第五十七話 当番表
◇
六日目の朝、ジンは、村長の家の壁の前に立っていた。
当番表の板が、掛かっている。裏返して使っているので、表の面には、去年の秋の水路当番の名が残っていた。
炭が、板の下の釘に吊るしてあった。
ジンは、それを取って、東の欄に自分の名を書いた。
「おい」
村長の声が、後ろでした。
「何をしとる」
「書きました」
「書くなと言うたはずだ」
「言われました」
ジンは、板を振り返らずに言った。
「ですが、昨日の勘定は、十七人のものです。今朝、立てるのは十二人です。二百四十歩を十二で持つと、一人二十歩になります」
「……」
「二十歩は、持てません」
炭を、釘に戻した。
「十三人なら、十八歩です。まだ持てません。ですが、二十よりは近い」
村長は、しばらく黙っていた。
杖を突いて、板の前まで来た。ジンの書いた字を、目を細めて見た。
「下手な字だ」
「すみません」
「三年、この村の帳面に、あんたの名前はなかった」
老人は言った。
「柵を打った日も、鳴子を張った日も、あんたは書かれとらん。勝手に夜に出て、勝手に朝に帰ってきとった。……表の外にいたわけだ」
村長は、板を指で叩いた。
「今日から、中にいろ」
「はい」
「中にいるってのはな、持ち場を離れるなってことだ。……勝手に一人で走るな。持ち場でだけ、働け」
ジンは、頷いた。
三年、誰にも言われたことのない叱られ方だった。
◇
東の畑は、空だった。
焼けた納屋が、まだ細く煙を上げている。柵の杭が、倒れたまま雪に埋もれていた。畑の畝は、踏み荒らされて、形がなくなっている。
森の際には、影が並んでいた。
減っていなかった。
ジンは、目で区切って、数を見積もった。四つに区切って、一つを数えて、四倍する。
三百を超えていた。
六日で、こちらが減らした数は、百に届いていない。
「増えとるように見えるがな」
粉屋が、隣に来て言った。
「増えているのではありません。……奥から、まだ出てきています」
「まだ出るのかよ」
「はい」
「どんだけ溜めたんだ」
ジンは、答えなかった。
答えは、知らなかった。だが、答えの形は、少しずつ見えていた。
——溜めた者は、いつか、溜め終わる。
溜め終われば、あとは、こちらが持つかどうかだけの話になる。
◇
昼、シャルロッテが数を読んだ。
「薪が、あと九日ぶんですわ」
「食い物は」
「二十四日ぶん。ですが、湯の量を落とせません」
「水は」
「井戸が囲いの中に入りましたので、心配はいりませんわ。……ただ」
彼女は、帳面を閉じた。
「立てる者が、十二から増えませんの」
土間に、寝かされた者が増えていた。
猟師は、また熱が出ていた。三日目に杭の下敷きになった男は、リゼの手当てで息が戻ったが、まだ座れない。腿を裂かれた若い衆は、座れるが立てない。
リゼは、朝から眠っていた。
昨日、二人やって、そのまま寝ている。婆さまが時々、口に水を含ませていた。
ジンは、妹の顔を見た。
顔色は、悪くなかった。ただ、深く眠っていた。
「起こさないでください」
「起こしゃしないよ」
婆さまが言った。
「起きたら、また、やるって言うからね。……寝てるうちが、あの子の休みだ」
◇
六日目の夜が、いちばん長かった。
来たのは、北と西から、同時だった。
東を捨てたので、囲いは短い。短いということは、どこを突かれても、隣が近いということだ。それは良いことのはずだった。
良いことだったが、人が足りなかった。
十三人が、十八歩ずつ持った。
一つの持ち場が破れると、隣が寄る。寄ると、隣の隣が薄くなる。薄くなったところが、また破れる。
夜半に、北の柵が二箇所、同時に抜けた。
「板!」
婆さまの声が、飛んだ。
婆さまたちが、板を持って走ってきた。四人だ。いちばん若い者で、六十を過ぎている。板を抜けた場所に立て、体重をかけて押さえた。
「早くおし! いつまでも持てないよ!」
若い衆が二人、走り込んだ。
板の後ろに、三人組ができた。
ジンは、西にいた。
西へ行くと決めた時、北を見なかった。見れば、行きたくなる。行けば、西が空く。西が空けば、井戸へ至る道が開く。
——持ち場でだけ、働け。
朝に言われた言葉を、そのまま使った。
自分の十八歩の中だけを、見た。
◇
粉屋が倒れたのは、明け方だった。
斬られたのではない。膝が、折れた。
四日、立ち続けていた。腹の傷が引きつって、そこから先が動かなくなった。
倒れた粉屋の上に、若い衆が二人、かぶさった。
「持ち場! 持ち場は!」
粉屋が、地面から怒鳴った。
「持ってます!」
「なら、放っとけ! 俺は寝てるだけだ!」
若い衆は、粉屋を引きずって下がり、それから、走って戻った。
三人組が、二人組になった。
二人組のところへ、ジンが入った。
西の持ち場から、三歩だけ動いた。三歩なら、西も見える。三歩で足りるように、家の位置を選んで立った。
一匹、落とした。
二人組が、三人組に戻った。
そこから、朝までだった。
◇
七日目の朝、村は立っていた。
死んだ者は、いなかった。
立てる者は、十二人に戻った。粉屋が倒れ、若い衆が一人加わった。差し引き、変わらなかった。
朝飯を食う手が、震えていた。
婆さまが、粥をよそいながら言った。
「今日は、豆を入れたよ」
「なんでだ」
「最後のを出したんだ。食べときな」
誰も、その意味を訊かなかった。
◇
昼、村長が、動ける者を集めた。
八人だった。
「勘定を言う」
老人は、板を出さなかった。板を持つ手が、震えていたからかもしれない。
「今夜は、持たん」
誰も、驚かなかった。
「囲いは二百四十歩。立てるのが十二。夜に立てるのは、たぶん十だ。……一人二十四歩になる」
「岩場は」
若い衆が訊いた。
「開けるかどうか、だな」
村長は、東の空を見た。
「逃げ道は三本ある。北の岩場、西の林、南の川原だ。西と南は、あの二十騎に見られとる。北の岩場は、見られとらん」
「じゃあ、北へ」
「岩場は、二十人が三日、隠れられる場所だ。……三十八人は、入らん」
土間が、静かになった。
「誰を入れるかを、今から決める」
村長は言った。
「わしは、決められる。四十年、村長をやっとる。……だが、決める前に、一つ訊く」
老人は、皆の顔を見た。
「ほかに、手はあるか」
◇
手は、なかった。
ジンにも、なかった。
三年、備えを積んできた。柵を三重にし、村の中を狭くし、稽古を重ね、逃げ道を三本作った。全部、今夜のためにやってきたようなものだった。
その全部を使って、六日、持った。
七日目は、持たない。
ジンは、そう言うべきだと思った。言わないほうが、たちが悪い。
口を開きかけた時、櫓の上で、声がした。
「……煙?」
若い衆の声だった。
「煙じゃない! 砂だ! 西だ! 西の街道!」
土間の八人が、いっせいに立った。
◇
ジンは、櫓に登った。
登る途中で、二度、手が滑った。
西を見た。
街道に、砂煙が上がっていた。冬の乾いた道を、大勢が踏んでいる。旗が見えた。ヴァレンシュ家の紋だった。先頭に、馬上の男がいる。二十年、帳面をつけてきた男だった。
「伯爵様の旗! 二百——いや、もっといるぞ!」
村中が、どよめいた。
婆さまが泣き出した。若い衆が櫓の柱を叩いた。粉屋が土間から這い出してきて、「どこだ、どこだ」と言っていた。
ジンは、西を見ていた。
だが、彼が見ていたのは、旗ではなかった。
もっと後ろだった。
街道の外れ、砂煙の届かないところに、別の一団がいた。
四人。
そのうちの一人が、馬を降りて、走っていた。
ジンは、櫓の手すりを掴んだ。
掴んだ手に、力が入らなかった。入らないまま、掴んでいた。
「……間に合った」
そう呟いた。




