第五十一話 そこが道になる
◇
翌朝には、村中が知っていた。
刈り入れの祝いの席で書状が読み上げられたのだから、当然だった。夜のうちに、話は尾ひれをつけて家々を回り、朝には「帝国が攻めてくる」という一行になっていた。
村長の家の土間に、人が集まった。
入りきらず、外の土手にまで人が座った。子供が縄跳びをしていて、婆さまに引っぱっていかれた。
村長は、まず、頭を数えた。
「六十八」
そう言って、杖を置いた。
「畑に出とるのが二人。寝とるのが一人。……七十一だ。全員おる」
それから、シャルロッテのほうへ顔を向けた。
「令嬢様。まず、正しいところを教えてくだされ。皆、噂で腹をこわしとる」
◇
シャルロッテは、机の上に地図を広げた。
村の絵図ではない。もっと広い、辺境ぜんたいの地図だった。北の国境から、東の大魔境の縁まで、街道が細い線で引いてある。
「わたくしの父が動員の報を受けたのは、六日前ですわ」
彼女は言った。
「北の国境で、帝国が兵を集めております。数はまだ分かりません。王都は、兵を北へ回します。……ここまでは、三年前から誰もが言っていたことですの」
「んで、なんで、うちの村に触れが来る」
粉屋が訊いた。
「北で睨み合うなら、北の話だろうが」
「北で睨み合うから、東が空くのですわ」
シャルロッテは、地図の上を指でなぞった。北の国境から、右へ。大きく回り込むように。
「北で正面から押し合えば、双方、何万も損をいたします。ですから、回ろうとする者が必ず出ますの。……東から、回るのですわ」
指が、大魔境の縁を回って、こちらへ下りてきた。
「東から回れる道は、三本」
彼女は、その三本を順に押さえた。
「北の二本は、峠を越えます。冬は雪で塞がりますし、荷が続きません。使えるのは、南のこの一本だけですわ」
指が、止まった。
紙の上の、小さな四角の上だった。
「リンデ村」
土間が、静かになった。
「この村は、その一本の、戸口に建っておりますの」
◇
誰も、すぐには声を出さなかった。
やがて、猟師が言った。
「……逆に言やあ、うちを通らにゃ、通れねえってことか」
「そうなりますわ」
「そりゃ、まずいな」
猟師は、頭を掻いた。
「まずいってのは、うちが強えって話じゃねえ。うちが、邪魔だって話だ」
村長が、頷いた。
「そういうことだ」
ジンは、地図を見ていた。
三年、東の森ばかり見てきた。森の向こうに何があるかは、シャルロッテの帳面で知っていた。だが、線で引かれてみると、話が違って見えた。
村は、森と街道の間にある。
それは、守りやすい場所という意味ではない。避けて通れない場所という意味だった。
◇
「一つ、聞いてくだされ」
ジンは、そう言って立った。
土間の顔が、いっせいにこちらを向いた。三年前なら、誰も顔を上げなかっただろう。今は、全員が向く。それにはまだ、慣れない。
「村を空にすることを、考えてください」
土間が、ざわめいた。
「……なんだと」
粉屋の声だった。
「お前が、それを言うのか」
「はい」
「三年、柵を打ってきたのは、誰だ」
「俺です」
ジンは言った。
「だから言います。あの柵は、魔物のためのものです。人には効きません」
彼は、順に並べた。
「鳴子は、獣が縄に触れて鳴ります。人は、触らずに越えます。逃げ道は三本ありますが、あれは村の外へ逃がすための道です。外を兵が押さえていれば、逃げ道ではなく、追い込む道になります」
「……」
「六組の稽古は、一匹を三人で止めるためのものです。訓練された兵は、三人で止めるようにはできていません。向こうも、三人で来ます」
粉屋が、口を開いて、閉じた。
「俺が夜に出れば、いくらかは減らせます。ですが、兵は森を通りません。街道を来ます。昼に来ます。……止まりません」
ジンは、言い切った。
「一人では、止まりません」
◇
土間の奥で、婆さまの一人が、ぽつりと言った。
「……逃げるのかい」
「はい」
「どこへさ」
「グレンツです。それから、伯爵様の御領のどこかへ」
「戻ってこられるのかい」
ジンは、答えなかった。
答えたのは、シャルロッテだった。
「わたくしが、数えましたわ」
彼女は、帳面を開いた。祝いの席から一睡もしていない顔をしていた。
「この二十年で、辺境から人が退いた村は、十一。そのうち、人が戻って麦を蒔き直した村は、四つですの」
「……四つ」
「三つに一つ、と申し上げるべきですわね。残りは、地図から消えました」
婆さまは、それきり黙った。
「戻れないのは、なぜですの、とお思いでしょう」
シャルロッテは、静かに続けた。
「難しい話ではありませんわ。冬を越す費用が要ります。種籾を食べてしまいます。若い者は、街で仕事を覚えます。……三年経つと、帰る理由が、なくなりますの」
◇
村長は、ずっと、杖の先を見ていた。
やがて、顔を上げた。
「ジン」
「はい」
「あんたの言うことは、正しい」
「……」
「わしも、そう思う。兵が来たら、柵は役に立たん。あんた一人でも足りん。……逃げるのは、恥じゃねえ。窪地の村は、逃げて四十人助かった」
老人は、そこで一度、息を継いだ。
「だがな」
杖が、土間を突いた。
「わしらが逃げたら、そこが道になる」
◇
誰も、何も言わなかった。
「東から来る奴らは、この戸口が邪魔で、まだ来られんのだ。ここに人が住んどって、柵があって、灯りがついとる。だから、勘定に入る。……人がおらんくなった村は、勘定に入らん。ただの、通り道だ」
村長は、地図の上の四角を、杖の先で指した。
「わしらが出ていった三日後に、ここを通った奴らは、どこへ行く」
「……グレンツですわ」
シャルロッテが答えた。
「グレンツの向こうは」
「街道沿いに、村が九つ。それから、伯爵領の平地に出ますわ」
「九つ」
村長は、その数を口の中で転がした。
「わしらが助かるために、九つに、うちと同じ相談をさせるわけだ」
粉屋が、低く唸った。
「……じいさん。それ、格好つけてねえか」
「つけとる」
村長は、あっさり認めた。
「格好つけとるがな。粉屋。わしはもう、村を一つ、地図から消すのを見た。窪地じゃねえ。あんたが子供の頃だ。北の、名前も出さん村だ。……あの時、わしは、逃げた側の理屈を全部聞いた。全部、正しかったよ」
老人は、杖を握り直した。
「正しかったが、村は無くなった」
◇
日が高くなるまで、話は続いた。
出ていくべきだという者がいた。残るべきだという者がいた。どちらも怒鳴らなかった。三年前なら、怒鳴り合いになっていただろう。今は、皆、数の話をした。
麦の量。薪の量。井戸の数。歩ける者と、歩けない者。
ジンは、途中から、ほとんど喋らなかった。
喋る代わりに、数えていた。
七十一のうち、鍬を振れるのが二十二。老人が十四。子供が十九。動けない病人が一人。残りが、女たちだった。
——二十二で、何日、持たせられるか。
考えている自分に気づいて、ジンは、少し嫌な気持ちになった。
自分は、もう、残る側の勘定をしていた。
◇
昼過ぎに、村長が決めた。
「歩けん者と、子供を出す」
杖が、土間を突いた。
「婆さまも、爺いも、全部だ。グレンツまで、荷車で二日。令嬢様に文を書いてもらう。……三日後の朝に出す」
「じいさんは」
「わしは残る。村長が抜けた村を、誰が村と呼ぶ」
「……理屈が合わんぞ」
「合わん」
村長は、笑った。
「歳を取ると、合わんことを一つだけ、通していいことになっとる」
粉屋が、天井を仰いだ。それから、諦めたように頭を掻いた。
「三日後だな。荷車、うちの二台出す。車輪、直しとくわ」
◇
夕方、ジンは井戸端で水を汲んでいた。
エマが桶を持って来て、隣に立った。
「三日で、まとまるかな」
「まとまらせるしかない」
「そうだね」
エマは、釣瓶を落とした。縄が鳴った。
「ねえ」
「なんだ」
「あんたが逃げようって言ったの、初めて聞いた」
ジンは、手を止めた。
「……そうか」
「うん。ずっと、なんとかしますって言う人だと思ってた」
エマは、水の面を覗き込んでいた。
「なんとかならない時は、ならないって言うんだね」
「言う」
ジンは言った。
「言わないと、間に合わなくなる」
エマは、それきり何も訊かなかった。
桶を持ち上げて、家のほうへ歩き出して、それから振り返った。
「あたしは、残るからね」
「エマ」
「三日後の荷車に乗る歳じゃないもの」
そう言って、彼女は行ってしまった。
◇
その夜も、ジンは森へ出た。
東の森は、静かなままだった。
沢まで下り、尾根の肩まで上がって、東を見た。何もいなかった。夏の終わりから、ずっと、何もいない。
——溜めている。
そう思っていた。魔物のことだ。
だが、地図を見た後では、別のことも考えるようになっていた。
森の向こうにも、人がいる。
その人たちも、たぶん、数を数えている。麦の量ではない。兵の数と、日数と、道の本数を。
ジンは、東の闇を見ていた。
村の灯りは、背中の遠くで、いつも通り小さかった。




