第四十八話 俺の戦場はここだ
◇
四日目の朝、靄が大菩提樹の根元に溜まっていた。
井戸で顔を洗っていると、後ろに人が立った。
「なあ」
ソラだった。
寝癖のついた頭で、鎧も着ていなかった。
「決めた」
「はい」
「お前、俺の仲間にしてやる」
ジンは、手を止めた。
「……は」
「腕は認めてんだよ。地味だけど、使えるだろ。あの七匹の時も、いちばん早く気づいてたし。……名誉なことだと思うけどな?」
ソラは、そう言って笑った。
からかっている顔ではなかった。本当に、いいことをしていると思っている顔だった。
◇
ジンは、桶を置いた。
——断るのは、簡単だった。
村を離れられない。理由は、それだけで足りる。伯爵にも、同じ理由で断った。
だが、この少年には、それだけで済ませても伝わらないだろうと思った。
だから、少し時間をかけて答えることにした。
「ソラさん」
「なんだよ」
「あなたが奥へ行って、押し出す何かを止めたとします」
「おう」
「そうしたら、この村に、魔物は来なくなりますか」
ソラが、口を開けた。
「……減るだろ」
「減ります。三年前の数に戻るでしょう」
ジンは言った。
「三年前も、魔物は来ていました。その前も、その前も。……ダンという冒険者が、四十年、毎朝森を歩いていました。押し出しなど、なかった頃からです」
「……」
「森があって、村がある。それだけで、毎晩、何かが出ます。それは、誰かが止め続けなければ、止まりません」
靄が、少しずつ薄くなっていた。
「あなたが止めるのは、この三年の、余計な分です。それは、大きい。……ですが、余計な分がなくなっても、元の分は残ります」
「元の分」
「毎晩です」
◇
ソラは、しばらく黙っていた。
「……終わりがねぇのに、やんの?」
「はい」
「なんで」
「終わりがないから、続けるんです」
ジンは言った。
「畑と同じです。今年耕したから、来年は耕さなくていい、ということにはならない。……終わらないことを、終わらないまま続ける。それが、人が生きるということだと、俺は思っています」
ソラは、その言葉を、少しのあいだ、頭の中で転がしている顔をした。
そして、言った。
「意味分かんねぇ」
「……はい」
「畑の話してねぇじゃん、俺。魔王の話してんだけど」
ジンは、答えなかった。
答えても、通じないと思った。
◇
「すまぬ」
「あ?」
「一緒には、行けません」
靄の向こうで、村が起き始めていた。誰かが井戸へ来る足音。竈の煙。犬が吠え、子供が泣いて、婆さまが何か怒鳴っている。
いつも通りの朝だった。
「俺の戦場は、ここだ」
ソラは、その音を聞いていなかった。
聞こえてはいたのだろう。だが、聞いてはいなかった。
「……は?」
ソラは、心底わけが分からないという顔をした。
「なんで断んの」
「村があるからです」
「いや、そりゃあるだろ。だから何」
「……」
「あんた、強ぇんだろ。俺のパーティ入れば、レベルなんか一瞬だぞ。……だったら、こんなとこにいて、何になんだよ」
ジンは、東の空を見た。
靄が、少しずつ晴れていた。
「あなたには、ここが何もない場所に見えますか」
「見えるけど」
ソラは、あっさり言った。
「悪い意味じゃなくてさ。マジで、なんもねぇじゃん」
◇
そこへ、杖の音が近づいてきた。
エルネスタだった。
「ソラ」
「なんだよ」
「一つ、言い忘れてたことがあるの」
彼女は、あくびをしながら言った。
「あなた、連れて来られたのよ」
「……は?」
「この村に来る道、私が引いたの。あなた、地図も見てないでしょう」
ソラの顔が、赤くなった。
「三日前に言おうと思ったのよ。でも、言う機会がなかったの。あなた、人の話を聞かないから」
「いや、ちょっと待てよ」
ソラは、エルネスタとジンを交互に見た。
「じゃあ何、俺、勝手に連れて来られて、勝手に断られたってことかよ」
「そうね」
「……意味分かんねぇ」
ソラは、そう言って、背を向けた。
「もういい。行くぞ、支度しろ」
◇
一行が発ったのは、その日の昼だった。
村の入り口に、見送りが集まった。子供たちが、勇者の名を呼びながら走り回っている。
アリシアが、ジンの前に立ち、深く一礼した。
「三日、ありがとうございました」
「はい」
「……あの、いつか、また稽古をつけていただけますか」
「機会があれば」
「約束ですよ」
アリシアは、そう言って、少し笑った。それから、声を落とした。
「ソラは、ああいう男です。ですが、悪意ではありません」
「分かっています」
「……はい。ありがとうございます」
◇
リディアは、静かに近づいてきた。
「ジン様」
「はい」
「一つ、申し上げておきたいことがございます」
聖女は、声を落とした。
「妹君のことです」
ジンの目が、動いた。
「わたくしは、教会の人間です。……あの光を見て、何も気づかなかったふりをすることは、できません」
「……はい」
「ですが」
リディアは、静かに続けた。
「報告は、いたしません」
ジンは、リディアの顔を見た。
「わたくしは、七つの年に見出されました。それから今日まで、自分で決めたことが、一つもございません。どこに住むか、誰と話すか、何を祈るか。……全部、決められてまいりました」
彼女は、村の中を見た。縄を運ぶ小さな背中が、井戸端を横切っていくところだった。
「あの子には、選ばせておあげなさいまし」
ジンは、頭を下げた。
長く、下げていた。
「お顔を上げてくださいまし」
リディアは、初めて、少しだけ笑った。
「わたくしは、何もしておりません。……ただ、黙っていただけですわ」
「それが、いちばん難しいことです」
「そうかもしれませんね」
聖女は、そう言って、馬のほうへ歩いていった。
◇
エルネスタは、通りすがりに言った。
「令嬢に、話しておやりなさい」
「はい」
「それと。……あんた、うちの勇者を嫌いになった?」
ジンは、少し考えた。
「いえ」
「あら」
「あの人が奥へ行かなければ、来年も同じことが続きます。……俺には、絶対にできない仕事です」
エルネスタは、目を丸くした。
それから、笑った。
「あんた、本当に嫌なやつね」
「……はい」
「褒めてるのよ」
◇
ソラは、最後まで振り返らなかった。
馬を引いて、街道へ向かい、柵の門をくぐる時、片手だけを上げた。
「じゃあな」
そして、こう続けた。
「……粉屋のおっさん」
粉屋が、目を丸くした。
「おう」
返事をした時には、もう白い背中は遠かった。
「……なんだ、あいつ。名前、覚えてやがったのか」
粉屋は、そう言って、頭を掻いた。
ジンは、何も言わなかった。
ただ、遠ざかる四つの影を、しばらく見ていた。
◇
その夕方、ジンはシャルロッテを訪ねた。
村長の家の裏、貸してもらった一間で、彼女は帳面をつけていた。
「あら。珍しいですわね、あなたから来るなんて」
「一つ、お伝えしたいことがあります」
ジンは、そう言って、エルネスタから聞いたことを、そのまま話した。
十一通のこと。ゼロの数字のこと。それを読んだ人間が、西の国にいたこと。そして、その紙が、勇者一行の進路を引いたこと。
シャルロッテは、途中から、ペンを置いていた。
聞き終わってからも、しばらく、何も言わなかった。
「……王都は」
やがて、彼女は言った。
「王都は、読まなかったのに」
「はい」
「読んだのは、教国の魔導士だったと」
「王国の、です」
「どちらでも同じことですわ」
シャルロッテは、机の上の帳面を見た。二十年分の数字が並んでいる、あの束を。
「……笑い話ですわね」
「そう思いますか」
「思いますわ。三年、書いて、返事は判で押したような十一通。それが、まったく関係のないところで、一度だけ役に立った」
彼女は、そう言って、笑おうとした。
うまく笑えていなかった。
「一つだけ、訂正させてください」
ジンは、言った。
「なんですの」
「役に立ったのは、一度ではありません」
「……」
「三年、同じ形式で、同じ場所に、同じ数字を書き続けたから、ゼロが目立ったんです。一度だけ書いた紙なら、誰の目にも留まりません」
シャルロッテは、顔を上げた。
「あなた、ずるいですわ」
「そうですか」
「ずるいですわよ。人を、そういう風に勘定に入れるところが」
彼女は、袖で目のあたりを押さえた。
そして、ペンを取り直した。
「……書きますわ。今日のことも」
「はい」
「読まれなくても、書きます。……いつか、誰かが、まったく別の理由で読むかもしれませんもの」
◇
その夜も、ジンは森へ出た。
村を出る時、東の空に星が出ていた。
一行はもう、街道の先の宿場町あたりだろう。あの少年は、南へ回って、それから東の入り口へ向かうと言っていた。
半年か、一年か。
そのあいだに、この村には明日の夜が来る。
明後日の夜も来る。
ジンは、森の際に立ち、耳を澄ませた。
風の音。梟が一度鳴いて、やんだ。
東の奥のほうに、まだ、何かがいた。
見られてはいなかった。
だが、いた。




