラは、顔を上げた。
「呼んだのはそっちだからな」
「はい」
「俺、南の入り口まで行ってたんだぞ。あと二日で奥に入るとこだった。それを、あの女が馬で追っかけてきて」
彼は、後ろを親指で指した。
坂の下で、フィオナが馬を引いていた。三日、乗り続けた顔をしていた。鞍から下りる時に、足がもつれていた。
ジンは、その顔を見た。
「フィオナ」
「……なに」
「おかえり」
フィオナは、口を開けて、それから、目を擦った。
「ずるいってば、そういうの」
◇
「で」
ソラが、言った。
「貸しだからな、これ」
「はい」
「一つじゃねぇぞ。三日ぶんの日数と、坂を走った分と、あと、あの門が二日遠のいた分」
「はい」
「だから、終わったら来い」
ソラは、まっすぐに言った。
「あんた、この前は断ったけどさ。今度は貸しがある。……普通、返すだろ」
ジンは、東の森を見た。
日が、傾いていた。森の際に、影が並び始めている。
「行きません」
ソラの顔から、表情が抜けた。
「……は?」
「行きません」
「いや、貸しって言ったよな。俺、今、貸しって言ったよな」
「言われました」
「じゃあなんで断んだよ!」
ソラは、地面を蹴った。
「意味わかんねぇんだよあんた! 俺、走ってきたんだぞ! 三日! 三日走ってきて、断られんのかよ!」
「はい」
「はい、じゃねぇんだよ!」
ジンは、頭を下げた。
「ですが、今夜のことは、頼みます」
「……」
「返せるもので、返します。返せないものは、返せないと言います。……そうしないと、次に何かを頼む時に、あなたが困ります」
ソラは、しばらく、ジンを睨んでいた。
それから、舌打ちをした。
「あー、もういい」
彼は、剣の柄に手をかけた。
「別にあんたが来なくても、俺は勝つし」
◇
日が沈むと、群れが動き始めた。
森の際に並ぶ影が、四百を超えて、まだ後ろから列が来ていた。
「うわ」
胸壁の上で、ソラが声を上げた。
「なんだこれ。……これ、揃ってんじゃん」
「はい」
「魔物って、こんな並ぶ?」
「並びません」
「じゃあ何」
「並べた者がいます」
ソラは、東の闇を見た。
彼が真面目な顔をしたのを、ジンは、この時初めて見た。
「……あの七匹の、五十倍以上あるぞ」
「はい」
ジンは、東の畑を指した。
村長が捨てた畑だ。柵はもう無く、雪の下に、踏み荒らされた土が広がっている。
「あそこは、開けています」
「あ?」
「遮るものがありません。村から百歩。……あなたの力は、開けた場所で、遠くの敵に、まとめて使うためのものだと言いました」
「言ったけど」
ソラは、顔をしかめた。
「あれ、畑だろ。燃えるぞ」
「焼いてください」
「いや、麦とか植えんだろ、そこ」
「六日前に、村が捨てました」
ジンは言った。
「捨てたのは、こういう時のためです」
ソラは、ジンを見た。それから、畑を見た。
「……あっそ」
彼は、剣を抜いた。
「じゃ、遠慮なく」
◇
その夜のことを、村人は長く語り継いだ。
胸壁の内側に立った男たちが見たのは、こういう光景だった。
まず、東の畑が、燃えた。
炎が、地面を舐めるように走った。列を作って歩いてきた影が、一斉に燃え上がる。だが火は畑の縁で止まった。村の側へは、一歩も来なかった。
次に、風が起きた。
炎を抱いた風が、渦を巻いて東へ流れる。後続の列を、根こそぎ吹き飛ばした。
続いて、地面が盛り上がった。
畑の土が壁になって立ち上がり、森から出てくる列を堰き止めた。堰き止めたところへ、また炎が落ちた。
「……なんだ、ありゃ」
粉屋が、地面に座り込んだまま、口を開けて言った。
「あれが、勇者か」
「勇者です」
隣で、ジンが答えた。
「あんた、あれと一緒に行かなかったのか」
「はい」
「なんでだ」
「あれは、俺の仕事ではないので」
ジンは、そう言って、刀を抜いた。
「行きます」
「え」
「あれで死なないものが、必ず出ます。焼け残ったものが、脇から回ってきます。……そちらが、俺の仕事です」
◇
事実、そうなった。
炎と風が届かない場所——森の縁、岩の陰、沢筋。そこから抜けてきたものを、ジンが潰した。
伯爵の兵が、村の南と西を固めた。訓練された兵は、確かに強かった。だが、彼らは魔物と戦い慣れていない。
「一人で当たらないでください!」
ジンは、兵の間を走りながら叫んだ。
「三人で一匹! 正面は退かず、横は半呼吸待って、後ろは塞ぐ!」
兵たちは、一瞬、戸惑った。
その戸惑いを、粉屋が破った。
「聞け! そいつの言う通りにしろ!」
座ったままの農夫が、伯爵の兵に怒鳴った。
「俺らは、それで、六日持ったんだ!」
兵の一人が、慌てて位置を直した。もう一人が、それに合わせた。三人組ができた。
一匹、止まった。
「……できたぞ」
「もう一回だ! 二組目、前へ!」
村長の声が、飛んだ。腰の曲がった老人が、伯爵の兵を捌いていた。
◇
夜半、東の畑は焼け野原になっていた。
ソラは、畑の縁で、膝をついていた。
「おい」
ジンが行くと、ソラは顔を上げた。汗が、湯気になっていた。
「……まだいる?」
「減りました」
「減った、じゃなくてさ。まだいる?」
「います」
「クソが」
ソラは、立ち上がった。
立ち上がる時に、剣を杖にした。
「なあ」
「はい」
「あんたら、これ、六日やってたのかよ」
「はい」
「毎晩」
「はい」
ソラは、村のほうを見た。
婆さまが桶を運んでいた。若い衆が、板を継いでいた。土間の戸が開いて、湯気が出ていた。
「……意味わかんねぇ」
そう言って、彼は、また前を向いた。
「もう一回いくぞ。どけ」
◇
明け方には、森の際に、何も並んでいなかった。
焼け野原の上に、雪が降り始めていた。細かい雪だった。灰の上に落ちて、すぐ黒くなった。
伯爵の兵が、村人と一緒に、水を運んでいた。
粉屋が、婆さまに叱られながら土間へ運ばれていった。猟師が、寝たまま「終わったのか」と訊いて、「終わったよ」と言われて、また眠った。
リゼが、起きてきた。
三日ぶりに目を覚まして、土間の入り口に立って、外を見ていた。
「……おにいちゃん」
「起きたか」
「みんな、いる?」
ジンは、村を見渡した。
数えた。
三十八。
「いる」
リゼは、それを聞くと、その場にしゃがみ込んで、泣き出した。
七日目の朝だった。




