第五十話 減った夜
◇
勇者が村を出て、十日ほどは、子供たちが勇者ごっこをしていた。
木の枝を振り回し、手のひらを開いて「火!」と叫び、火は出ないので、代わりに砂を投げた。婆さまに叱られて、井戸端から追い払われた。
半月経つ頃には、誰も勇者の話をしなくなった。
村の話題は、麦に戻った。
◇
柵の補修は、十日で終わった。
差し替えた杭は、七十三本。冬から春にかけて傷んだ分をまとめて直したので、東側は新しい木の色が続いている。
ジンは、当番表を書き直した。
炭で線を引いた板を、村長の家の壁に掛けてある。誰がどの刻に、どこに立つか。夜は二人一組で、東と西に分ける。半月ごとに組を入れ替える。
書き直していると、村長が覗きに来た。
「わしの名がないぞ」
「膝が悪いでしょう」
「立っとるだけならできる」
「立っているだけの仕事は、ありません」
村長は、ふん、と言って、それでも嬉しそうに杖をついて帰っていった。
粉屋が笑った。
「じいさん、あれ、入れてほしいだけだぞ」
「知っています」
「入れてやれよ」
「昼の見回りに入れます。日が高いうちなら、あの人がいちばん早く気づく」
粉屋は、少し黙ってから、頭を掻いた。
「……お前、そういうとこ、ずるいな」
◇
シャルロッテは、村に居着いていた。
村長の家の裏の一間が、そのまま彼女の仕事場になっている。机が一つ増え、帳面の束が壁際に積み上がり、算盤の音が、朝から夕まで途切れない。
初めのうち、村人は近寄らなかった。伯爵家の令嬢というものが、どういう生き物なのか分からなかったからだ。
夏の終わりには、勝手に入ってくるようになった。
「シャル様、うちの婆さん、去年より足が動くようになったんだが、これも書くのかね」
「書きますわ」
「病気じゃねえぞ。良くなった話だ」
「良くなった話こそ書くのですわ。……何をしたら良くなったのか、教えてくださいまし」
「何もしとらんが」
「では、何もしていないのに良くなった、と書きます」
彼女は、本当にそう書いた。
村人は、それが面白いらしかった。次の日には、別の誰かが別の話を持ってきた。井戸の水の味が変わっただの、鶏が卵を産まなくなっただの、犬が夜に吠える回数が減っただの。
シャルロッテは、全部書いた。
「あんな細かいこと、書いて何になるんですか」
フィオナが訊いたことがある。
「今は、何にもなりませんわ」
シャルロッテは、ペンを止めずに答えた。
「ですが、三年経ってから振り返った時、犬が吠えなくなった年が、何かの始まりだったと分かることがあるのです。……その時に、書いていなければ、分かりません」
◇
リゼが人の手当てをするのは、もう、当たり前のことになっていた。
夏のあいだに、四人。
鎌で足を切った男が一人。屋根から落ちた若いのが一人。子供が二人。
婆さまたちが、勝手に段取りを作っていた。誰かが怪我をすると、まず布で縛って血を止める。それからリゼを呼ぶ。呼ぶのは走れる子供の役目で、リゼを連れてきたら、必ず水を飲ませる。
「終わったら、寝かせるんだよ。この子は、やった後に眠くなる」
婆さまが、そう言って仕切った。
リゼは、手を当てるとき、必ず相手の顔を見る。
「痛い?」
「痛くねえよ」
「嘘」
「……ちょっとな」
「じゃあ、あとちょっと」
それだけの会話をして、光が消える。
見物人は、もう集まらなかった。
ジンは、それが何よりありがたかった。
◇
フィオナは、月に一度、街から戻ってきた。
「師匠、ただいま」
「その呼び方はやめてくれ」
「やめない」
彼女は、荷を下ろしながら言った。
「ギルドで、あたし、なんて呼ばれてると思う? 『師匠持ちのフィオナ』だよ。もう手遅れなの」
「誰が広めた」
「ヴィオラさん」
ジンは、天を仰いだ。
「あの人が、酒場で言いふらしてるの。うちの村に化物の師匠がいるって。……あ、化物はあんたね」
「……そうか」
「否定しないんだ」
「否定して通ったことがない」
フィオナは、腹を抱えて笑った。
◇
夜の狩りは、静かになった。
八月の終わり、三晩続けて、何も出なかった。
そんなことは、四年で一度もなかった。
ジンは、いつも通り歩いた。柵の外を回り、沢まで下り、尾根の肩まで上がって、東を見た。
森は、静かだった。
鳥は、まだ戻っていない。だが、魔物も来なくなった。
——押し出されていない。
そう思った。
奥で何かが変わったのだ。ソラがもう最奥へ着いたとは思えない。あの一行の足で、そこまでは行けない。
では、なぜ止まったのか。
◇
四晩目の朝、井戸端でエマに会った。
「今夜も、なんもなかったの?」
「ああ」
「よかったじゃない」
エマは、桶を引き上げながら言った。
「なんで、そんな顔してんのよ」
「顔」
「してるわよ。前に、狼が来なくなった冬にも、その顔してた」
ジンは、自分の頬を触った。
「……止まったのが、分からない」
「止まったんならいいでしょ」
「止め方が分からないうちは、いつまた動き出すか、分からない」
エマは、桶を置いた。
「あんたって、ほんと」
「なんだ」
「なんもない日を、なんもない日として過ごせないのね」
ジンは、答えなかった。
エマは、しばらくジンの顔を見ていた。
それから、桶を持ち上げて、家のほうへ歩き出した。
「……あんたが心配してるうちは、たぶん、大丈夫よ。あたしはそう思っとく」
◇
秋が来て、刈り入れが始まった。
七日かかった。
村中が畑に出て、日が沈むまで鎌を振った。ジンも出た。シャルロッテまで出て、三時間で腰が立たなくなり、婆さまたちに笑われながら日陰に運ばれた。
最後の束を積み終えた夜、広場に火を焚いた。
粉屋が酒を出し、誰かが笛を吹き、子供が転がって寝た。
去年より、収穫が多かった。
東の畑を作り直したことと、水路を引き直したことが効いていた。
「来年は、もう少し東を広げられる」
村長が言った。
「あの窪地の村にも、種籾を回せるかもしれん」
「回しましょう」
「……そうか」
村長は、火を見ていた。
「わしが村長になってから、こんな年は、初めてだ」
◇
火が小さくなった頃、シャルロッテが席を立った。
戻ってきた時、手に一通の書状を持っていた。
顔から、酒の色が消えていた。
「ジン」
「はい」
「今日の昼に、早馬が来ておりました。……祝いの席で出すことではないと思って、黙っておりましたの」
彼女は、書状を開いた。
「父から。……北の国境で、ヴェルガ帝国が動員を始めております」
笛の音が、止まった。
「規模は」
「まだ分かりませんわ。ですが、王都が兵を北へ回すという触れが出ています。……三年、返事をよこさなかった王都が、初めて、こちらへ書状を送ってまいりました」
「なんと」
シャルロッテは、書状を畳んだ。
「『東方より侵入の恐れあり。各領において、街道の警戒を厳とされたい』」
火の粉が、一つ上がって、消えた。
ジンは、東の空を見た。
——止まったのではない。
そう思った。
溜めていたのだ。




