第五十五話 小さい手
◇
四日目の昼、シャルロッテが数を読み上げた。
「怪我をした者、十一。動けないのが三人。柵は、東の外側が全損、内側が二箇所。畑が一枚、外に出ましたわ」
村長の家の土間だった。座っているのは、六人だけだ。あとは全員、持ち場か、寝ているかだった。
「薪が、思ったより減っております。湯を沸かしすぎですの」
「湯は減らせん」
村長が言った。
「傷を洗わんと、死ぬ」
「ですから、申し上げているだけですわ。……あと十七日です」
ジンは、その数を聞いていた。
十七日。
七日で決まる、とシャルロッテは言っていた。四日目が終わったところだ。数の上では、まだ足りている。
足りていないのは、別のものだった。
◇
土間の隅に、三人が寝かされていた。
一人は、猟師だ。肩の傷が、昨夜、開いた。熱が出ている。
一人は、若い衆。腿を裂かれて、血が止まりにくい。
もう一人は、三日目の夜に柵を押していた男だった。杭が倒れた時に、下敷きになった。骨が折れている。呼吸のたびに、浅く、短い息をしていた。
婆さまたちが、順に湯の布を替えていた。
「ジン坊」
婆さまの一人が、顔を上げずに言った。
「リゼを、呼んでもいいかね」
ジンは、答えなかった。
「あたしらの手当ちゃ、限りがあるんだよ。……この骨のは、たぶん、中で折れたのが刺さってる」
「……」
「あんたが決めることじゃないのは、分かってる。あの子が決めることだ。だからね、あたしは、あんたじゃなくて、あの子に訊きに行くよ」
婆さまは、そう言って、立ち上がった。
◇
リゼは、すぐに来た。
来た時には、もう手を洗っていた。
「どこ」
「そこの、息が浅いのだ」
リゼは、寝かされた男の脇に膝をついた。
顔を覗き込んだ。
「痛い?」
男は、答えられなかった。目だけを、動かした。
「……痛いね」
リゼは、そう言って、両手を胸に置いた。
光が出た。
夏に見たものより、白かった。婆さまたちが、息を呑んだ。
長かった。
夏の四人は、どれも、数えて三十ほどで終わっていた。今度は、百を過ぎても終わらなかった。リゼの背中が、少しずつ丸くなっていった。額から、汗が落ちた。
光が、消えた。
男の息が、深くなった。
リゼは、そのまま、後ろへ倒れた。
婆さまが、受け止めた。
「はい、終わり。水だよ」
段取りは、夏のうちにできていた。誰も慌てなかった。水を飲ませ、藁の上へ運び、上着をかけた。
リゼは、目を閉じたまま、口だけ動かした。
「……あと、二人」
「今日はもう、いいんだよ」
「二人、いるもん」
◇
ジンは、妹の枕元に座った。
小さい手を取った。
熱くはなかった。夏に同じことをした時と、同じだった。だが、指の先が、細かく震えていた。
「リゼ」
「起きてる」
「今日は、寝ろ」
リゼは、目を開けた。
「おにいちゃんは、寝ないのに?」
ジンは、言葉に詰まった。
「おにいちゃん、三年、毎晩行ってたでしょ」
「……」
「みんな寝てる時に、行ってたでしょ。リゼ、知ってた。ずっと前から知ってた」
リゼは、天井を見ていた。
「起きて、いなかったもん。夜」
ジンは、妹の手を握ったまま、動けなかった。
「だからね」
リゼは言った。
「リゼも、やる。ここにいる人が痛いから、やる。……おにいちゃんと、おんなじ」
「……同じではない」
「なにが違うの」
答えられなかった。
答えられないことを、この子は分かって訊いている。そんな気がした。
「リゼ」
ジンは、ようやく言った。
「二人やったら、寝ろ。三人はやるな」
リゼは、少し笑った。
「うん」
◇
その日、リゼは二人やった。
二人目の後、三日眠るような眠り方をした。婆さまが枕元に付いて、時々、口に水を含ませた。
猟師の熱は、下がった。
腿の若い衆は、血が止まった。
村の土間に、生きている息が三つ、増えた。
ジンは、その土間を出て、柵へ向かった。
歩きながら、自分の膝が、いつもより高く上がらないことに気づいた。
雪の上を歩いているせいだと、思うことにした。
◇
四日目の夜は、西から来た。
東ではなかった。
森の際の影が、東の柵の前で膨らんで、そこから左へ流れた。村の北を回って、西へ。
「西だ! 西へ回ってる!」
櫓の若い衆が叫んだ。
西は、薄かった。
三年、備えを厚くしてきたのは東だ。西は街道側で、魔物の来る方角ではなかった。柵は一重で、鳴子も間隔が広い。
「六組、半分西へ! 東は三組で持て!」
ジンは、櫓を下りながら怒鳴った。
下りる時、足が、一段、踏み外した。
◇
西の柵は、四半刻で抜かれた。
抜かれることは、分かっていた。分かっていたから、そこで止めるつもりはなかった。
村の中に、入られた。
だが、村の中は、二十日かけて、狭くしてあった。
家々の間に板と土嚢の仕切りがある。広い場所がない。井戸の周りだけが開けていて、そこへ至る道は、三本に絞ってある。
入ってきたものは、広い場所を探した。
そして、井戸へ向かった。
「井戸だ! 三本とも塞げ!」
粉屋の声だった。
ジンは、いちばん北の道へ回った。
三匹が、こちらへ来ていた。
家の壁と壁の間、人が二人並べる幅だ。ここでは、三匹は横に並べない。縦に並ぶしかない。
縦に並んだものは、一匹ずつ来る。
一匹ずつ来るものは、一人で足りる。
ジンは、そこに立った。
◇
音は、ほとんどしなかった。
一つ落として、半歩下がり、二つ目の踏み込みに合わせて、また落とす。三つ目は、逃げようとした。逃がすと、家の裏へ回る。回られると、婆さまたちのいる家に出る。
追わなかった。
追う代わりに、壁を蹴って、先に道の出口へ立った。
出てきたところを、落とした。
肩で息をしていることに、後から気づいた。三匹で肩が上がるのは、三年で初めてだった。
井戸のほうで、声が上がっていた。
行くと、粉屋の組が、二匹を挟んでいた。婆さまが井戸の桶を投げつけていた。若い衆が、後ろから足を払った。
ジンが着いた時には、終わっていた。
「……遅えぞ」
粉屋が、息を切らしながら言った。
「すみません」
「謝るな。……終わってんだから、それでいい」
◇
明け方までに、村の中のものは、全部片づいた。
数えると、十四だった。
十四が村の中に入って、井戸の水は汚れず、家は一軒も焼けず、そして、死んだ者はいなかった。
婆さまが、井戸の縁を拭いていた。
「明日、桶を作り直さないとねえ」
そう言っていた。
ジンは、井戸端に立っていた。
立っていた、と、自分では思っていた。
◇
村長が来た時、ジンは井戸の縁に手をついていた。
「ジン」
返事をしようとした。
声が、出た。出たが、自分の思った半分の大きさだった。
「……終わりました」
「そうか」
「西の柵は、内側へ引きます。井戸を、囲いの中に入れないと、明日、同じことに」
「ジン」
「井戸が外に出ると、水が」
「ジン」
村長の杖が、雪を突いた。
ジンは、続きを言おうとした。
言おうとして、膝が、折れた。
手が井戸の縁を滑って、体が前に落ちた。落ちる途中で、自分の手が地面をつかもうとしているのが見えた。つかんだ。つかんだが、腕が持ち上がらなかった。
雪が、冷たかった。
冷たいのは分かるのに、立つための力の在り処が、どこにも見つからなかった。
三年、朝が弱かった。
だが、これは、朝が弱いのとは違った。
——起きられない、のではない。
そう思った。
——立てない。
◇
村長は、何も言わなかった。
杖を突いて、しゃがんだ。老人の膝が、雪の上で鳴った。
それから、村の中央のほうを向いて、大きな声を出した。
「おおい」
朝の煙が、上がり始めていた。
「誰か、来てくれ」
その声が、やけに遠くから聞こえた。




