第五十六話 勘定の外
◇
運ばれた記憶は、断片しかない。
誰かが脇の下に手を入れた。粉屋の声がした。婆さまが「頭、頭!」と怒鳴った。戸の敷居を越える時に、爪先が引っかかった。
土間の藁の上に下ろされた。
そこで、目が開いた。
「……柵を」
「まだ言うか」
粉屋の顔が、真上にあった。
「西の柵を、内側へ引いてください。井戸が外に出ます。水が汚れたら、七日もちません」
「聞いた」
「それから、北の道の出口に、土嚢を」
「聞いたって言ってんだろ」
粉屋は、そう言って、上着を一枚、ジンの上にかけた。
「もう、聞いたよ。……三回目だ、それ」
ジンは、口を閉じた。
三回言った覚えは、なかった。
◇
村長は、板を持ってきた。
炭で線を引いた、当番表の板だ。裏返して、白いところへ、新しく線を引き始めた。
土間に、動ける者が集まった。十人ほどだった。あとは持ち場か、寝ているか、寝かされているかだ。
「まず、数を出す」
村長は言った。
「村に三十八。うち、鍬を振れるのが二十二だった。……今朝、十七だ」
炭が、板を叩いた。
「五人減った。死んどらん。だが、立てん」
土間の誰も、口を開かなかった。
「柵の長さを言うぞ。東が百二十歩。北が九十。西が八十。南が六十。……全部で三百五十歩だ」
村長は、そこで顔を上げた。
「三百五十歩を、十七人で持つ。一人あたり、二十歩だ。二十歩は、持てん」
「じゃあ、どうするんだ」
猟師が、片腕を吊ったまま訊いた。
「短くする」
村長は、炭で、東の線を横に消した。
「東を、捨てる」
◇
粉屋が、立ち上がった。
「じいさん」
「言うな」
「東は、畑だぞ。去年、水路を引き直したところだ。納屋も二つある。あそこを捨てたら、来年の——」
「粉屋」
村長は、炭を置いた。
「あんたの親父が建てた納屋を、あんたは一昨日、自分で剥がした」
粉屋の口が、止まった。
「板が要るからだ。今度は、歩数が要る」
老人は、板を持ち上げて、皆に見せた。
東の線が、消えていた。代わりに、村の中央寄りに、新しい線が引かれている。家々の裏の、仕切りを作った線だ。
「東を捨てりゃ、囲いは二百四十歩になる。十七人で、一人十四歩だ。……十四歩なら、持てる」
「畑は」
「作り直せる」
村長は言った。
「作り直せんもんだけ、囲いの中に入れる。人と、井戸と、麦と、薪だ。……それ以外は、全部、外に出す」
土間が、静かになった。
やがて、粉屋が、頭を掻いた。
「……分かった」
そして、こう付け足した。
「あの納屋、俺が焼く。あいつらに使われたくねえ」
◇
村長は、板の隅に、もう一つ線を引いた。
「これで、一人、浮く」
「浮くって、なんだ」
「持ち場に立たんでいい奴が、一人できる」
老人は、炭の先を、ジンのほうへ向けた。
「あんただ」
ジンは、藁の上で、体を起こそうとした。
起きられなかった。腕が、思った場所に置けなかった。それでも、口は動いた。
「それは、勘定が合いません」
「合うぞ」
「東を捨てれば、道が二本増えます。増えた道の一本は、俺が——」
「ジン」
村長は、遮った。
「あんたは、勘定に入っとらん」
「……」
「わしはな、この三日、あんたを数に入れて勘定してきた。十七のうちの一人としてじゃねえ。柵の外にいる何かを、いくつか減らす何かとして数えてきた。……それが、間違いだった」
老人は、板を膝に置いた。
「勘定に入れられるもんは、減ったら足せる。人が減れば、婆さまに立ってもらう。杭が抜けたら、納屋を剥がす。……勘定の外にあるもんは、壊れたら、替えがきかん」
村長は、それから、少し声を落とした。
「あんたが今夜倒れたら、この村は、明日から数え直しだ。……そういう意味で言っとる。あんたのためじゃねえ」
去年の春にも、同じ形の理屈を、この老人から差し出された。
断れないように作られた理屈だった。
今度も、そうだった。
◇
寝られる場所を作られた。
土間の奥、いちばん火の近いところだ。婆さまが上着を三枚重ね、猟師が自分の毛布を置いていった。子供が桶に水を汲んできて、枕元に置いた。
ジンは、横になった。
目を閉じた。
外の音が、聞こえた。
板を打つ音。土嚢を運ぶ足音。若い衆が数を数えている声。婆さまが誰かを叱っている。雪を掻く音。
数えた。
板の音が七つ。足音が四人ぶん。桶が二つ。
数えるのを、やめられなかった。
音が一つ減ると、なぜ減ったのかを考えた。考えると、目が開いた。
天井の梁が、火の明かりで揺れていた。
——籠城の、五日目だ。
そう思った瞬間に、体の芯が冷えた。
思ってはいけないことを、思った。
◆
十日、籠城していた。
初めに尽きるのは矢だと思っていた。尽きたのは、人だった。三日目に東の柵が破られ、押し返した。五日目に、隣で飯を食っていた男が、流れ矢で死んだ。
七日目から、死んだ者を数えるのをやめた。
十日目の夜、物見に立っていた。
交代はいなかった。回せる者が、もう残っていなかった。腕は上がらぬほど張り、目の奥が熱かった。立ったまま、幾度も意識が飛びかけた。飛びかけるたび、腿を拳で打って繋いだ。
風が、変わった。
闇は静かだった。火の列も動かない。虫の音も、いつも通りに続いていた。
いつも通りだ、と思った。
その言葉に、全身の力が抜けた。
一瞬だけ、目を閉じた。
——目を開けたら、明るかった。
夜が、終わっていた。
体は、櫓の板の上にあった。膝が折れて、柱にもたれた形で、首だけが前に落ちていた。よだれが、胸当ての上で乾いていた。
空が、赤かった。
朝焼けだと思った。
方角が、逆だった。
山をひとつ越えた先の空が、赤かった。
◆
それから先のことを、男は、順番に思い出せない。
城を出たことは覚えている。誰かに何か怒鳴られたことも。走ったこと。途中で足がもつれて、二度、転んだこと。
村に着いた時、火は、もう小さくなっていた。
家の形が、なくなっていた。
男は、母を探した。妹を探した。名を呼んだ。声はすぐに嗄れて、それでも呼んだ。焼けた梁を素手でどけた。手が焼けたが、痛みは後から来た。
見つけたのか、見つけなかったのか。
そこだけが、どうしても思い出せない。
思い出せないまま、男は、来た方角へ歩き出した。剣を提げて。走れなくなっても歩いて、歩けなくなっても、まだ足を前に出して。
そして、名も残らぬ道の途中で、斬り死んだ。
守るために、生涯、剣を振ってきた男だった。
たった一夜、たった一瞬、目を閉じただけで、全部を失った男だった。
◇
「ジン」
目を、開けた。
エマが、枕元に座っていた。
いつから座っていたのか、分からなかった。土間の火は、さっきより小さくなっている。外の音も、減っていた。
「起きてたでしょ」
「……ああ」
「目、開いてた。ずっと」
エマは、桶の水を椀に汲んで、差し出した。
ジンは、片手で受け取った。手が震えて、少しこぼれた。
こぼれた分を、エマは黙って布で拭いた。
「怖いの?」
訊かれた。
こういう時、この娘は、遠回りをしない。
ジンは、椀を持ったまま、動かなかった。
それから、言った。
「……前に、一度だけ、目を閉じた」
◇
エマは、何も言わなかった。
ジンは、話した。
十日、籠もっていたこと。三日目に東の柵が破られたこと。五日目に、隣にいた男が死んだこと。七日目から、数えるのをやめたこと。交代がいなかったこと。
そして、十日目の夜に、一瞬だけ目を閉じたこと。
「目を開けたら、朝だった」
自分の声が、遠かった。
「空が、赤かった。……朝焼けだと思った。方角が、逆だった」
エマは、動かなかった。
「山の向こうに、村があった。母がいた。妹がいた。……行った時には、家の形が、なかった」
「……」
「探した。見つけたのかどうか、覚えていない。そこだけ、どうしても、思い出せない」
ジンは、椀を置いた。
「それから、死んだ」
土間の火が、ぱち、と鳴った。
「三年、夜に出ていたのは、眠るのが怖かったからだと、思われている。……半分は、そうだ」
彼は言った。
「もう半分は、違う。目を閉じても、何も起きないという証しが、毎晩、欲しかった。夜に出て、何もない朝を迎える。それを、一日ずつ、積んでいた」
「……積めた?」
「積めなかった」
ジンは、天井を見た。
「三年積んで、今日、五日目だ。籠城の五日目だ。……同じ形をしている」
◇
エマは、すぐには何も言わなかった。
やがて、口を開いた。
「違うわよ」
ジンは、目を動かした。
「違う?」
「うん。全然違う」
エマは、指を折った。
「あんた、その時、交代がいなかったって言ったでしょ」
「ああ」
「今は、いるじゃない」
指が、一本立った。
「東の柵、捨てるって決めたのは、村長でしょ。あんたじゃない」
二本目。
「西の土嚢積んでるの、粉屋さんと若い衆でしょ。あんたじゃない」
三本目。
「怪我した人の手当て、婆さまとリゼでしょ。あんたじゃない」
エマは、指を三本立てたまま、ジンの顔の前に出した。
「あんたがいなくても、今夜、村は回るの。……それって、あんたが三年かけて作ったものでしょ」
ジンは、その三本の指を見ていた。
「回らなかったら」
「回らなかったら、起こす」
エマは、あっさり言った。
「あたしが起こす。ここに座ってるから」
「……眠るかもしれん」
「起こすってば」
エマは、少し笑った。
「安心して。あんた、起きるの下手だから、三回言うわよ」
◇
ジンは、目を閉じた。
閉じた瞬間に、また、赤い空が出た。
出たが、今度は、その上に、別の音が重なった。
板を打つ音がした。誰かが「そっち持て」と言った。婆さまが鍋を掻いた。子供が走った。若い衆が数を数えた。
音が、続いていた。
音が続いているうちは、村がある。
——今夜は、いい。
そう思ったのは、去年の春だった。
今夜、思ったのは、少し違うことだった。
——今夜も、いい。
◇
その夜、村は東を捨てた。
粉屋が、自分の親父の建てた納屋に火を入れた。よく乾いた板が、勢いよく燃えた。東の畑が、その明かりで、朝のように見えたという。
囲いは、二百四十歩になった。
十七人が、一人十四歩を持った。
森の際から出てきたものは、東の柵がないので、すんなりと畑まで入ってきた。入ってきて、燃えている納屋の前で、いったん止まった。火を嫌ったのだ。
止まっている間に、村は、位置についた。
その夜、同時に接した数は、多い時で六。少ない時で三。
柵は、抜かれなかった。
◇
明け方近く、村長が土間を覗いた。
ジンは、眠っていた。
村長は、それを確かめて、戸を閉めた。閉めてから、杖に体重を預けて、しばらくそこに立っていた。
「……四十年、村長をやっとる」
外の若い衆に、そう言った。
「今夜が、いちばん長かった」
「持ちましたね」
「持った」
村長は、東の空を見た。
まだ、暗かった。
「あの男が寝とる間に、持った。……それが、いちばんの手柄だ」
◇
エマは、朝まで座っていた。
一度も、起こさなかった。
日が昇って、土間に光が入った頃、彼女は、寝ている男の肩を叩いた。
「ジン」
返事はなかった。
「ジン」
まだ、なかった。
エマは、三度目に、少し声を大きくした。
「ジン。……朝よ」
目が、開いた。
ジンは、天井を見た。それから、戸の隙間から入っている光を見た。
明るかった。
自分の手を見た。手があった。指が、動いた。
外で、音がしていた。桶の音。誰かの咳。婆さまの声。雪を掻く音。
ジンは、体を起こした。
起きられた。
「……エマ」
「なに」
「何か、あったか」
エマは、あくびをして、それから、言った。
「なんにもなかったわよ」
ジンは、その言葉を、聞いていた。
「六日目だ」
そう言って、立ち上がった。




