第五十四話 持ち場
◇
二日目の昼、粉屋は、飯を三杯食った。
食えと言われたからだ。村長が、飯は三度食えと言った。腹は減っていなかったが、減っていないというのは、たぶん、まずい印だった。
椀を返しに行くと、婆さまが鍋の底を掻いていた。
「三杯目かい」
「悪いか」
「悪かないよ。あんた、去年も食えなくて、それで倒れたんだからね」
粉屋は、腹の傷跡を、上着の上から掻いた。
去年の冬に貰った傷だ。腹から胸まで、斜めに走っている。冬になると、いまだに引きつる。あの晩、狼の爪が入った時のことを、粉屋はほとんど覚えていない。覚えているのは、その後で、小さい手が胸に置かれた感触だけだ。
「今年は倒れねえよ」
「そうしとくれ」
婆さまは、鍋を持ち上げた。
「あんたが倒れると、皆が前に出るんだ」
◇
村は、静かだった。
昼は、そういうものらしかった。魔物は、明るいうちは森の際から動かない。並んで、こちらを見ている。数えるのをやめてから、二日経つ。
若い衆が、櫓の下で刃物を研いでいた。
「粉屋のおっさん」
「なんだ」
「昨日、俺、二匹止めた」
「そうか」
「三人でだけどな。……でも、二匹だ」
粉屋は、その顔を見た。
十九か、二十だ。去年の冬は、岩場へ逃げる側にいた歳だった。今年は、一本道に立っている。
「いいか」
粉屋は言った。
「止めたって数えるな」
「なんでだよ」
「数えると、増やしたくなる」
若い衆は、分かったような、分からないような顔をした。
粉屋は、それ以上言わなかった。言えるほど、自分が分かっているわけでもなかった。
◇
二日目の夜は、六匹で始まった。
いつもは、四か五だ。一本道の幅と、柵の絞りで、そうなるようにできている。三年、ジンがそう言い続けてきた。同時に来るのは、道の幅までだ、と。
だが、この夜は六匹だった。
後ろから、押されているからだった。
「幅が、広がってるぞ!」
猟師の声が、飛んだ。
「柵の際が、削られてる! 土だ! 土を掻いてやがる!」
粉屋の組は、正面だった。
自分と、若い衆が二人。三人で一匹。正面は退かず、横は半呼吸待って、後ろは塞ぐ。
三年、耳にたこができるほど繰り返した順番だ。
粉屋は、退かなかった。
鍬の柄で、飛びかかってきた一匹の顎を突いた。押し返されて、足が滑った。滑ったまま、退かなかった。横から若い衆が入って、脇腹を打った。もう一人が、後ろへ回り込んだ。
一匹、倒れた。
「次!」
粉屋は、怒鳴った。
自分の声が、去年より低いことに気づいた。
◇
保った場所と、保たなかった場所があった。
保ったのは、正面の三組だ。去年の冬、一本道に立った男たちだった。
保たなかったのは、東寄りの、若い衆だけの組だった。
粉屋がそれを知ったのは、悲鳴が上がった時だった。
顔を向けると、東の柵際で、人の輪が崩れていた。三人組の一つが、二つに割れている。一人が、前に出すぎていた。
前に出た若い衆は、悪くやってはいなかった。
そこが、まずかった。
一匹の腕を打ち、よろけさせ、あと一つで倒せる形になった。倒したくなった。追った。
三人組が、二人組になった。
二人組は、一匹を止められない。
「戻れ!」
粉屋は、走った。腹の傷が引きつって、途中で息が上がった。
猟師のほうが、早かった。横から入って、若い衆の襟を掴んで、引き倒した。倒れたところへ、二匹目が来た。猟師が、その上に覆いかぶさった。
肩を、やられた。
◇
猟師は、自分で歩いて下がった。
「……浅い」
「浅かねえだろ」
「腕は動く。動きゃ、浅い」
婆さまたちが、湯と布を持って走ってきた。土間へ運ばれるのを、粉屋は見ていた。
若い衆は、その場に座り込んでいた。
震えていた。怖くて震えているのではなかった。自分が何をしたのかが、分かってきていた。
粉屋は、その前に立った。
殴ろうかと思った。
殴らなかった。
「立て」
そう言った。
「持ち場だ。まだ夜だ」
若い衆が、顔を上げた。
「……俺、」
「後で言え。今は、立て」
若い衆は、立った。
◇
その夜は、朝まで続いた。
明け方、森の際の影が引いた。全部は引かなかった。半分ほどが残って、明るくなると、また森へ下がっていった。
東の柵は、外側の一重が、二箇所抜けていた。
杭が抜けたのではない。根元の土を掻き出されて、傾いだところを、体重で押し倒されていた。
「土を掻くゴブリンなんぞ、聞いたことがねえ」
猟師が、肩に布を巻いた格好で言った。
「聞いたことがねえのが、来てるんだ」
粉屋は、そう答えた。
答えてから、自分がずいぶん落ち着いた口をきいたことに、少し驚いた。
◇
三日目の昼、粉屋は、ジンを見ていた。
あの若いのは、櫓の上にいた。
夜のあいだ、二度、下りてきた。柵が抜けた時と、若い衆の組が割れた時だ。二度とも、崩れた場所へ真っ直ぐ来て、二つ三つ言って、また上がっていった。
昼になっても、下りてこなかった。
土嚢を積む場所を決め、抜けた杭の代わりに納屋の板を打ち、水の樽の位置を変えさせ、それから、櫓に上がった。
飯は、上で食っていた。
「おい」
粉屋は、櫓の下から声をかけた。
「降りて食え」
「ここで見えます」
「見えるのは分かった。降りて食え」
ジンは、少し黙ってから、降りてきた。
並んで座って、椀を持った。
粉屋は、横目で見た。
顔色が、悪かった。悪いというより、色がなかった。目の下が、落ちくぼんでいる。
去年の冬にも、同じ顔を見た。あの時は、五十を一晩やった後だった。
今度は、三日目だ。
「あんた」
「はい」
「夜、寝てるか」
「櫓で、目を閉じています」
「そりゃ寝てるって言わねえだろ」
ジンは、答えなかった。
椀の中身を、黙って食っていた。食い方が速かった。速いのに、味わっていない食い方だった。
粉屋は、それ以上、訊かなかった。
訊いても、この男は「大丈夫です」としか言わない。三年、ずっとそうだった。
◇
三日目の夜は、東から来た。
一本道ではなく、東の柵を、まっすぐ押してきた。外側の一重は、もう半分がない。二重目に、いっぺんに寄りかかってきた。
柵が、鳴った。
木が軋む音を、粉屋は、生まれて初めて聞いた気がした。杭がしなり、縄が伸び、土が盛り上がる。
「押さえろ!」
村長の声が、飛んだ。
男たちが、内側から柵に体を当てた。粉屋も当てた。背中で押した。向こう側から、何十という力が押してくる。人の力ではなかった。荷車を押しているような力だった。
「二本目、行くぞ!」
「持て!」
持たなかった。
杭が、三本まとめて倒れた。
穴が開いた。
◇
そこから先を、粉屋は、後で思い出そうとして、うまく順番に並べられなかった。
覚えているのは、いくつかの絵だ。
穴に、真っ先に入ってきたゴブリンの、開いた口。
その口の上に、横から板が入ったこと。板を持っていたのが、婆さまだったこと。婆さまが「そこ!」と怒鳴ったこと。
若い衆が三人、板の後ろに走り込んで、三人で一匹の形を作ったこと。
穴の内側に、いつのまにか、土嚢の壁ができていたこと。誰が積んだのか分からない。昼のうちに、そこに積むと決めてあったからだ。
そして、穴の正面に、ジンが立っていたこと。
一度も、走っていなかった。
歩いて来て、そこに立って、入ってきたものだけを、順に落としていた。
音が、しなかった。
粉屋は、柵を押しながら、それを見ていた。三年、この村の連中は、この男を寝坊助だと思っていた。粉屋自身も、そう思っていた。
去年の冬に、それが間違いだったと知った。
今、二度目に、知った。
◇
明け方、穴は塞がった。
板と、土嚢と、倒れた杭を組み直して、内側へ一段引いた形になった。柵の線が、東側だけ、村へ寄った。
畑が、一枚、外へ出た。
村長が来て、それを見て、頷いた。
「一枚で済んだ」
「済んだって言うのか、それを」
「言う。……作り直せる畑は、済んだうちだ」
粉屋は、東の空を見た。
森の際に、まだ影があった。減っていなかった。
三日目が、終わったところだった。
◇
朝飯の列に、猟師がいた。片腕で椀を持っていた。
昨夜、前に出た若い衆も、いた。
粉屋の前に来て、頭を下げた。
「……すんませんでした」
「もう言うな」
「でも」
「言うなら、一つだけ言え」
粉屋は、椀を持ったまま言った。
「昨日、俺の組は、何を守った」
若い衆は、少し考えた。
「……正面」
「違う」
「じゃあ、なんすか」
「隣だ」
粉屋は言った。
「三人で一匹ってのはな、一匹を倒す話じゃねえ。隣の奴を、一人にしねえ話だ」
若い衆は、口を開けて、それから、閉じた。
その日から、その組は、割れなくなった。




